青銅の城

燈と皆

第1話

「どうして、ここの空は青いのだろう」

 晴天を初めて見る少年が一人、この地に現れた。少年は早速、見上げた空にそう呟いた。

 

 少年がその前に居た地は、灰の雲が交々として一向に終わらない曇天下の地。鬱々とした薄暗さ、澱んだ空気に汚染された世界。時折の風でカラカラと石屑を滑らせ、雑草の芽も生やさせない濃厚な灰色の地と、昼も夜も分からない仄暗さに見舞われた世界だった。

 一体何故その様な世界となってしまったのか、少年には分からなかった。だがその世界は確かに、少年に残酷であった。死神の失笑の様にけらけらと石屑を鳴らし続け、仄暗さで少年の視力を弱らせてゆくばかりだった。

 少年はその世界で終始俯き、「どうして、どうして」と、弱々しい嘆きを吐き散らしていた。

 

 その少年がまたどうして、晴天の地に現れたのか、少年には分からなかった。けれども、少年は確かに、その世界を喜んでいた。

 草花が賑わう山の傾斜から、少年はその世界を望む。

 空には光。光は創造神かの様に堂々とした威厳を放ち続け、上空を燦々とした明るみで統べた威光であった。

 その光が溢れた先に、生き生きとした緑の森林が広がり、今度は森林が地上の殆どを統べている。深々とした静けさもあり、木々の隆起に猛々しさもあり、総じてどっしりとした落ち着きのある存在だった。緑の濃淡を生命の愛嬌として、威光にそれを振る舞っている。すっと澄み渡った冷ややかな空気は緑から放たれていて、これらの有り様が望ましいものである事を、生きる者に知らしめている。

 その、緑の木々が欠けた部分に一つ、青が建っている。それは青銅の城。

 青銅は光に煌めいてエメラルドのブルーやグリーンを発している。それは木々の緑にしては際立って明るく、青々とした空にしては青が足りない。緑の繊細さと青の聡明さの中で、煌々とその異彩を放っていた。

 そして城の形はと言えば、一本高く聳え立つ塔をどっしりとした台座の様な城壁が取り囲んでいる。台座はどこの木よりも高く、そして塔はそこから更に高い。

 少年はその塔の頂点を望むだけで、息を呑み、足をすくませていた。

 

「もっと近くで見てみたい」

 青銅の城は、少年を魅了し尽くした。

 少年は青銅を見上げたまま山を下り、森を進んだ。凹凸やうねり、そういったものをがつがつと経て、一層の輝きに笑みを強めた。途中、あまりにも青銅の照りが強く、顔は赤々としていた。

 暫くして城の麓に着くと、少年の顔の赤みは次第に失せ、熱を下げた。照りはそれでも強かった。

 少年は愕然としていた。悲しみに暮れたその眼は、目の前にある物を点々と見つめていた。そして、驚き果てた口はその最中にただ空いている穴となった。

 少年の前には、巨大な青い城。世界でここにしか存在しない、青銅で築かれた大きな城。

 遠くからこの城を見つけた少年は、その綺麗な青い煌めきに惹かれて、この城の麓まで来てみたのだ。

 だが、青い城は無惨に朽ちていた。遠くから望んだ時の青々とした輝きは無く、古びたのか苔なのかも分からない緑に変色し、所々は錆で黒くなっている。青い城は最早、黒の錆に蝕まれた、見窄らしいただの銅板の集まりと成っていた。

 少年はそんな落ちぶれた城を見て、落胆していたのだ。それでも威厳を保つ為に天高くまで聳え立ち続ける青い古城を、敬いと軽蔑それぞれの眼で見上げていたのだ。

 

「この青い城は、遠くから眺めるのが望ましい。青々として風情に満ちている姿を見てくれた方が、この城も喜ぶだろう」

 どこからともなく現れた一人の老人。その老人が少年に近づいて、そう告げた。老人もまた、城を見上げ始めた。

 少年は老人の方を見ずに、城をまだ見上げたまま尋ねた。

「この城は誰が作ったんですか?」

「私だよ」

 どこか物寂しい声色で、老人は答えた。

 けれども少年は、お構いなしに再び尋ねる。

「この城の名前は何ですか?」

「名前はもう無い。名前を失った城だ、こいつは」

「どうして?」

 二人は互いの事を見ようともせず、また、問答の意味も忘れた様に、青の奥深さを探した。

 

 やがて老人が語り出した。

「物も想いも、いずれ朽ちる。朽ちて錆ができる。この強固な城であっても。しかし、この城の本来の姿はここには無い。もっと先の方にある。君も見てきただろう。遠くから。近づくに連れて現実を見せつける、この城の変化のかちを」

「はい、でも」

 少年の言葉は老人の語りに呆気なく遮られた。

「この城は、誰かを守る為でも包み込む為でもなく、言わば灯台の様にして作られたものなのだ。いつまでも色褪せず、どこまでも高く、果てしなく頑丈な、ただ一つの輝き。見た者がどこかに熱を感じ、そしてあの頂点に登りつめた夢を、早速見始めてしまう、そう導く為のもの。遠慮なく広がる、未だかつて見た事のない最高の、確実に見ておかねばならない景色がそこにあるという事を、人々の心に届かせる為の城だ。あれはそういった、世界に無くてはならないものなのだよ」

「でも」

「この黒い錆に汚された現実に、見る価値などあるものか」

 老人の答えに再び言葉を遮られた少年は、それから黙ってしまった。黙ったまま、城を見上げていた。最早青い城壁に何かを探すでもなく、そして何かの変化を待つ訳でもなく、ただただ、城の全貌を瞳に映していた。

 少年の言葉が帰ってこない事を知った老人は、その場を惜しむ事なく、直ぐに少年へ背を向けて去っていった。

 

 少年はそれでも、じっと見上げていた。

 すると、少年の目は何かを捉え始めた。それは例えば、生物の猛々しさ。城壁に激しく隆起して生える緑の苔の、恐ろしく細部まで緻密に計算された見事な紋様の有り様であったり。更には、本質の力。朽ちて剥がれた果てに出来た黒や茶の錆の、ざらざらとした痛ましい表面は、それでも腐る木より屈強である。この青銅は、穴が開くまで一丸となって、この城を城たらしめる決意と覚悟の力を、本質的に秘めている。錆は、青銅が木よりも強い本質的な力を秘めている事を裏付ける為の、証拠の一つに過ぎない。

 少年は、漠然とながら、それらを捉えていた。その瞳に。その心で。

 

 その青さに翳りが見えたのは、それから間も無くの事だった。

 城の表面を火の様にして統べていた晃る青が、台座の方から粛々と消え失せてゆく。薄暗い灰色がその表面を這いずり回り、光の一つ一つを鎮火しゆく。

 少年の目からも同じく、輝きは失われる。辺りの空気はしんとした冷えを露わにして冷徹な風となり、少年の頬を時折強く殴った。俯く顔は、青銅の麓に反転して映し出される。その映し出された目が少年の目と交わると、俯きは止められた。

 少年は、そういった変化にまた「どうして、どうして」と悲喜交々であった。静かに見守る役目を引き受けた青銅は、まだ微かに青かった。

 晴天の世界は、少年の訪れによって曇天に封じ込められた世界となった。薄闇が景観を支配し、少年の視力は危うくなってゆく。耳も、肌も、露骨に悪意を見せつける熾烈な風によって、感覚が阻まれる。

 少年は吹き飛ばされそうになるその身を、青銅の縁に両手でしがみついて繋ぎ止めた。木々が横を勢い良く横転して去る中、謂れのない忍耐で堪える。それは少年も自覚していた。

 いや、少年は朧気ながら、その謂れを思い出していた。だからであろう、少年のしがみつくその青銅の城自体が烈風を発している事に気づいても、少年は必死に堪えていたのだ。片手が剥がされても、もう片手に最大の意思を込めて、留まる指に心を繋ぎ、その叫びに指が奮う。

「もう絶対、離さない!」

 少年のその尖鋭たる叫びが、世界を止めた。

 

 世界は晴天で、木々や風は勇猛で、城は煌々として、その城の麓ではいくつもの傷みや鬱々とした黒みが存在する。

 だが、それでも城は誠実に聳え立つ。いつまでも。名前を忘れ去られても。

 

 少年は、吹き飛ばされた先、城の頂点の更に上で、事の顛末を受け入れた。

 そして願う。

 城よ、更に高く、天深くまで頂を突き上げろ、と。

 

 遠くから見守っていた老人が、慎ましく笑みを浮かべて呟いた。

「城の名前は、そうか、夢だったか」

 

 

 

 

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