第十七話 薬師寺元一挙兵之次第(一)

 政元を取り巻く政治的状況はなにひとつ改善の兆しが見られなかった。

 朝廷からは義澄を経由して

「今上帝の即位式典を早う執行せよ」

 と矢の催促。

 義澄は義澄で政元以外に頼るところがなく

「急ぎ段銭たんせんを徴収し即位式典を執行せよ」

 と息巻くばかりであった。

 大和では相変わらず赤澤あかざわ宗益そうえきが暴れ回っており、興福寺はいくら訴えても動こうとしない政元ではなく、朝廷に押領停止を訴え出ていた。

(このままでは朝敵に指定されかねん)

 危機感を抱いた政元は宗益の眼を他所に向けさせようとする。宗益を堺南庄代官に補任したのである。

 これは

「堺をくれてやるから大和では隠忍せよ」

 という政元からの暗示だった。じっさい商都堺から上がる租税は相当額に上る。これで満足しろというわけである。

 しかし政元は堺を宗益に与えるために痛い代償を支払わなければならなかった。もともと堺南庄を知行していたのは安富元家の被官人髙橋光正だった。堺を宗益に与えるために、光正に腹を切らせなければならなくなってしまったのである。

 腹心髙橋光正の切腹にショックを受けたのか、翌年元家は死去している。これで大和における宗益の興福寺領押領が止んだというなら、光正にしても元家にしても死んだ甲斐があったというものだが、どうやら宗益はそれでも押領を止めなかったらしい。いよいよ怒り心頭に発した政元は

「寺社領押領を停止し旧に復すべし」

 と厳命すると、まずは京都にあった赤澤あかざわ長経ながつねが、次いで宗益本人がそれぞれ逐電した。長経は人質として京都に置かれていたから、これが逐電したということは、宗益がいつ政元に牙を剥いてもおかしくないことを意味する。にわかにきな臭くなって京都は騒然となった。

 君臣のいざこざに首を突っ込んできたのが薬師寺元一だ。政元に対し宗益赦免を願い出たのである。

 元一にしても宗益にしても、武的力量を以てあるじに仕えてきたという自負が強い。この願出には、元一の宗益に対する親近感が根底にあったことは間違いなかろう。一方でこれを、六郎擁立を目指す元一が宗益取り込みを画策した多数派工作だとする見方もある。六郎養子の件といい、宗益赦免を願い出た件といい、胆力に優れた元一の人柄が垣間見える。そういったところを見込まれたからこそ、摂津のような要衝の守護代職を任されたのであろう。場合によっては薬師寺元一が戦国大名化していた歴史もあったかもしれない。

 もっとも政元と元一の関係はいま、こじれにこじれていた。

 一説によれば元一は、若いころの政元の寵童で男色の相手をつとめたとされている。そんな元一からしてみれば、身体まで捧げて主君に仕えてきたのだから相応の見返り(摂津守護代職の保全)を求めるのは当然ということになる。このころの元一がなにかと政元に楯突いて見えるのは、政元がことあるごとに元一に守護代職召し上げをちらつかせたからであって、その意味では政元の言動にも原因はある。

 翻ってその政元にしてみれば、何かにつけて自らの意に反する行動をとる元一に対し、飼い犬に手を噛まれたの念を抱いていたのではなかろうか。

 ともかくも互い胸に一物抱えたまま、宗益赦免の願い出は受け容れられた。もとより河内に畠山はたけやま尚慶ひさよしが健在だった当時、使い勝手の良かった宗益を討伐するなどそもそも政元の本意ではなかった節も見受けられる。そんなところに元一が差し出がましくも宗益赦免を願い出てきたのだから、あからさまな多数派工作であり、政元からはいっそう小癪な行動に見えたことだろう。

「元一のやりよう目に余る。摂津守護代職を解くゆえに、いずこなりとも立ち去るが良い」

 腹を立てた政元がまたぞろこんなことを言うと、もとより摂津守護代職の維持保全こそ行動原理だった元一が泣きついた先は将軍義澄だった。

 財力や武力に乏しい将軍だったが、いやこれら要素に乏しかったからこそ、義澄はここぞとばかりに調停に乗りだした。後の歴史でも見られるように足利将軍が対立する諸大名を頻りに仲介したのは、争いを止めることによって、その地域や人に対し、行使できる影響力が将軍にはあると誇示し得たからだ。

 泣きつかれた義澄は喜々として仲介に乗りだしたことだろう。将軍に諭された政元はあげた拳を下ろす次第となった。

 首の皮一枚繋がった元一だったが、己が存立の根拠だった摂津守護代職をこうもたびたび召し上げられそうになれば逆心が芽生えて当然だ。

 そんなときにまたも立ち上がったのが義尹上洛の風聞だった。火のないところに煙は立たぬ。義尹から阿波守護家宛に御内書が下されたことが噂の出処ではなかろうか。

 慈雲院じうんいんは六郎養子が申し入れられたことで直ちに義尹との関係悪化を懸念したはずである。

 なので慈雲院は六郎を京兆家に下すに先立って、義尹に宛てて一通の書面を送った。

 挨拶文の内容そのものは何の変哲もなく通り一遍のもので、越中御座所に流れ着いた義尹のもとに参じた北陸東国諸大名の挨拶とさほど代わり映えしないものだったが、手紙のやりとりには口頭説明がつきものだ。

「六郎は義忠殿生害になんの関係もありません。折檻は政元に下されますよう」

 くらいのことは伝えていたかもしれない。

 慈雲院の手紙にしても義尹から下された御内書にしても、取り立てて目立つ内容ではなかっただろうが、両者の間で手紙のやりとりがあったというだけで義尹上洛の風聞が立ち上った。

 もしかしたら御内書が下ったあたりで、慈雲院から元一に指嗾のひとつもあったかもしれない。

「義尹様から御内書が下された。何をすれば良いか分かっておろう」

 政元さえいなくなってくれれば、摂津守護代職が召し上げられることも大内の脅威もなくなるのだ。

(やるしかあれへんやろ)

 永正元年(一五〇四)九月三日、京都から寺町てらまち又三郎またさぶろうが姿を消した。又三郎は元一の弟で、政元に預けられていた人質だ。先の赤澤長経の事例同様、人質の退転はそのまま謀反を意味している。ここに薬師寺元一の謀叛は明白となったのである。

 元一は宗益のように自らも寺に出奔するような生やさしい真似はしなかった。その代わり兵を率いて淀川を越え、淀城に入城したのであった。

 ほんらい元一一党は、摂津に上陸侵攻してくるであろう大内軍を迎え撃つ役割を与えられた軍団だった。それが突如その矛先を京都に向けたのである。ウクライナ戦争において、本国からの補給が滞りがちだったことに怒りモスクワに進撃したプリゴジンの叛乱に似ている。間に割って入る者もなく、喉元に刃を突き付けられることとなった政元の心中如何ばかりだったか。

 ともかくも政元は、元一の挙兵により義尹討伐どころか謀反鎮圧に全力を傾けなければならなくなってしまったのであった。状況は悪化の一途をたどるばかりであった。

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