第3話

 食事を済ませた藍は、いつの間にか男性の姿に戻っており、黒いスーツを身を纏い、青磁色の生地に金の刺繍がしてあるネクタイを身に着けて、側には永を付け、安定した足取りで藍は大股に歩く。

「夕食までには帰るさ」

「行ってらっしゃい。気を付けてな」

「あぁ、君らはいつも通り仕事を頼むよ」

「まっかせてよ!」

 藍は春蕾と燐の顔を交互に見てから、永が開けた車の後部座席に乗り込んだ。

 春蕾は車が見えなくなってから、燐と共に屋敷内へと戻る。

「ねぇ、藍の奴。本当に大丈夫かな?」

「さぁ? でも、藍が決めた事だから」

「そうだけどさ……」

 春蕾は不安気に顔を曇らせる燐の頭を撫でてから言った。

「大丈夫だよ。だって、藍だもん」

「……うん」


 藍は車に揺られ、街の中心部へ入る。とある民家の前で車を停め、藍は地面に足を付けた。

 平静さは静止の状態での勇気である。真に果敢な人間は常に穏やかである。何物にもその精神の均衡を乱されない。

 規則正しく民家のドアを叩く藍。

「セサル・チェントロはご在宅かネ?」

 チャイニーズ訛りの言葉で藍がドアの向こうへ声をかける。

 声音になんの乱れも見せないことは、心の広さであり、人はそれを「余裕」と呼んでいる。そうした人は慌てることも混乱することもなく、さらに多くのものを受け入れる余地を残している。

 このドアの向こうで待っている男も、きっとそうした人間だろう。藍はそう考え、余裕を持って、もう一度ドアをノックする。

「……留守かナ? それとも、昼寝の最中カ?」

 藍がぼやいていると、ドアの向こうから物音が聞こえる。どうやら居るようだ。そしてドアノブが回りドアが開けられた。

「これは驚いた」

 彼は本当に驚いているのか怪しいものだったが、藍は気にも留めずに言った。

「ウチの部下は優秀デネ。君の隠れ家なンて、簡単に見つかるのサ」

「なるほど。では、俺はまんまとしてやられたわけだ……」

 セサルの言葉に、藍は軽い微笑を右の頬だけに浮かべる。

「それで、私がここまデ来た用件はモウ分かっているだロウ?」

「君のファミリーの一員になれって事だろう? 申し訳ないが何度来ても答えはNOだ」

 セサルは藍の申し出をにべもなく断った。

「そう、残念ネ。でも、私は諦めないヨ」

「俺は君のような強い信念を持った人間が好きだが、君のファミリーになる事はできない」

 藍の表情は、暗い冬の夕方あたりの空気よりももっと冷たくなって、光を底に凍らせてしまった陶器のようになる。

「……どうしてダッ? 私のファミリーは強イ。……それに、待遇だって悪くないはズだ!」

 失望と怒りを掻かき交ぜたような声を出し、激しい口調で藍は彼を叩きつけた。

「そうだな。……確かに悪くない」

「なら……!」

 セサルの表情に、藍はその時初めて強い感情の揺らぎをみつけた。彼は悲しげな表情だった。しかし、決してそこからは哀れみや哀しみといった感情が読み取れない。ただ、深い哀愁が漂っているだけだった。

「藍、君には俺達の気持ちが解らない。そして、俺の気持ちも君には解らないだろう」

「……フン。分かりたくもなイ」

 そう吐き捨てて、藍がセサルに背を向けた時だった。部屋の端、廊下の辺りで人の気配がした。

「誰ダっ!」

 藍は気配のする方へ走り、すぐに小さな荷物でも扱うように、ソレの胴のあたりを右わきに抱えてセサルの前に戻る。

「っう……」

 藍の腕に抱えられたのは、まだあどけなさが残る少年だった。

「なんで、子供?」

 腕の中の少年を床に投げ出すようにして手放せば。とん、と少年は受け身を取ってセサルの前に立ち。それを見たセサルが大きくため息を吐く。

「エンリコ。下がりなさい」

「駄目です。僕も護衛の端くれです。守らなきゃ……」

 セサルは頭痛を堪えるかのように額を右手で押さえた。

「エンリコ。俺は、下がりなさい、と言ったんだ」

「……はい」

 セサルの言葉にエンリコは眉を曇らせたが、目の前の藍の目つきに怯んでしまい、セサルの前から大人しく下がる。

 藍は初対面で怯えられたことに対して、強いショックを受けたのは明らかだった。唇を開いたまま硬直していたが、ひどくやるせない心持ちになる。

「そんな怯えナくてモ……私、傷つく」

「あっ、ご、ごめんなさい!」

「ま、まぁまぁ。そのくらいにしてやってくれ」

 落ち込む藍に慌てて謝るエンリコ。そこへすかさずセサルがフォローに入るが、藍はどんよりと暗いままでセサルの方へ顔を向けた。

「……ファミリーを断ル理由は、彼かイ?」

「俺がいなくなれば、俺のファミリーは全員路頭に迷う」

 ファミリーのボスだからこそセサルの気持ちは痛いほどよくわかる。

 しかし、だからこそボスとしての責務を果たさなければならない。

 彼の性格からして、そんな葛藤があっただろうことは藍にも理解できた。

「だとしテも、私がセサルを諦める理由にハならんサ」

「本当、君の信念は強くて眩いな」

「生憎。欲しいものハ、なんとしても手に入れタイ質でネ」

「君ならそう言うと思ったよ」

 藍はセサルから視線を外し、再びエンリコの方へ顔を向けた。

 そして今度は、しっかりと目を見つめ合わせる。

「エンリコ、君のボスの覚悟ハ本物ダ。いいボスを持ったナ」

「はい! ……とても素晴らしい人です!」

「だが、私は諦めないヨ」

 まるで宣戦布告のように言う藍。しかし、それは彼の覚悟の証でもある。


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