乳母車

与野高校文芸部

乳母車

 ガラガラガラガラガラ……。

 春風の心地よい正午の街に、乳母車を押して歩いていく一人のお母さんがいました。乳母車に乗っているのは、まだ一歳になるかならないかの小さな赤ん坊で、見るもの全てに興味津々で真ん丸の目を輝かせています。この子のご機嫌が良いのはきっとお母さんと散歩に出掛けることが嬉しかったこともあるでしょう。今日は赤ちゃんの心が滲みだしたような快晴です。

 しばらく歩いて、お母さんと赤ちゃんは商店街に入りました。いつもお母さんと買い物に来るこの商店街には、色とりどりの看板、お母さんが着ているようなお洋服、ショーケースに汽車が走っているおもちゃ屋、そして辺りには美味しそうな匂いが漂っていて、赤ちゃんはこの場所が大好きでした。往来の中を進んで行っていつもの八百屋さんの前に来た時、店先から、

「あら、島村さん?」

と呼び止められました。お母さんが声の方を向いて、こんにちは、と挨拶すると声の主は陽気な高い声で話しながら駆け寄ってきました。この恰幅のいいおばさんは隣近所の上松さんで、赤ちゃんもよく可愛がってもらっています。

「あらあら、まーちゃん、今日も可愛いでちゅねー。」

 そういって上松さんはまーちゃんを抱き上げました。上松さんは力が強くてちょっと痛いこともありますが、ふくよかで感触が柔らかいので、まーちゃんはいつでもキャッキャと笑いながら抱かれています。

「島村さんがこの町から引っ越しちゃうと、もうまーちゃんにも会えなくなっちゃうのねぇ。寂しいわ。」

「今まで良くしていただいて本当にありがとうございました。」

「なに改まらないでよ、余計に悲しくなっちゃうじゃない。……それにしても島村さん、本当に偉いわよねぇ。女手一人で子供を育てながらいつも遅くまで働いて。」

「いえいえ、そんな……。全然両立出来なくて、みんなに迷惑を掛けてばかりです。この前だって大事な仕事、結局降ろされちゃいました。」

「仕方ないわよそんなの。育児も仕事も全部一生懸命やってる島村さんは十分頑張ってるわ。まだ若いんだし、いくらでもチャンスはあるわよ。そう肩を落とさないで。」

 そう言われたお母さんは、ありがとうございます、と言って笑っていますが、まーちゃんはお母さんの表情が曇っていくのを見逃しませんでした。また、数日前の晩にお母さんが「何でよ、何でよ」と嗚咽交じりに泣いていたことも知っていたのでした。

「引っ越し先は確か長野だったかしら? 転勤だってことよね?」

「まあ、はい。そんなところです。」

「じゃあ何かきっと良いことがあるはずだわ。頑張って!」

 それから上松さんはまーちゃんの方を見て、

「まーちゃんもママのこと応援ちてるよねぇ。」

と言いながらまーちゃんの頬っぺたをマシュマロのように突っつきました。もちろんまーちゃんがお母さんを応援していないはずがありません。満面の笑みで答えました。お母さんも笑いかけました。でも、その顔はどこか疲れていて、無理矢理に笑っているのがありありと見て取れました。それがまーちゃんにも分かったのか、まーちゃんは突然ぐずりだしました。

「あらあらどうしたの、まーちゃん? うんち出ちゃったかな?」

 赤ん坊が泣くときは必ずしも粗相をしたときだとは限りません。もちろんお腹が空いたときだけでも無いのです。親の不安や悲しみをその小さな体で目いっぱいに受け止めて、子供ながらにして同情の涙を流すことだってあるのです。子供にはそうした天性の純然たる優しさが備わっています。ただ、それを伝える術をまだ知らないので、大人たちはその涙の意味が分からず困惑してしまうのですが。

 上松さんはお母さんにまーちゃんを手渡してから、ふと空を見て、

「あらいけない、何だか曇ってきたわ。洗濯物取り込まなくっちゃ。じゃあ島村さん、名残惜しいけど失礼するわね。元気でやるのよ。」

と言ってそそくさと帰っていきました。あんなに晴れていたのに、上松さんが帰っていく西の空には、鉛のような黒い雲がもうもうと立ち込めています。

お母さんは、このぐずりは粗相でも空腹でもない事は分かっていたので、なんとか泣き止ませた後、何も言わずに、ただ淡々と、まーちゃんを乳母車に乗せました。そのとき吹いた風は、さっきよりもひんやりとしていました。


ガラガラガラガラガラ……。

 いったいどのくらい歩いたでしょうか、商店街を抜けて、よく見知った街も抜けて、山の麓の寂れた小さい村に来ました。古びた小さな家がぽつりぽつりと建っているだけで、辺りは茫々たる田畑に囲まれ、その先に森閑とした山がそびえているばかりです。

 畦道を歩いていると、畑仕事を終えた老夫婦に出会いました。お婆さんはまーちゃんを見るなり、

「まぁ可愛い赤んぼだこと。」

と言ってにこやかにまーちゃんの顔を覗き込みました。そうして、お母さんにここへ来た経緯などを尋ねだしました。

「あなた達どこから来たの? こんな小さな田舎にどんな御用で?」

「ただのお散歩ですよ。二つ隣の町から来ました。今日はお天気が良かったものですから。」

「あらあら、それは大変だったでしょう。」

「風景を見ながら歩いていたら、いつの間にかそれだけ歩いてました。」

 まーちゃんはお母さんのこの言葉に少し疑問を持ちました。なぜならお母さんは家を出るときに、「今日はずっと遠くのお山に行くからね」と言っていたのです。どうして嘘をついたのでしょうか。

「やっぱり赤んぼがいるって良いわね。」

「そうですか?」

「そうよ。私も三人息子がいてね、男の子だから皆やんちゃでいっつも何かしでかしてとっても大変だったわ。でもね、皆成人して静かぁになった家にお父さんといるとね、ああ、なんだかんだで楽しかったんだな、って思うのよ。」

「そうなんですか。」

 長話になりそうだと察したのか、お母さんは適当な返事をしました。するとお爺さんが、

「今じゃあいつら、一回も帰って来やしない。まったく親不孝な奴らだよ。」

「田舎の人は皆厚かましくて苦手だなんて言うんですよ? うちの代々の畑も、こすぱ? だかなんだかが悪いからさっさと売っ払えってんですから。昔は一緒に畑仕事もやってくれたのに。ひどい話ですよ。」

「それはお気の毒に。」

 お母さんも正直なところ、息子さんたちと同意見でしたが、社交辞令として同情したのです。

 その時ふいに、遠くの空がゴロゴロと鳴り始めました。先ほどからの雨雲がこっちにも迫った来たようです。

「やだ、雷だわ。じゃあ私たちはそろそろ帰るわね。気を付けてね。」

「山の天気は荒れやすいからな。赤んぼが怖がらねえようにしろよ。」

「はい。お二人もお気をつけて。」

 そういって老夫婦と別れました。別れて老夫婦の姿が見えなくなったところで、お母さんが小さな声で、

「うざ。」

と言ったのをまーちゃんは聞き逃しませんでした。

 やがて土砂降りの雨が降ってきましたが、お母さんは傘もささず、乳母車のシェードも開けっ放しでお母さんはずんずん森の奥へ進んでいきました……。


 森の中はガタガタと揺れて、まーちゃんは少し痛いと思いました。するとお母さんは急に何か言いだしました。

「息子さんが、田舎の人は厚かましいっていうのも納得だわ。子育てなんてただ大変なだけよ。時間と体力と精神をすり減らすだけのもの。昔話をして得意げになってんじゃないわよ、うっとうしい。」

 雨と雷でよくは聞こえませんでしたが、その後もお母さんは何かぶつぶつ言っていました。まーちゃんは雨が不快なのとお母さんが怖く感じて泣きじゃくりました。

 そのうち、ある朽ち果てた山小屋に着きました。そして、お母さんはまーちゃんを抱き上げました。やっとお母さんが体を拭いてくれると喜んだのも束の間、山小屋の中の小さなテーブルにまーちゃんを寝かしていそいそと外に出ていきました。タオルかおしめでも忘れたのでしょう。まーちゃんはなおも泣いて主張します。やがてお母さんが戻ってきました。髪は乱れてぐしょぐしょです。さあようやくこの気持ち悪い感触から解放されると思い、さらに声を上げて泣きました。するとお母さんが突然、

「ああもうッ! うるさいうるさいッ!」

と、水滴を辺りにまき散らしながら頭を激しく振ってその場にへたり込んでしまいました。そして、二人は雷鳴のように泣き叫びました。まーちゃんは何が何だかわからず泣き続けます。お母さんはしきりに、

「なんでよッ! なんでよッ! なんで私ばっかりッ!」

と叫び続けます。

外はいよいよ嵐になっていきました。

……。

……。

 ひとしきり泣いたお母さんは、少し落ち着いたのか、まーちゃんの服とおしめを替えてからお乳をあげ始めました。ようやく泣き止んだまーちゃんは、すがるようにお乳を飲みました。お母さんは、小さな声を震わせながら、

「……ごめんね、ごめんね……。」

と言い泣いています。

 そうして、まーちゃんが安心して眠った時、お母さんはいつの間にかいなくなっていました。その後、来る日も来る日もまーちゃんはお母さんを待ち続けましたが、ついに現れることはなかったのです……。

……。

……。

……。

……。

 ある日の夜、まーちゃんは夢を見ました。

いつもまーちゃんが寝ていたベビーベッドの前にお母さんが立っています。やはりあの時のような疲れた顔で。やっとお母さんが迎えに来てくれたと思ったまーちゃんは必死で泣きました。泣き叫びました。手と足を激しくばたつかせながら、力の限り泣きました。こうすればきっとまた抱き上げてもらえると思ったのです。しかしお母さん依然として立ち尽くしたままでまーちゃんを見つめています。まーちゃんはなおも声を上げて泣き叫びました。するとお母さんは突然、

「うるさいッ!」

と、まーちゃんを怒鳴りつけました。そして、何か呪文のように話し始めました。

「あんたさえいなければ、普通の恋愛をして、自分の夢を叶えて、遊びたいときに遊んで、誰からも尊敬されて、もっと幸せになれたのにッ! あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか……。」

 まーちゃんは、お母さんの剣幕を見て本能的に悟ったのです。お母さんが可愛がっていたのは、愛していたのは、僕ではなくお母さん自身だったということを。それに気づいたときにはもうまーちゃんは泣き疲れて、何の感情も感じなくなっていました。そうして……。

 ドゴーン!

 大きな雷がまーちゃんのいる小屋に直撃しました……。


  今、まーちゃんのお母さんはどこで何をしているのでしょうか。自分のやりたいことが出来て幸せでしょうか。それとも、わが子を捨てた罪悪感を少しは感じているのでしょうか。それは誰にも分かりませんが、彼女のことです。もしかするとまーちゃんのことなど覚えてすらないかもしれません。だって、我が子なんかより、自分のほうが何倍も可愛いですからね。

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