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お母様は私の言葉を、冷たい顔で聞いていた。
この人がいったい、如月さんを金の卵と思っているのか、それとも大切な我が子と思っているのかはわからない。でも、今の生活は間違いなく如月さんの心身に悪い。だから、私は必死になって立ち向かうしかなかった。
しばらく私を冷たい顔で見ていたお母様は「大和」と如月さんに言う。
「この子借りるわね」
「……母さん、彼女を傷付けないで」
「あら、あなた誰かに対してそう言うの、初めてね」
お母様はそう言うと、すぐに玄関に出て靴を履きはじめた。ヒールの高いパンプスであり、この人がギャラリーのオーナーだということを思い出させた。
「いらっしゃい。私と大和の絆を見に」
「……如月さん」
私は置いていかないといけない如月さんのほうを見た。
如月さんは、お母様のほうをちらっと見た後、こちらに今にも泣き出しそうな顔をして伝えた。
「怖いことにはならないと思うから」
「……うん」
こうして、私は如月さんに挨拶を済ませてから、お母様と一緒にエレベーターで高層マンションを降りていった。高層マンション近くに停めていた外車に乗り込むと、ブルンとエンジン音を響かせて車は走り出した。
「どこに向かってるんですか?」
「ギャラリー。あの子の絵ばかり売っている」
それに言葉が出なかった。
如月さんの絵の値段はすごいらしいけれど、具体的な値段は見たことがない。やがて、真っ白な幾何学的な建物が見えてきた。
「ここがあの子のためのギャラリーよ。有名建築家に頼んで、デザインしてもらったの。あの子の絵で簡単に頼めたわ」
「……如月さんの絵で、ギャラリーを建てるお金が賄えるんですか?」
「ええ。あの子の才能はそれだけあるから。いらっしゃい」
見ているとだんだん不安になってくる傾斜のギャラリーの中は、案外普通だった。それでも。あの如月さんが描く躍動感ある自然がそこかしこに根付いて、流れる音楽と一緒に静止画は動いているように見えた。
「すごい……」
「ええ。あの子は大昔から不思議な才能があった。あの子は小さい頃から、物の色を正確に捉えることができたの」
そういえば、如月さんも前にそんなことを言っていたと思う。
私にはたった一色に見える色も、彼には何個も何個も違う色が重なって見えると。でも、それだったら、絵の具はどれだけあっても足りやしないだろう。
お母様は私をギャラリーの隅々まで案内してくれた。
「最初、幼稚園では絵を描かせるとき、あの子がいろんな色に塗り分けようとするのを止めたわ。それじゃ子供らしくない絵になると。でもあの子は無視して絵を描いた。これがあの子が描いた一番古い絵。私に持ち帰ってくれた初めての絵よ」
「……これは」
言葉を失った。
本来、最初に描いた絵は拙いから、ギャラリーにそんな絵を飾っていたら親馬鹿だと揶揄されてもしょうがないはずなのに。それでも如月さんが描いた絵は、有無を言わせない勢いがあった。
描いてあるのは幼稚園のグラウンドだろうけれど。私が保育園児だったときなんて、滑り台にブランコも、こんなに立体的に描けないのに。如月さんの描いた絵は既に立体的に絵が描かれていて、しかも光の加減で色合いが変わっているのをそのままクレヨンを塗り重ねて描いてある。この時点で既に、如月さんの絵は完成されていた。
私が呆気にとられている中、お母様は続ける。
「あの子はこの頃から才能があった。でも日本の公立小学校だったらあの子の才能を潰してしまうかもしれないから、学校を必死で探した」
たしかに公立校は平均点を育てるための学校だ。だから出る杭は打たれる。あれだけ才能がある人の絵も「子供らしくない」と無神経な先生に手を加えられてしまったら、あの繊細な神経の如月さんだったらすぐに筆を折ってしまっていただろう。
お母様は目をきらきらとさせていた。
「だから有名美大出身者が講師を務めている私立校を割り当てて、あの子に絵の才能を伸ばすように訴えた。あの子は中高と見事に才能を開花させ、そして美大にも合格したけれど……美大もまた、クソのようなカリキュラムしかなかった」
それに私は黙り込んでしまう。
周回前に如月さんと同期の美大生に会ったことがある。今時、美大で油彩を取るのは、金持ちか既にパトロンがいる人でなかったら就職先がないからありえないと。転科が当たり前な中、自分で美大の授業料くらい稼げる如月さんは転科しなかったけれど……。
「事情はわかりましたけど、どうして如月さんはずっとあの家にいるんですか。大学は? 友達は? たしかに、あの人の才能はすごいです。すごいんですけど……あの人それ以外なにもないって思い詰めてます」
如月さんの才能は、簡単に潰されてしまうものだ。それを開花させて、見事に現代美術の最先端にまで育て上げたのは、お母様の才覚だろうけれど。でも。
如月さん本人の幸せは? たしかにお金は稼げる。彼の才能はずっと維持できる。でも……本当にそれだけなのだ。
私が何周も何周も重ねてきたけれど、その間、高層マンションに訪れた人はいなかった。あの人は自分の描きたい絵すら描けなくなってしまっていた。
それは本当に幸せなことなのか、私にはわからなかったんだ。
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