05 バー

 ジュノさんの部屋は、二十階建てマンションの十九階にあったことをエレベーターホールで知った。

 オートロック式で、自動ドアを通って外に出ると、住宅地の中に建っていたことがわかった。


「歩いて十分くらいだよ。駅前なんだ」


 ジュノさんに着いて、坂道を下っていった。周りの景色は住宅から店舗になり、賑やかな居酒屋の看板が見えてきた辺りでジュノさんは暗い路地に入った。


「ここ。メテオライト。どう、思い出せそう?」


 ジュノさんが指したのは緑色の看板。「Meteolight」と書かれていた。地下へと続く細い階段があり、その先にあるらしい。


「初めて来た感覚です」

「そっか。とにかく入ってみようか」


 慎重に階段を下りて、ジュノさんが木の扉を開いた。店内に一歩足を踏み入れた途端、バニラのような香りがした。


「いらっしゃいませ」


 真っ直ぐなカウンターの向こうに、四十代くらいの男性が立っていた。彼がマスターらしい。客はおらず、俺とジュノさんは真ん中の方に腰掛けた。マスターが言った。


「ジュノさん、昨日もでしたね、その方と」

「はい。そうなんです。彼、メイくん……スマホを落としていきませんでしたか?」

「いえ……お預かりしてないですね」

「そうですか。まあ、このためだけに来たんじゃないですよ。今夜もゆっくりさせてもらいます」


 俺はきょろきょろと店内を見回してしまった。マスターの背後に、ボトルがずらりと並んだ棚があり、薄暗い照明ではラベルの文字は読み取れなかった。


「メイくん。昨日飲んだものと同じのを注文してみる? 君は僕より後に来て、ビールを頼んだ」

「そうします」


 俺はビールを、ジュノさんはジントニックを飲むことにした。ジュノさんが言ってもいないしタバコを取り出してもいないのに、マスターが灰皿を置いたので、ジュノさんはこの店に何度か来ているのだろう。

 タバコに火をつけたジュノさんは、こうマスターに切り出した。


「メイくんって、この店にはよく来てましたっけ? 彼、酔っ払うとどの店に行ったのか忘れるみたいで」

「昨日が初めてだと思いますよ。何年か前になると、ちょっと自信がないですけど……」

「そうですか。ありがとうございます」


 空振りか。マスターは俺のことを知らない。それにしても、ジュノさんは口が上手い。俺が記憶喪失であることを隠してみせた。


「お待たせいたしました」


 ビールを飲んだ。コーヒーと同じく、俺の好みらしい。しかし、それ以上の感想は出てこない。記憶の蓋は開きそうにない。


「ジュノさん。ここで俺たち、どんな話をしたんですか?」

「メイくんの方から、隣に座っていいか聞いてきてね。それで、まずはお酒の話だったかな……」


 ジュノさんは時折紫煙を吐き出しながら、説明してくれた。ジュノさんの歳の話から、誕生日であることで盛り上がり、俺はここのお代は奢ると言い始めたらしい。

 ところが、俺は調子に乗って白ワインをどんどん飲み、酔っ払っていったのだとか。そして、飛び出したのが「人に言えないようなことしてきたから」というセリフだったという。


「僕も多少酔ってたからさ。メイくんのことしつこく聞こうとしたんだけど、かわされてね。結局潰れそうになってたから、僕が二人分払った」

「……俺、カッコ悪いっすね」


 二人で店を出た後、ジュノさんは俺を心配してくれて、コンビニで水を買ってくれたらしい。俺はそれをちょびちょびと飲み、その後こんなことを言ったのだとか。


「誕生日の思い出作りませんか、って誘われてね。そういう話はしてなかったのに、メイくん勘付いたのかな。役割確認して。じゃあってなって」


 とても自分がしでかしたとは思えないほどの行動だ。記憶を失くす前と後では性格が変わってしまったのだろうか。それとも酒の勢いだったのか。


「メイくん、次飲む?」

「あっ、はい。俺は昨日の二杯目は……」

「白ワインをボトルで開けてくれた。今日はグラスで頼もうか」


 ジュノさんも白ワインにした。美味いがそれだけだ。ジュノさんのタバコは四本目になっていた。俺たちの他にはまだ客がこない。


「ジュノさん。やっぱり思い出せそうにありません。ここは初めて来るような感覚ですし、話したことにもまるでピンと来ないし……」

「そうか。ここに来たら何か変わるかと思ったんだけど」


 ワインが尽き、これ以上いても今夜は仕方がない、ということになり、俺たちは席を立った。結局、客は俺たちだけだった。


「ありがとうございました。またお越しください」


 そんなマスターの定型句にジュノさんは笑みで応えた。俺もつられてそうした。


 ――ああ、なんとなくふわふわしてきた。俺はそんなに酒には強くないのか。


 そして、無意識にジュノさんの手を握ってしまった。


「メイくん?」

「あっ……済みません」

「いいよ。このまま帰ろう」


 帰る、という言葉に胸がとくんと跳ねた。あのマンションを、帰る場所だと思ってもいいのだろうか。

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