桜花の巻
起
桜花
塗れたような夜の闇を、ほのかな紙燭の灯が染めている。
その色にゆらぐ十二単。日のもとに見れば鮮やかな単は今は幻のようにゆらめいて見える。
最後の仕上げ――裳の腰紐を結ぶ〝
ここで誤解を招かないよう断っておくが、今裳を着せられてるのは私じゃない。
私の義妹、もとい従妹の
なぜ腰結役のおじさんを〝某〟と言うばかりで名前を言わないのかというと、知らないから。いや正確に言うと、考えてないから、か。
某様はゆるりとした手つきで裳の紐を結ぶ。慣れてるのかな、きれいな結び目だ。
某様が結び終えた紐から手を離して立ち上がると、張り詰めていた空気が一挙に崩れた。
霞がほほえ……んだんだよね? 口角上がってるし。うん、かわいい、とは
ともあれ今このときをもって、数え年十五の我が従妹は成人したのである。
大変喜ばしいことだ。それがたとえ自分を虐めてくる叔母の娘のものだとしても。
それに何より、私は裳着の儀をこの目で見ることができてとても興奮しているのである。
――それがたとえ、虚構の世界のものだとしても。
*
桜吹雪とはかくなるものか。
「ねえ、
「はい、何でございましょう」
針仕事から顔も上げずに答える不苦。
桜吹雪を背に春の日を燦々と浴びて立つ私の姿は、この世のものとも思われないほど美しいだろうに。
――いきなり何を言い出すのかと。でもしょうがないのだ。私がそう書いたから、それがこの世の事実になる。
「
不苦が上目遣いで私を見ていた。布をまさぐる指は止まっている。
「あら」
私は華奢な手で自分の頭を撫でる。髪といっても身の丈に余るほどの長さなのだ。
「どこかしら。きっとたくさんついているのでしょうね。」
不苦を見ると、彼女ははあっと溜め息をついて縫い物を置いた。
「お座りになってください。」
と手招きする。
「でも」
「お座りください。櫛ですきますから。」
「そこまで言うなら。」
と屋根の下へ入る私に不苦はもう一度溜め息をつきつつ、部屋の隅ににじり寄ってところどころ塗装のはげた螺鈿細工の箱から櫛を取り出した。
流行遅れの古びた櫛。――こんなのでも、数少ない母の品なのだ。
それに流行の品を買ってくれるような人は、〝私〟にはもういない。
不苦は
薄紅色の小さな花びらが板の床にはらはらと落ちる。
私は大人しく髪をすかれながら、無造作に横たわるやりかけの針仕事を見つめた。
あの意地悪な北の方から申し付けられた仕事だろうに。勝手にこちらに来た上に仕事をさぼって、気に入らない姪っ子の髪をすいたと知られれば、不苦は大目玉を食らうに違いない。
「……大丈夫なの?」
「ええ。それより先ほどは何を仰ろうと。」
不苦は言いたいことは分かっているというような風情で私の心配を押し流すと逆に問うてきた。
「……不苦は生まれ変わりって信じる?」
しばしの沈黙の後、私は折った指を口許にあてがって訊く。
「……。」
苦しから
ふくという音は福にも掛けてある。
苦労してこの名前を捻り出したときは心底嬉しくなったものだ。私の日本史での推しは藤原不比等だったから……。
「私が前世の記憶を憶えていると言ったら、信じる?」
重ねてそう問う。
心中に留めたもう一つの問いはおそらく、一生口にすることはないだろう。
「……。」
不苦は黙ってゆるゆると髪をすいている。
お願いだから何か言ってよ。心臓の音が聞こえてしまいそう。
果たして――
「もちろん、姫様の言うことなら何でも信じますよ。」
ぱたり、と櫛を置く音が聞こえた。
背に感じていた温もりが遠ざかる。
「不苦はいつでも
その声がくぐもって聞こえるのは壁際の箱に櫛をしまっているからだ。
私は振り返って、その頼もしい背中を見た。手を動かす度に小刻みに揺れる肩。
「ふくぅ~!」
淑女の嗜みも何もなく、私はその背中に抱きついた。
「あっ、ちょっ、」
突然襲われた不苦は慌てて箱から手を離す。
「おやめください!」
「ふく、ありがと~!」
「ちょっと、離れてくださいってば!」
ふふ、不苦ったらかわいい。
「もう! ばれたら大目玉の覚悟でここに来ているのですから、それを分かってください。」
不苦は縫いかけの布を無造作に床から取るや立ち上がり、その勢いのまま歩を進めた。
「また来てね。」
春の陽光を吸った
小さく手を振る私に軽く頭を下げて、不苦は足早に去っていった。
――そう、私は転生者。そしてここは私が書いた小説の中。
平安調の世界観で、主人公は不遇の姫君〝桜花〟。その恋物語。
のはずだった。
けれども私は小説を書き始めた矢先に交通事故で死んで。
目覚めたら物語のはじめ、十八歳の桜花になっていた。
これは第二の人生なのか、それとも今際の際の夢なのか。
どちらにせよ平安の生活を
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