メユカはクジラに口づけする
加須 千花
第一話 ウキネ
しましくも 見ねば恋しき
ほんの少しの間も、見なければ恋しさがつのる。
愛しい娘のもとへ毎日逢いにくれば、人の噂が激しくなってしまう……。
万葉集 作者不詳
※
* * *
奈良時代。
冬の木枯らしが吹き始める、晩秋。
あたしは
ここにいてはいけない
「
小太りで、目が小さい男。
あたしは、いつもならその手をとるが、今宵はその手をとらず、じらす。
「
* * *
「見ない顔だな。誰だ?」
狭い郷の社会である。皆、顔見知り、家の家族構成まで、すみずみ、知られているものだ。
あたしは違う。
あたしは、もとは、郷から郷を旅する行商人の娘だったのだから。
「うふふ……。」
あたしはその時、
「さあ……、誰でしょう?」
あたしは、イタズラ心をおこした。
流し目を送りながら。
舌をだし。
李の皮を舐め。
白い歯を薄皮に立て。
柔らかい果肉にゆっくり歯を沈ませ。
甘い、酸味のある汁を、ちゅう、と吸う。
「オレは、
「ふふ、惜しいわね。違うわ。」
(それは昔のこと。)
それだけ言って、微笑み、
喋ろうとしないあたしのかわりに、後ろについてきていた
「北のはずれの
とピシャリと言った。
「!」
北のはずれ、
郷では有名な話だろう。
久自良は言葉を失い、目をみはり、息をのんだ。
「ふん……。」
あたしは、この
手に持った籠から、
男は胸元で、李を
それが別れの挨拶。
あたしは無言で踵を返した。
放った李は、口をつけていない、新鮮な
けして、食べかけの
───あたしに口をつけてごらんなさい。
と、誘惑したわけではなかった。
しかし、そのあと、夕刻……。
久自良が、桔梗の屋敷の門の前を、うろうろと歩いている、と、母刀自が教えてくれた。
あたしは、相手にせず、無視をした。
久自良は、何日も、屋敷の門の前に姿をあらわした。
門の前を何回も通りすぎ、ため息をつき、郷長が通ってくれば、慌てて隠れ、すごすごと帰って行った。
(あらあら。可愛いことね。)
あたしの親は、
あたしが十五歳の時。
「美女だな。良い尻だ。」
と、二十、年のはなれた郷長に見初められた。
でも、
最近は、郷長の足が遠のきつつある……。あたしは、
死活問題だ。
父親は働かなくてすむようになったし、桔梗屋敷に、
あたしが今、寝そべっているのだって、木の床でも、寝ワラでもなく、熊を一匹つかった毛皮の敷物だ。
「
と、郷長がくれた。
しかし、一生、
郷長に完全に飽きられれば、捨てられる。
この桔梗屋敷を叩きだされ、もとの行商人暮らしに逆戻りだ。
できれば、妻になりたい。
郷長の
認められる為には、
母刀自が、
「
あの
と、淡々と言った。
「ふうん……。」
あたしは、
(母刀自も、必死ね。当たり前か。この暮らしを手放したくないのは、あたしも同じよ。)
「良いわ。今宵、郷長が来なくて、
久自良は、裏口から通された。
「おまえのような美しい
あたしは、あはは、と笑った。
また、イタズラ心がおきた。
「では……、上手にさ寝できたら、教えてさしあげてよ?」
* * *
久自良は、あたしに溺れた。
人目を忍び、郷長の目をかいくぐりながら、足繁く、ここに通ってくるようになった。
久自良は優しい男だった。
あたしが足が疲れたと言えば、揉んでくれ、コン、とひとつ咳をすれば、
「大丈夫か?」
と心配そうにあたしの顔をのぞきこみ、野山の果物を、
「たくさん取ってきたぞ。」
と、満開の笑顔で持ってきてくれた。
一回、狩猟で捕らえた
そして今、久自良は、
「
と伸ばした手をあたしにやんわりと拒絶され、困ったように手を空中にさしのべたまま、びくついた顔であたしを見てる……。
「あたし、知ってるの。昨日、
歌垣とは、十六歳以上の男女が集まり、婚姻相手を求めるため、一晩の逢瀬をする、夜。
真面目に、そのまま、婚姻する場合もあれば、男も女も、ただ楽しむためだけに、
当然、あたしは行けない。
親父が、歌垣に久自良が来るか、ひっそりと見張っていたのだ。
「あたしを放っておいて、
「あれは、その……、幼馴染なんだ。放っておけなかっただけだ。オレが愛してるのは、
「どうかしら?」
「
オレは不安になってしまう。
いつもの言葉を言ってくれ。」
久自良は可愛い
甘い
「ええ、良いわ。あたしが愛してるのは、あなただけ。
いつもなら、ここまでで言葉を終わらせるが、今日は、少し気付け薬が必要だろう。
「……昨日、歌垣の頃合い、郷長は桔梗屋敷に来たわ。」
本当のことだ。
「あたしはイヤイヤ、応えるしか
これは嘘。イヤイヤどころか、甲斐甲斐しく世話してやった。
久自良は、さっと顔をひきつらせ、
「言うな!」
あたしを強くかき抱いた。
熱い唇を押し当てられる。
情熱的で、優しいさ寝。
「あ……。」
久自良とのさ寝は、
気持ち良い。
二十も年が離れた郷長の相手をしているより、久自良とのさ寝のほうが、好きだ。
久自良に身体を許し、汗をかき、甘い声で喘ぎながら、あたしは、さっきの話を考えてしまう……。
名前も顔も知らない
きっと、歌垣で久自良に抱かれた幼馴染は、久自良に恋してるのだろうな、と。
(ふふ、ごめんなさいねえ。この
今はあたしのものだわ。)
あたしは、種が欲しい。
目的が果たせたら、しっかり振ってあげるわ。
この優しい
それが、あたしの優しさだ。
↓挿絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093081159493194
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