メユカはクジラに口づけする

加須 千花

第一話  ウキネ

 しましくも  見ねば恋しき


 吾妹子あぎもこ


 れば  ことしげけく





 しましくも  不見戀みねばこひしき

 吾妹あぎもこを

 日〻来ひにひにくれば  事繁ことのしげけく






 ほんの少しの間も、見なければ恋しさがつのる。

 愛しい娘のもとへ毎日逢いにくれば、人の噂が激しくなってしまう……。







    万葉集  作者不詳




 ※吾妹子あぎもこ……オレの可愛い女の子、といったところか。いも、は、イモウトのことではなく、恋しい女性のこと。血縁関係はない。

 吾妹子あぎもこは、本作では、愛人という意味であつかう。



 




      *   *   *




 奈良時代。

 冬の木枯らしが吹き始める、晩秋。


 あたしは菟来嶺うきね、十七歳。

 郷長さとおさ吾妹子あぎもこ(愛人)だ。


 ここにいてはいけないおのこが、あたしに手をのばす。


菟来嶺うきね。さあ、この手をとって。天に昇るようなさ寝(共寝)をしよう。」


 小太りで、目が小さい男。

 荒海あるみの久自良くじら

 郷長さとおさの甥っ子、あたしより一歳年上の、十八歳だ。

 あたしは、いつもならその手をとるが、今宵はその手をとらず、じらす。


久自良くじら、あたし、知ってるのよ……。」


 おのこは、こうやって、絡め取るのだ。





   *   *   *





 久自良くじらとは、郷のいちを歩いてる時に、出会った。


「見ない顔だな。誰だ?」


 狭い郷の社会である。皆、顔見知り、家の家族構成まで、すみずみ、知られているものだ。

 あたしは違う。

 あたしは、もとは、郷から郷を旅する行商人の娘だったのだから。

 

「うふふ……。」


 あたしはその時、いちで交換したすももを手のかごいっぱいに持っていた。


「さあ……、誰でしょう?」


 あたしは、イタズラ心をおこした。


 流し目を送りながら。

 舌をだし。

 李の皮を舐め。

 白い歯を薄皮に立て。

 柔らかい果肉にゆっくり歯を沈ませ。

 甘い、酸味のある汁を、ちゅう、と吸う。


 おのこは痺れたように、あたしの唇に釘付けになった。


「オレは、荒海あるみの久自良くじらだ。行商人か?」

「ふふ、惜しいわね。違うわ。」


(それは昔のこと。)


 それだけ言って、微笑み、久自良くじらをじっと見つめる。みるみる、久自良の顔が紅潮した。



 喋ろうとしないあたしのかわりに、後ろについてきていた母刀自ははとじ(母親)が、


「北のはずれの桔梗ききょう屋敷やしきの者です。そう言えばおわかりね?」


 とピシャリと言った。


「!」


 北のはずれ、桔梗ききょうの美しく咲く、小ぶりな屋敷に、郷長が吾妹子あぎもこ(愛人)を住まわせている。

 郷では有名な話だろう。

 

 久自良は言葉を失い、目をみはり、息をのんだ。


「ふん……。」


 あたしは、このおのこに興味を失った。

 手に持った籠から、すもものひとつを、男に放った。

 男は胸元で、李をつかんだ。


 それが別れの挨拶。


 あたしは無言で踵を返した。

 放った李は、口をつけていない、新鮮なすもも

 けして、食べかけのすももを放って、


 ───あたしに口をつけてごらんなさい。


 と、誘惑したわけではなかった。











 しかし、そのあと、夕刻……。

 久自良が、桔梗の屋敷の門の前を、うろうろと歩いている、と、母刀自が教えてくれた。


 あたしは、相手にせず、無視をした。


 久自良は、何日も、屋敷の門の前に姿をあらわした。

 門の前を何回も通りすぎ、ため息をつき、郷長が通ってくれば、慌てて隠れ、すごすごと帰って行った。


(あらあら。可愛いことね。)










 あたしの親は、土師器はじきの皿や、かごや、菅笠すげがさを扱い、郷から郷へ渡り歩く行商人だった。

 あたしが十五歳の時。


「美女だな。良い尻だ。」


 と、二十、年のはなれた郷長に見初められた。


 でも、緑兒みどりこ(赤ちゃん)に恵まれず、もう、二年たつ。

 最近は、郷長の足が遠のきつつある……。あたしは、ねむころに郷長に接しているが、飽きられつつあるのだろう。


 死活問題だ。


 吾妹子あぎもことして、今は、贅沢に暮らしている。

 父親は働かなくてすむようになったし、桔梗屋敷に、下人げにんおのこと、はたらを一人づつつけてもらったおかげで、あたしも母刀自も、洗濯や食事作りから解放された。


 あたしが今、寝そべっているのだって、木の床でも、寝ワラでもなく、熊を一匹つかった毛皮の敷物だ。


おみなは身体を冷やすな。その方がはらみやすい。」


 と、郷長がくれた。


 しかし、一生、吾妹子あぎもこでいられるとはかぎらない。

 郷長に完全に飽きられれば、捨てられる。

 この桔梗屋敷を叩きだされ、もとの行商人暮らしに逆戻りだ。


 できれば、妻になりたい。

 郷長の母刀自ははとじに認められれば、妻になれる。一生、食いっぱぐれる事はない。

 認められる為には、緑兒みどりこだ。

 緑兒みどりこがなんとしても欲しい……。

 母刀自が、


菟来嶺うきね久自良くじらとさ寝てやらさね。(抱かれておやり)

 あのおのこは、郷長の甥だそうですよ。あのおのこの種なら、きっと、郷長に顔が良く似るでしょう。」


 と、淡々と言った。


「ふうん……。」


 あたしは、檜扇ひおうぎを、ぱち、ぱち、と閉じたり、開いたりしながら、考えた。


(母刀自も、必死ね。当たり前か。この暮らしを手放したくないのは、あたしも同じよ。)


「良いわ。今宵、郷長が来なくて、久自良くじらが来たら、お通しして。」







 久自良は、裏口から通された。


「おまえのような美しいおみなは、初めて見た。さあ、今宵こそ、名前を教えてもらうぞ。」


 あたしは、あはは、と笑った。

 また、イタズラ心がおきた。


「では……、上手にさ寝できたら、教えてさしあげてよ?」






   *   *   *





 久自良は、あたしに溺れた。


 人目を忍び、郷長の目をかいくぐりながら、足繁く、ここに通ってくるようになった。


 久自良は優しい男だった。


 あたしが足が疲れたと言えば、揉んでくれ、コン、とひとつ咳をすれば、


「大丈夫か?」


 と心配そうにあたしの顔をのぞきこみ、野山の果物を、


「たくさん取ってきたぞ。」


 と、満開の笑顔で持ってきてくれた。

 一回、狩猟で捕らえた鹿肉かのししの干し肉も持ってきてくれた。









 そして今、久自良は、


菟来嶺うきね。さあ、この手をとって。天に昇るようなさ寝をしよう。」


 と伸ばした手をあたしにやんわりと拒絶され、困ったように手を空中にさしのべたまま、びくついた顔であたしを見てる……。


「あたし、知ってるの。昨日、歌垣うたがきに行ったんでしょう?」


 歌垣とは、十六歳以上の男女が集まり、婚姻相手を求めるため、一晩の逢瀬をする、夜。

 真面目に、そのまま、婚姻する場合もあれば、男も女も、ただ楽しむためだけに、歌垣うたがきに足を向けることもある。


 当然、あたしは行けない。

 親父が、歌垣に久自良が来るか、ひっそりと見張っていたのだ。


「あたしを放っておいて、おみなとさ寝したのね。」

「あれは、その……、幼馴染なんだ。放っておけなかっただけだ。オレが愛してるのは、菟来嶺うきね、おまえだけだよ。」

「どうかしら?」

菟来嶺うきね、そのような意地悪を言わないでくれ。

 オレは不安になってしまう。

 いつもの言葉を言ってくれ。」


 久自良は可愛いおのこだった。

 甘い睦言むつごとを欲するような。


「ええ、良いわ。あたしが愛してるのは、あなただけ。

 郷長さとおさよりも、愛してるわ。」


 いつもなら、ここまでで言葉を終わらせるが、今日は、少し気付け薬が必要だろう。

 

「……昨日、歌垣の頃合い、郷長は桔梗屋敷に来たわ。」


 本当のことだ。


「あたしはイヤイヤ、応えるしかすべがなかったけれど、本当は……。」


 これは嘘。イヤイヤどころか、甲斐甲斐しく世話してやった。

 久自良は、さっと顔をひきつらせ、


「言うな!」


 あたしを強くかき抱いた。

 熱い唇を押し当てられる。

 情熱的で、優しいさ寝。


「あ……。」


 快楽くわいらくの海に身体がぷかぷか浮くよう。

 久自良とのさ寝は、……水鳥が水面に浮かびつつ寝るように、ちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ、水面に揺られるようだ。

 気持ち良い。

 二十も年が離れた郷長の相手をしているより、久自良とのさ寝のほうが、好きだ。


 久自良に身体を許し、汗をかき、甘い声で喘ぎながら、あたしは、さっきの話を考えてしまう……。


 名前も顔も知らないおみな


 きっと、歌垣で久自良に抱かれた幼馴染は、久自良に恋してるのだろうな、と。


(ふふ、ごめんなさいねえ。このおのこ、あたしに溺れるように恋しちゃってるの。

 今はあたしのものだわ。)







 あたしは、種が欲しい。

 目的が果たせたら、しっかり振ってあげるわ。

 この優しいおのこが、あたしに未練を残さず、次の恋に進めるように。





 それが、あたしの優しさだ。









 ↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093081159493194

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