ある妖精狐と歌姫の御伽話

七草かなえ

1部 チトセ・ホクラニと遠い国の歌巫女

第1章 壊れてる二人

第1話 離れても好きなひと

 彼は死んではいない。でもはっきりと生きているとも言い難い。


「スノードロップ、上から来るっ!」

 

 共に戦う仲間の叫びに応じて、スノードロップと呼ばれた少年はその場を飛び退いた。


 すんでのところで倒すべき敵である『魔物』の攻撃を回避する。代わりに地面に硬いものが衝突する重低音が響いた。いつ聞いても嫌な音だ。


『第一隊。総員、聞こえるか?』


 各自の耳に装着したインカムからの、指揮官の指示を聞く。


『第三隊が戦闘を交代する。もう君たちが戦い始めて長時間経過している、体力が持たないだろう。よって第一隊は撤収』


「了解。撤収するぞスノードロップ! あとは先輩がたに任せる」

「戻ろう、スノードロップ!」


 黒髪に浅黒い肌の少年と、金色をツインテールにした耳のとがった少女がこちらにありったけの声で叫ぶ。


 真珠色の大きな狐耳と尻尾を有する少年は、彼らの声に。


「まだいける――ぼくが倒す!」


 撤収の指示を無視して眼前の赤黒い巨大な深海魚型の魔物、そのエラのあたりにグローブを付けた拳を振り上げた。


 少年の魔力で生成された鋭い冷気が魔物を包み、ごお、と殴りつけた衝撃が腕に走る。


 魔物退治は、知らない人が想像するより遥かにハード、文字通り命がけで行われる。


 よってここまで半時間近くかかっている長期戦で体力を削られた少年少女は、指揮官の言うとおりにさがるべきだ。


 でないと、死ぬ。冗談は、抜きで。


 おい何してる命令だぞ撤収しろよ。何やら指揮官が喚いているが、彼は攻撃の手を緩めない。


 戦う。戦う。殴る。蹴る。叩く。冷やす。


「もうよせ!」

 

 駆けつけてきてくれたらしい第三隊隊員の誰かに、狐耳の少年はぐいと肩をつかまれた。


 ハスキーな女性の声と赤茶の狸耳と尻尾で、この都市を守る未成年退魔師部隊の総隊長だとわかる。

 

「撤収しろスノードロップ、あとは私たちがやる」

「でも、ぼくがやらないと」

「ここで倒れて、『彼女』に会えなくなってもいいのか?」


 女性総隊長から真剣に問いかけられているうちに、実はたまっていた疲労からまぶたが重くなってきた。


「□□□!」


 コールサインの『スノードロップ』ではない、本当の名前で呼ばれた、気がして。

 妖精狐の少年の意識が暗転した。

 



 少年チトセ・ホクラニは恋をしている。


 恋のお相手は数年前にひとときの交流をしたのち別れたきりの。連絡先も知らない同い年の少女だ。

 そもそも彼女はスマートフォン等携帯電話の類を持っていなかったと思うし。


 初恋の彼女はセント・グラシエラ王国なる遠い異国の『元王女』であり。

 とある女神から授かった神通力を歌を歌うことで行使できる『歌巫女』でもあった。


 今彼女の立場はどうなっているのだろう。新たな何かが彼女に付随しているのか、それとも逆に歌巫女か元王女であることを手放したのか。


 チトセたちが生きる魔法世界アタラクシアでは、多くの種族が『人間』として認められている。


 天上界には神族や天使たちが住まい、ときおり人間界に現れては人の子と交流をしていた。


 チトセの想い続ける彼女は彼女が母親のお腹にいるころから、とある女神様と目に見えぬ繋がりを持っていたという。


 女神や神通力が関係しているかどうかは不明だが、とても綺麗な声で歌う少女だった。

 当時絶望に墜ちていたチトセがそこに一縷の希望を見いだせた程に、綺麗な歌声だった。


 現在彼女が母国セント・グラシエラでどのような立ち位置にいるのかはわからない。


 もしかしたら王家に復帰して、王女の椅子に座している可能性も否定はできなかった。それが良いことなのか悪いことなのかは別として。


 数年間連絡の一本もない。そもそも連絡のしようもない。


 そもそもチトセと彼女とでは国籍も身分も――生まれついた種族さえ、彼と彼女は違っていた。


 チトセはアルコバレーノ王国、彼女はセント・グラシエラ王国。

 チトセは一般市民、彼女は元王女。

 チトセは妖精狐、彼女は人類種。

 

 種族差別が激しい古い時代だったら、出逢うことができても共に過ごすことさえ叶わなかったかもしれない。


 元王女で歌巫女という時点で、特殊すぎる環境で生まれ育った相手だった。


 巫女という存在は彼女の母国では異端の者、つまり要注意人物とみなされる。神通力の使い方次第では、国家をも転覆させる危険性もあるからだという名目だ。


 そんな事情で生まれて間もなく王家からも除籍されたとの話だったが、それでも彼女が高貴な血統を引いているということに違いはない。


 チトセにとっては知り合い一定期間交流を深められただけのことさえもが、きっと奇跡のような少女だった。


 そのような格式高く物理的に距離が離れた相手に恋心を捧げたところで、叶う可能性はきわめて低い。この先一目会えるかどうかも、分からないのだから。


 それに叶うかどうかもわからない恋心を長い年月抱き続けるのは、心と体に削れるような痛みを伴うことだ。


 それくらいの現実は、チトセだって分かっているつもりでいる。

 彼とて決してふわふわ逃避している少年ではない。だが現実を直視できるからこそ負う傷もあった。


 ――でも。


 離れてしまっていても好きな人が、確かにいる。


「ぼくたち、また会えるのかな?」


 あのころ交わした言葉は、はっきりとその端々まで思い出せる。


 彼女と過ごした切なくも安らいだ日々。

 しきりに降り続けた雨の音。

 眠れぬ夜に飲んだハニーミルクの甘さ。

 他にほとんど人がいなかった病棟の静けさ。

 そんな環境下で出逢えた人々。

 呑み込んだつんと塩辛い涙の味。


 咲き開いた花のように可憐な、彼女の微笑み。


 もしひとつだけ願いが叶うのなら。それなら、また会いたい。

 お別れしてから決して短くはない時間が経過した今でも、チトセはきっぱりそう言い切れた。


 だって、何でもない毎日の日常を生きているあいだでさえ。

 たとえば朝起きてカーテンを開けた時も、夜眠る前明かりを消した時も。


 ふとした瞬間に少女との陽だまりのように優しくて、磨かれた宝石のように輝いた日々がふわりと浮かび上がるようにして、チトセの脳裏に今も浮かぶ。


「だってぼくは、君のことが大好きなんだよ」

「元王女とか関係ない。君のことを愛しているんだ。初めて……恋をしているんだ」


 当時はまだ二人とも十歳。幼い子どもだった。十三歳になった今もまだ子どもといえば子どもなのだろうが。


 チトセの生まれて初めての愛の告白に、少女は大きな瞳を一杯に開いて。


「わたし、わたしたちの戦いが終わったら、また必ずここに来るわ。そうしたら……」


 彼女には元王女としてやるべきことがあった。それは彼女にとって本当にやりたいことでもあった。


 そのために。仲良かったチトセと離れる選択をしたのだ。

 一緒に安全が確保された都市で暮らせる道も開かれていたに、関わらず。


 本来彼女は子どもとして、社会的にも守られるべき存在だった。彼女の夢は本当なら、責任ある立場の大人たちが実現させるべきことだった。


 だがたとえ困難な道を歩むとしても、彼女は自分の『夢』を叶えに行くことを選んだ。

 チトセは彼女を愛する味方として、その夢を離れた地から応援することを選んだ。


「必ずここに帰ってきて、ホクラニさんの愛にお返事するわ。それまではわたし、頑張れる」


 すがるように、切々と。

 必ず再会することと、そうしたら告白の返事をする約束を交わした。彼女なりに頑張れるきっかけが欲しかったのだろう。


 約束して、別れた。恋のつぼみわずかに膨らんだまま、咲き開く日を待っている。


 たとえその日が永遠に来なかったとしても。彼女が生きているかどうかすらわからなくても。


 チトセは初恋の少女、シュゼット・フローレスの帰りを待ち続けていた。


 

 これは少年と少女、二人を取り巻く人々をめぐる。

 愛と夢、そして想いの御伽話だ。

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