同化
北巻
第一話
いまからするお話の題を仮に「鬱病の赤ちゃん」とさせてください。ええ、仮にと言いますのは、私はこのタイトルにどうも満足がいっていないからです。悪くはないのですが、これだ! といった、しっくりした実感が湧かないのです。どうでもよい些末な問題かもしれませんが、私にとっては重大事項です。もしよければ、お話を聞いた後でかまいません。私の耳元でこっそり囁いて、どうかほんとうのタイトルを教えてはくれませんでしょうか。
ある初夏の真昼、私は剣を探していました。剣というのはもちろんあの両刃の細長い武器のことです。とても尊敬できる方から譲り受けた由緒正しい剣でした。あろうことか私はその命よりも大切な剣を失くしてしまったのです。
その日の朝ベッドから起きたときにすぐ気がつきました。というのも、剣はいつも部屋の隅に立て掛けて置いていて、目覚めてベッドから上体を起こすと一番最初に目につく場所にあるからです。目覚めてすぐに剣を確認するのは、私の習慣でした。ある人にとっては時計であり、ある人にとっては愛猫であるものが、私にとっては剣でした。剣がありませんでした。抜け殻でした。部屋の隅にあるのは鞘だけで、収まっているはずの剣がないのです。
私は大慌てで仲間の薬師を呼びました。事情を説明すると、彼女は寝惚け眼をこすってあくび交じりに呑気な声で言いました。
「剣? 通販で鞘だけ買ったんじゃありませんでしたっけ。中身の剣はお金がないから買えなかったって、昨日酒場でぼやいていたじゃありませんか」
「バカなことを言うな」
「いえ、そのはずですよ。妙な人だなあって、私その時思ってましたもん。妄想ですよ、妄想。それよりお腹空きました。下の食堂でなにか食べませんか。マルゲリータが食べたい」
「妄想なわけない」
私は薬師を強引に付き合わせて、失くしたんだとすれば此処だろうといった、思い当たる節がある場所を転々と捜し回りました。捜す最中、歩くと身体に違和感がありました。身体の左側がやけに軽いのです。その時に私は、やはり妄想などではないのだと思いました。といいますのは、剣というのは左の腰に提げるのが一般的な携帯方法なのです。普段、剣を携えた状態での生活に慣れているからこそ、剣の重みがなくなった私の身体の左半分は軽さを覚えたのです。やはり自分には剣があったのだと安堵しました。そのことを説明すると、はじめは私の気がおかしいのだと指摘していた薬師も、たしかにやや左肩が上がっているだの、足を上げる動きが左の方が早いなど、いかにも医者らしい発言でもって、私が気狂いではなく、実際に剣を失くしてしまったのだということを認めるのでした。
「ありがとう」
感謝の言葉が無意識に口からこぼれました。私は嬉しかったのです。まだ剣は見つかっていませんが、ただ彼女が自分の状況を認めてくれたのが心の底から嬉しかったのでした。
「いいんですよお礼なんて。何事も助け合いです。私たちはお互い逃げられない関係なのですから。で、いつ見つかります?」
「たぶん、次で見つかりそうだ」
二人で剣を捜しました。剣は予想通り、次の場所で見つかりました。
町に帰ると、彼女が私を祝福してくれました。具体的には豪勢な料理を振る舞ってくれたのです。ハンバーグだったり、パスタだったり、美味しい御馳走をこれでもかというくらい私は食べました。食事中、私はなぜだか不意に鰻重が食べたいなあ、だなんて思ったのです。これは私の憶測ですが、テーブルに並べられた料理は洋食ばかりだったので、私に馴染みのある和食を自然に身体が求めた結果なのではないかと考えました。そう思った瞬間です。シェフらしき人が私のテーブルに料理を運んできました。それはピザでした。ピザの具は「鬱病の赤ちゃん」です。二、三センチくらいでしょうか。ちょうどエビの剥き身みたいな姿形をしておりまして、赤ちゃんというよりも胎児に近いようなものが切られたピザ生地の上にひとつ、なんの違和感もなしに乗っかっていたのです。ピンク色の「鬱病の赤ちゃん」は、蒸し焼きにした目玉焼きのような白い膜を張っておりました。私はそのピザの耳の部分を手で摘まんで持ち、抵抗なく食べました。「鬱病の赤ちゃん」を噛みます。噛み割れて何かが垂れてきました。美味しかったか、不味かったか、味は覚えておりません。
幾日か経った朝、私はベッドから目を覚まして、いつも通りの習慣を始めました。部屋の隅には剣どころか、鞘さえも立て掛けられていないのでした。
同化 北巻 @kitamaki
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