ロマンチスト・エゴイスト

灰崎千尋

ぐるり

 土曜の昼過ぎ、池袋駅構内はいつも通りごみごみとしていた。

 俺は改札へ向かう人の波からなんとか抜け出し、埼京線に乗り換えようとホームへ上がる。当然、そこにもずらりと人が並んでいて、少しでも空いた列が無いかとぼんやり歩いていくうちに、見慣れた顔があるのを見つけた。


「あれ、英人じゃん。何してんの」


 声をかけた相手は、ばっと勢いよく振り向いて、低めの位置に結んである黒髪が馬の尻尾のように揺れた。いつも不機嫌そうな奴だが、今日は一段と良くないらしい。額と眉間に寄った皺がやけに濃い。


「電車待ってる」

「うん、そりゃそうだ。どっか行くの?」


 そう尋ねると、何故か攻めるように睨まれた気がした。それから英人は短く溜息をつきながら、俺から顔を逸らす。


「そのつもりだったけど、意味が無くなった」

「え、何、おれのせい? なんかごめん」

「わかんないくせに謝るな、馬鹿」


 英人はいつもこんな調子なので、あまり人を寄せ付けない。しかし俺はそんな中でも英人の友達と言える一人、だと思っていたのだが、ちょっと自信が無くなってきた。


「んー他の車両空いてないか見てみるわ、じゃあ」


 そう言って英人から離れようとしたその時、近くから短い悲鳴が聞こえた。

 一斉にホームの視線がそちらへ集まり、ざわりと波紋が広がる。と同時に、水が油を避けるように何かを囲んで人だかりができる。俺は図らずもその人だかりの一人となってしまって、中心がよく見えた。そこには蹲る女性と真っ赤な血、そして刃物を持った男がいた。

 全身が総毛立つ。ホームの上はパニックで、殺到した人たちであっという間に階段が塞がれた。その間にも血だまりは広がっていく。小さなナイフを握りしめた男は細長い体を丸めたままふらりと立ち上がって、こっちへ振り返った。まずい、正面からは流石に取り押さえられない。表情というものを無くしたような顔で男はナイフをまた構える。その視線の先は───英人だ。


「おい、英人!」


 その腕を引っ張ってみたが、何故か頑として動かない。すっかり青ざめているくせに、唇を引き結んで、ふるふると首を横に振る。

 俺はそこまで嫌われていたのだろうか。いや、それでも。

 刃が迫る。

 俺は肩から思い切り英人へ体当たりした。俺より一周りほど小柄な英人は吹っ飛んでいったが、刺されるよりはマシだろう。

 カッと腹の辺りが熱くなる。少しの間の後、ナイフが引き抜かれて熱が猛烈な痛みに変わる。心臓が脈打つたびに血が流れ出た。口からは呻きが漏れて、膝を着くしかなくなる。見上げた男の顔には、先ほどとは違って蔑みが浮かんでいるような気がした。


「和希!」


 悲鳴のように英人が俺の名を呼ぶ。

 その瞬間、周りがまた騒がしくなったかと思うと、制服を来た人たちによって刃物の男はようやく取り押さえられたようだった。


「なんで、どうしてお前は……!」


 英人が駆け寄ってきた。手を握られているらしいが、どうも感覚が無い。視界がぼやけて、音が遠くなって、英人の声だけがぼんやり響く。こんなひとりぼっちを、英人が味わわなくて良かった。

 そう思ったのが、声に出ていたのだろうか。最後に聞こえたのは、英人のこんな言葉だった。


「お前って、ほんと馬鹿」

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