昴の焦り

ゆらゆらと紙燭しそくの火が揺れる。

夜。さやかな笛の音が星々を震わす。

笛の主は式部卿。すばるは酒にうっすらと頰を染めながらその音を聞いていた。(注:昴は17歳だが既にういこうぶり(現在でいう成人式)を済ませているので飲酒は合法。)

父中将はうっとりと聞きながら酒を飲んでいる。昴もそれを真似て静かに酒を口に運ぶ。

男三人のささやかな酒宴である。


しかしながら昴は焦っていた。

桜花を想ってのことである。

――式部卿が桜花に通いでもしたらどうしよう、と。


笛の音が止んだ。僅かに掠れを含んだその音は、まるでもとから空気そのものであったかのように、夜気に散っていく。


「……素晴らしい。」

中将の声は半ば囁くようだった。

褒められた式部卿は小さく笑んで会釈する。

眉目秀麗、才気煥発かんぱつ。家柄もよく地位もある。

凡なる昴など到底及ばない高みに、この男はいる。


今朝、方違えで我が家を訪ねたと聞いたときはひどく動揺したものだ。

父と式部卿とはそれほどの仲だったろうか。何かほかに特別な理由でもあるのではなかろうか。もしそれが――


「今日はかように親切にしてくださって、本当にありがとうございます。」

低く落ち着いた声で式部卿が言った。

「急の訪問だったにも関わらず。」

と付け加える。

「いいや、とんでもない。こちらとしても光栄ですよ。」

父がゆったりと応えた。

式部卿はそれから昴の方を見る。

「ご令息殿も、遅くまで付き合ってもらってかたじけない。」

黒い瞳に吸い込まれそうになりながら、

「勿体ないお言葉です。」

と昴は小さく頭を下げた。


「ではそろそろお開きにしましょうかね。」

父がそう言って杯を干すと、

「ええ。」

式部卿はあてやかに頷く。色白の頰は酒のせいでほんのり赤みがさしていて、もとより端麗な式部卿の顔をより一層妖艶に見せる。


ああ、我が胸の内をどうしたら良いだろうか。


昴は心臓が縮むような思いをしながら式部卿を見送る。

「式部卿は将来有望だ。」

式部卿がわらわに率いられて角を曲がっていくのを確かめてから、隣に立つ父は昴に目を向けた。

「恩を売っておくに越したことはない。」

夜風が首筋を撫でる。

「お前ももう大人だからわかるだろう。くれぐれも丁重に当たるのだぞ。」

「はい」

昴が頷くと父は満足したようで、

「よくおやすみ」

そう言うと自分の寝所の方へと歩き去った。


昴はひとり、広い庭を見渡す。春から夏へ移ろおうとしている庭。

池があって、草木が風にそよいで。

ふと、どこからか琴の音が聞こえた。寂しげなその音色は昴の胸を強く引く。

「――桜花」

口の中で転がしてみるその名前はどんな味がするのか。


獲られる前に獲ってしまえば……。


それほど飲んでもいないのに、酒に酔ったのだと自分に言い聞かしていつもと違う方角へ足を向けた。

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