第5話 一年後の日常

春の訪れが近づき、街の桜の木々が淡いピンク色の花を咲かせ始めた。冷たい冬の風がやわらぎ、暖かい陽射しが陽菜の家の窓辺を照らしていた。佐藤陽菜は、息子の亮太を失ってから一年が経つ今も、彼の記憶を胸に日々の生活を送っていた。


陽菜の朝は、亮太が使っていたギターの音が静かに響く部屋で始まる。ギターはもう誰も弾くことはなく、ただ静かにそこに佇んでいるだけだったが、その存在が彼の思い出を強く感じさせた。亮太の遺した楽譜や、彼が大切にしていた写真が棚に並び、彼の気配が今も家中に満ちていた。


陽菜はキッチンで朝食を準備しながら、窓の外の風景に目をやる。春の光が優しく庭を照らし、色とりどりの花が咲き誇る様子は、まるで新たな命が芽吹く瞬間を告げているようだった。しかし、その美しさが彼女の心に響くことは少なかった。亮太の不在が、彼女の心に深い影を落としていたからだ。


彼女は仕事に追われる日々を過ごしていた。フリーランスのイラストレーターとして、多忙な毎日を送ることで、息子を失った悲しみを少しでも紛らわせようとしていた。仕事場の机には、亮太の写真が飾られており、その写真に向かって微笑みかけることで、一日の始まりを感じていた。


昼間、陽菜は街を歩きながら、ふとした瞬間に亮太の思い出が蘇ることがあった。学校帰りに立ち寄った公園や、一緒に通った音楽教室の前を通るたびに、彼の笑顔や声が頭の中に響く。桜の花びらが風に舞い散る中で、亮太との幸せだった日々が遠い過去のように感じられた。


夕方、陽菜は亮太の部屋に入る。そこには、彼が使っていた机やベッド、音楽機器がそのまま残されている。彼が最後に書いた「Lemon」の手紙も、大切に保存されていた。彼女はその手紙を手に取り、彼の愛と感謝が込められた言葉を再び読み返す。その瞬間、亮太の存在が少しでも近くに感じられた。


夜になると、陽菜は亮太のために祈りを捧げる。ベランダから見上げる星空は、まるで彼が見守っているかのように輝いていた。亮太の死から一年が経ち、彼女は日々の生活に追われながらも、息子の記憶と共に生き続けていた。彼の愛が、彼女の心の中で永遠に輝き続けることを信じて。


陽菜は、亮太の遺した夢を叶えるために、新たな一歩を踏み出す決意を固めつつあった。彼の愛と記憶を胸に抱きながら、彼女の人生は少しずつ新たな光を見出していく。春の風が優しく彼女の髪を揺らし、桜の花びらが舞い散る中で、陽菜は新たな希望を見つける旅の始まりを感じていた。

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