地底来幻怪生命体群襲災害。通称「旧都大怪災」。

  七月五日午後、当時の東京都新宿区を中心に突如未確認生命体が出現し、都民を無差別に襲撃した。

  人的被害は死者一三七三名、行方不明者七十二名、怪我人は一万名を超える。さらに、災害対策本部内研究機関が結論として、未確認生命体が再出現する確率は零ではないと発表を行ったことから、東京都特別区は一般住民生活困難地域に指定され、すべての住民に三年以内の居住地変更登録が義務付けられた。

  三年後、国会において首都移行令が採択され、内閣府をはじめとする行政機関は大阪方面に移転。企業もあらゆる地域へと中枢機能の移行を余儀なくされた。

出現した生命体は既存の動物の姿を模っているが、自身と外界を隔てる輪郭以外は全て半透明の物質で構成されており、その物質自体は「水のようだった」「花が咲いているように見えた」「炎の揺らめきに似ていた」と目撃者の認識にばらつきがあるほか、映像等からは特定の物質とは断定できず、未知の存在の可能性も視野に入れながら現在も研究機関が分析を進めている。

  今日までの調査の結果、生命体はマンホール等を通じて地下層から現れた可能性が高いこと、哺乳類型・鳥類型・爬虫類型など計二十前後の姿態が確認されていることが明らかになっているが、未だ全容解明には程遠い。

  発生当時は各所で警察官が対応にあたったが、前例のない事態であり現場は混乱を極め、多数の警察官が発砲までに至らず犠牲となった。発生から二時間ほど後に、日本国陸上防衛軍五二三特別編成部隊が出動したが、5―2―3遺伝子配列(※)内有者による部隊編成はこれまでその存在を非公開としていたため、諸外国からは内閣府と防衛省の隠匿行為に対し少なからず非難の声が上がった。

 (※ いわゆる五十嵐・天羽説の定義に基づく。)

「……目が滑る」

 車窓モニターを瞳孔の動きに合わせて流れていたニュースの文字が動きを止めた。AI記者による自動生成新聞の人気の無さは、文章の遊びの無さに理由があるのではないか、と眉間を揉みながら文字の並びを一瞥。むろん、難解な単語をタップすれば辞書リンクを開く拡張機能があるが、この記事には必要ない。

 十年という月日が経った今も、その傷跡はまだ膿んでいる。人間の歴史を大きく揺るがす災害から経過した時間は、一粒の涙よりもわずかだ。国内総生産は未だ回復の兆候すらなく、震災不況は進化すらしている。失業者や災害孤児の対応も進んでおらず、街角で冷たくなった無縁仏すら行くところがないという。

 しかし、祥雲にとっては長い十年だった。そう感じさせるのは、児童から学生への成長が理由か、それとも彼の生活環境の大きな変化のためか。

 どこかの病院で目が覚めた後、祥雲は大多数と同じく、大阪へ引っ越すことになった。水面の雇っていた家政婦の中年女性は、祥雲を新しいマンションの部屋まで送り届けると仕事を終えた。すぐに新しい家政婦がやってきた。男性だった。

 母さんは生きてるらしい。と、思った。が、その時にはもう、以前のような母に会いたいと切望する気持ちはすっかり消えてなくなって、ただ砂漠の真ん中に立っているようだった。毎日はただ消費される時間の流れになった。しばらくは笑顔もなかったが、じきに精神の裂傷は癒えていった。

 ふと、モニターの画面が黄色く切り替わった。大きな車内放送という文字がそれぞれの席の車窓に映し出される。

「お客様にご案内します。本列車は、旧都大災害十年の式典開催に伴う臨時特別高速列車となっております。これより約十分後に、一般市民進入不可区域へ進むため、防衛省の境域関門を通過いたします。その際、法律の定めるところにより、車内において全てのお客様の乗車許可証の確認とマイナンバー識別を行います。お客様におきましては、速やかに識別チップまたはカードのご準備をお願いいたします。一斉検査時間内にご対応いただけない場合、いかなる事情があっても境域関門にてお降りいただくこととなりますので、余裕を持ってご準備ください。検査はこれより十分後に行います。ありがとうございます」

 モニターには放送内容と一言一句同じ文字列が並んでいた。放送が終わると同時に、検査まで十分というカウントダウンと、詳しい内容を表示するリンクが現れる。非表示不可。

 祥雲は右の手首を裏返した。個人識別番号を含む個人情報を記録したチップは基本、生まれて二十四時間以内に右手首に挿入される。親が拒否すればカードでの携帯を選ぶこともできるが、チップ未挿入者は今では全人口の二パーセントに満たない人数にとどまっており、多くが高齢者だ。

 簡単なイラストと簡潔な説明で、車窓モニターの識別部分にかざすだけで検査は終了することがわかる。モニター表示の奥の空の青を眼の中の青に流しながら、祥雲はカウントダウンの数字が少なくなるのを待った。

「すみません。少し、お聞きしたいんですが」

 六十パーセントほどの乗車率の車内で、祥雲がその声を聞いたのは、五分ほど経った頃である。優しさを繕ったような女性の声だった。硬いダイヤモンドを真綿で包んだような響きを持っていて、それがかえって魅力的に祥雲少年を振り向かせた。

 まず、サングラスがあった。濃い色に目元の影すら覆われて、その顔貌すべてを知ることはできない。できないというより、その行為は許されていないように思われた。

 それから、つばの大きい帽子を顔が見えるように被っていた。耳の下から金糸の束のような潤んだブロンドの髪が、こちらに低く体を傾けた重力で肩の前側に垂れている。

「あ、ええっと。どうしましたか?」

 十八歳、思春期。十年間の母親の不在が祥雲の青春をひねくれたものにさせたということは幸いなかったが、この美しいという形容詞をイメージ出力したような女性との会話は、青い心を少し硬直させた。

「この検査は、カードをここにかざせばよろしいんでしょうか?」

「えっと、はい。五分後の検査時間にピッとするだけで……」

「わかりました。ありがとう。ごめんなさい、さっきのアナウンスで少し緊張してしまって……確認したかったんです」

 カードを携帯している人に初めて祥雲は出会った。女性は艶のある髪も、口元の紅も若々しく、自分の母よりももっと若いと見受けていただけに、祥雲は雨の中に虹を見た時のような気持ちを抱きながら、女性の言葉にうなずいた。もっとも、祥雲は今の母の姿など想像はおろか、存在すら信じられずにいるのだが。

「試験を受けに行かれるんですか?」

 女性は軽い会釈から顔を上げると微笑みながらそう言った。

 検査時間のカウントダウンはまだ五から変わっていない。祥雲はそれを女性に悟られないよう横目で確認したが、そうした気遣いがなんだか徒労に思えるのもまた事実であった。

 試験。七月五日という日には、犠牲者を慰霊する式典のほかにそのアバウトな二文字で通じるものが催されている。

 内閣府直属五二三特別編成軍、一般呼称「アルテミス」の入団試験。

 体内に5―2―3遺伝子配列という特殊な遺伝子を有するホモ・サピエンスの次の進化系。ヒトという動物の枠をついに破り、自然さえもその手中に収めんとした傲慢な能力を有する新たなる人類。彼らは水、火、植物、風、光の五原柱のいずれかに属し、条件や範囲に差はあれどそれぞれ物体や事象を思いのままに操ることができる。それらがいつから存在していたのかは不明だが、七十年前に日本の遺伝子学者がその存在を解明、理論を発表し、その三十七年後、実際の配列が確認された。

個人の攻撃能力の高さの上昇による軍事利用が危惧され、発見直後の国連総会では便宜上戦闘行為に利用することは禁ずるとされていたが、旧都大怪災ののち、防衛軍の五二三部隊の存在は日本国民のみならず全世界に存在が知れ渡ってしまった。

とはいえ、現状は地幻獣という未知の存在に相対する緊急事態。政府は日本国民を守るためのやむを得ない手段として、防衛軍の五二三部隊を独立させ、大怪災の三年後、旧東京都庁に本部を置く内閣府直属の軍「アルテミス」を東京に配置したのである。

 彼女の口にした試験とは、その「アルテミス」の地幻獣に対抗するための勢力拡大を目的とした、七度目の入団試験に違いなかった。

「はい……そうです」

 何を隠そう、彼女の推理に間違いはない。祥雲の小さい肯定は、自信の無さと緊張の表れでもある。それを覚ってか、女性は青みがかったピンクのリップの弧をいっそう深めた。

「そうですか。きっと大丈夫。がんばってくださいね」

 それから、自身の鞄を少し探って、

「これ。息子が小さい時に買ったおもちゃなんですけど。お守り代わりにどうぞ。あの子、防衛軍に入るのが夢だったから」

 と白い掌にバッチを載せて祥雲へと差し出した。防衛軍のエンブレムが刺繍された、軍にあこがれる子供のための公式グッズだった。

「あ、えっ、いいんですか?」

 式典に向かう女性。息子のおもちゃ。過去形の夢。それは、今は亡き命の思い出のはずである。

「いいんです。思い出はたくさんありますから。防衛軍とは少し違うけど、あの子の分まで、頑張って」

 サングラスに隠れた表情がわずかに見えた気がして、祥雲はバッチを指で持ち上げた。ざらざらとした刺繍の手触りが指先をくすぐる。

「ありがとうございます。がんばります」

「ええ。応援してます。検査のこと、教えてくれてどうもありがとう。ではまたどこかで」

 女性が屈めていた腰を伸ばすと、香水よりも柔らかく、シャンプーよりも鮮やかな香りが漂って、じきに流れて消えていった。

 カウントダウンが三に切り替わる。

「お客様にご案内します。当列車はただいま、特別警戒区域内へ入りました。これより、お客様ならびに当列車には東京都特別警戒区域設置に伴い制定された特別法が適用されます。非常の際は、乗務員もしくはアルテミス構成員の指示に従うことが定められております・・・」

ちらとモニターの文字の向こう側を見やると、窓の外に変わり果てた故郷が小さく見えた。


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女神の箱庭 たいら @K_KAMIKITA

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