法民聡一(ほうみんそういち)~(『夢時代』より)
天川裕司
法民聡一(ほうみんそういち)~(『夢時代』より)
~法民聡一(ほうみんそういち)~
或る麗らかな春の日に、法民聡一は裏校舎一階の土手が見える理学研究所に居た。〝やっぱり俺には理系は合わないなぁ〟がこの時の聡一の口癖であって、周りに誰も居ないのを良い事にずっと呟き、当ての無い学問の課題に唯ひたすら、身と煩悩とを投じて居る様である。心には理想のあの娘が何度でも甦る。
「いつ見てもここから見える、高原の様な殺風景な土手には、俺の心に温もりと人肌の様な懐かしさを思わせるものがある…。好い加減もう出て行かなきゃ」
さっきからずっと呟いて居るが一向に腰を浮かそうとはせずに何やら図鑑の様な分厚い本をじっと眺めて居て、口は既に固まりつつあった。誰も居なかったので教室の電気は消して居り、昼間の陽光がすっと差し込んで来る中聡一はついに本を投げ出して、机を並べてその上に寝転がった。色々な教室内のポジションに思うがままに立ち、座り、寝転びして、束の間の談笑の時間を一人で持って居た。突然パフェが食べたいと思った。ここから出て帰る途中、知ってる店で食べようと決めた。
高原の向こうの方から一筋の煙が昇って居た。暫くじっと眺めて居る。風は殆ど無く、煙は揺ら揺らとゆっくり、止まって居るかの様にして昇って居る。一瞬桜島の噴煙を思い出し、しかしここには桜島は無いと笑った。海が割れる事を想像してみる。果たしてそこに自分が求める宝(財産)の様な物は在るだろうか、自分の理想の人はそこに居るだろうか、色々想い、考えながらやはりじっくりとぼうっとして居た。高原には誰も居らず、人っ子一人走らず歩かず、はた又用事で来て居る者も居ない。聡一には高原がのんびり屋に見えた。自分ものんびりして居るけれど、この高原はずうっとこんな調子で人から何かされない限り、体裁変えずにのほほんとして居たのだろう。
「よし、ここを出てあそこへ行ってみよう」
聡一は自然から生気・活力の様なものを得た様で、吸いついて居たお尻をテーブルの表面から離した後、先ずは教室の窓からゆっくりとのんびりと、高原から目線を上空へと逸らして快晴の空に煙と同じ位、いやよりゆっくり動いて居る様な雲を眺めた。
「この雲も、煙も、公園も、高原も、人工も、教室も、研究所…いや研究も、一体俺に何を突き付けて居るんだろう。俺は今まで知識を沢山得て来て、この先何を創れるのか?自分だけの物を創りたい。他の人から何を言われても崩れない様な、強い〝信念〟を創ってみたい…」
いつになく心中で多弁に成った聡一は、教室を出た。聡一は元々文学部出身で在り、この色々と加工の最前線を走って居る国立大学の国文科から美学・芸術学科へ転部したのである。聡一は親や周りからここへ入学する前に、「法学部へ入れ」と散々言われて居り、その時はついその気に成って居た。付き合って居た女から「あなたは理系が向いてるんじゃない?」と言われて、又ついその気に成った。彼はしかし、法学は好きだった。幼少の頃から〝法学〟に関する本を読み漁り、TVでも国会中継から中継裁判、裁判物のドラマまで懸命に見入り、何とか自分を自家製の法学士にする事を暫く続けて居たが、或る時を起点にして、急に文学の魅力に取り憑かれたのか、人が変った様に太宰と芥川を読み漁った。彼はそうしながら色々と経験した。唯、自分をこの段階から原点に戻す事だけを考えて居た。
「大学は授業をパッパカパッパカ進めさせて行く元凶の一つで在り、そこで教える教授ももう既にサラリーマンの様で、同じく元凶の一人だ。…私は唯、読書後のぼうっとする時間が欲しいと思っただけなのだが、その時間は私にとって今は寂しいものである」
ポソッと呟き、段々と歩調を早め、いつも歩き見て居た通行路や学舎を過ぎて、普段行き慣れない場所まで行くと、もう教室から見て居た高原は間近に在った。煙はさっきよりも近くに在る。よりはっきりと、黙々と黒と時折白が混じる煙が昇るのを何も考えずに見上げて居た。煙の先は、先へ行く程空の空気と同化して溶けて、見えなく成って行った。要らなく成った、或いは破損した旧いノートや教科書、文献を燃やして居る煙だと判った。燃やして居るのは無論勝手をして居る学生であり、教授は居ない。恐らく何かのクラブ、サークルで要らなく成った文献だと思って居たが、もう自然を前にして全てがどうでも良く成った聡一は臆するものもなく、自然に燃やして居る学生数人に声を掛けて何をして居るのか聞き、判った事だった。言葉少な目で〝燃やしてる〟以外の事は何も言わずに、唯延々と燃やし続けて居た学生数人は、暫くすると聡一の方を見なく成り、又燃えて居る紙の方に目と心を向けて居た。学生は唯、諦めずに燃やして居る様に、聡一には見えた。
聡一は、自分の書くもの・生み出すものだけは誰にも壊されたくないと、又元々評価される物でもないと、考え倦ねいた果てに自分の答を決め込み、単純に成って居た。聡一の身の上に降り掛かって居た塵の様な断片一つ一つがあの噴煙の様な煙の中に混じって見えなく成るまで昇り詰め、やがては自然と同化した。聡一は生まれ変わった。
法民聡一(ほうみんそういち)~(『夢時代』より) 天川裕司 @tenkawayuji
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