第3話

 大きなタライに汲みたての冷たい水を入れ、テーブルクロスを入れると、足で踏む。

すぐに細かな泡がぷくぷくと泡だってきた。

みんな洗濯は嫌がるけど、私は好き。

昔覚えたステップで、水に濡れたクロスの上を舞う。

口元から自然にワルツのリズムが流れてきた。

それを水ですすいで、絞り器にかける。

水に濡れた大きな一枚布は、重くて濡れるし誰もやりたがらない。

だから私がやっていても、誰も手伝いに来ない。

洗濯をしている時だけが、一人でいられる唯一の時間だった。

張られたロープに、バサリと白い布を広げる。

風に吹かれ、それは鮮やかに翻った。

まるで女王さまのスカートみたい。

純白に揺れるスカートを、まるで自分が着ているような気分で、鼻歌を交えながらくるりと一回転する。

洗濯物の、最後のクロスを乾し終えた。


「素敵な曲だね。その曲はどこで覚えたの?」


 突然声をかけられ、振り返る。

黒い髪に耳当てのついたターバンのような帽子を深くかぶっている。

首に巻いたボロ布と、すり切れたような手袋、軽くて動きやすい服装からみるに、城の厨房に狩ったウサギかウズラを売りに来た狩人だろう。

座っていた石垣の上から身軽に飛び降りると、緑がかった灰色の目がじっと私をのぞき込む。


「キミの名は?」

「……。マノン」

「そう。マノンっていうんだ」

「あなたは?」

「俺? 俺は、トーマス」


 嘘だ。

どれだけの年月が過ぎても、髪の色を変え、服装や話し方を変えても分かる。

彼はランデルだ。

間もなくこの国の王太子となる人。


「あまりみない顔だと思ってさ。マノンは新入りなの?」


 だからこの城に来てはいけなかったんだ。

たった三ヶ月ならと、お金に目が眩んだ私がバカだった。

顔を見られないよう、干し立ての布で顔を覆い隠す。


「恥ずかしがらないで。もっとよく顔を見せて」


 彼が掴んだクロスを引き離そうとするから、私はその反対側に逃げる。

どうしてこんなところに来たの? 

もう私とは無関係な人なのに。

今の彼が一番関わってはいけない人。

忘れていて欲しかった。

どうして放っておいてくれなかったの? 

私だって、あなたのことを忘れていたかった。

なのに一目みてすぐに分かった。

分かってしまった。

今の自分の姿を、この人にだけは知られたくなかったのに!


「マノン。お願いだから逃げないで。キミは俺の知っている人によく似てるんだ。だから声をかけた。怖がらせるつもりはなかったんだ」


 彼の手が私の腕を掴む。

今すぐにでもここから逃げ出したい。


「俺に見覚えない? この顔にさ、どこかで会ったことない? 昔……。ほら、子供の頃とかにさ」

「私はあなたのことなんて知らない。話しかけてこないで」

「そんなことを言って、こっちをよく見ようともしてないじゃないか。俺はキミのことを覚えているよ。忘れたりなんかしない」

「早く手を放して! あっちへ行って!」

「……。そうか。ゴメン」


 彼の手が離れる。

ゆっくりと後ろに一歩一歩下がりながら、トーマスと名乗ったランデルが言った。


「本当に、俺のこと覚えてない?」


 答える代わりに、首を激しく横にふる。


「そっか。分かった。もうこれ以上聞かない。突然驚かせてゴメン。邪魔はしない。だから、遠くから見てる。それならいい?」


 ランデルは、まだ私のことを覚えていてくれたんだ。

私だって覚えてる。

忘れたことなんてなかった。

だからランデルも、私を見つけてしまったのね。

流れる涙を拭いながら、それでも私は知らないフリをする。

いつかこんな日が来たとしても、そうするんだって、ここを出た時からずっと決めていた。

ランデルが私のことを覚えていてくれた。

それを知れただけで、もう十分。


「よくない。早くどこかへ行って」

「どうして泣いてるの?」


 彼が一歩近づく。

その手を伸ばし、慰めようとしてくれてるの?


「私はトーマスなんて人は知らない。もうここへは来ないで!」

「そっか。分かったよ。人違いだったのかも。俺は忘れられても、仕方ない人間なんだ」

「さようなら」


 そう言った私に、彼は苦しそうに息を止める。

もういい。

たとえ厨房の人たちに片付けが出来てないって酷く叱られたって、いまここでこれ以上、彼と顔を合わせている方が辛い。

出しっぱなしの絞り器はそのままに、私は洗濯用のタライだけをかき集めた。

厨房のリネン室に駆け込むと、内側から鍵をかける。

流れる涙を、どうしても抑えることが出来なかった。

声を殺し、一人むせび泣く。


 ランデルは私がリアンネだと気づいていた。

だけど互いにそれを打ち明けたとして、今の私と彼とでは身分が違いすぎる。

もう決して手の届かない人。

そして会ってはいけない人。

こうなる前に、この国から出て行けばよかったんだ。

どうしてもっと早く、そうしなかったんだろう。

私の中にも、まだこの城への未練が残ってたってことだったのかな。

だとしたら、本当に振り切らなくてはいけない……。


 しばらく泣いて、ようやく気分が落ち着いてくる。

私は辺りに人気がないのを確認してから、外に出しっぱなしにしていた洗濯道具を片付けた。

今日はどんよりとした曇り空。

まだクロスも布巾も乾ききっていない。

ランデルの姿は、もうどこにも見えなかった。

よかった。

彼はそう簡単に、しょっちゅう変装してお忍びでこんなところに来られるような人じゃない。

大事な式典も控えている。

もうここへ来ることもなければ、会うこともないだろう。

式が終われば、私はすぐこの城を追い出される。

そしたら今度こそ、国外にでよう。

もうこれで、思い残すことは何もなくなった。


 厨房に戻ると、貴族たちに出す夕食の準備で、いつもの騒ぎが始まっていた。


「マノン! まーたお前はどこに姿を消してたんだい? さっさと後始末をしな!」


 ミナや他の調理師たちに怒鳴られながら、野菜を運んだり、使い終わった器具やら鍋やらをひたすら洗い続けた。

いつもは辛いこの作業も、今はありがたい。

余計なことを考え過ぎないですむから。

忙しいのが一段落すると、今度は皮を剥いだウサギやむしった鳥の羽根と骨を集め、肥だめとなっている区画に運び込む。

生ゴミと糞尿の混ざったとんでもない悪臭が立ちこめるその場所は、地面がドロドロに溶けたようになっていた。

私は息を止めそこに近づくと、桶の中の野菜クズや小骨を投げ捨てる。

血や抜けた毛にまみれた桶を洗い終えると、乾していたテーブルクロスとナプキンを取り込む。

しわ伸ばしは、また明日だ。


 こうして、私の毎日は過ぎて行く。

ランデルはそれ以降、一度も姿を見せることはなかった。

それでいい。

私は「マノン」と名乗ったのだから、よく似た別人だと判断したのだろう。

あれから5年以上の月日が経っている。

もう私の顔なんて、ちゃんと覚えてもいないだろう。

彼はあの頃のままだったけど、私はすっかり変わってしまった。

分からなくでも仕方ないし、そもそも出会うのが間違っていたんだ。

ただ一時すれ違っただけの偶然。

それだけのこと。

私は暗い夜空の下、リネン室の扉を閉める。

ふかふかのテーブルクロスに身を包むと、目を閉じた。

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