第五話 明應八年之赤澤宗益(五)
「そなたの武勇は
手ずから太刀を与えて褒賞する政元。
樊噲とは漢の高祖劉邦に仕え、武勇で知られた
紀元前二〇六年、秦討滅の軍を進めていた劉邦は、秦都咸陽を陥れるとともに、後背にあたる函谷関を封鎖した。これに怒ったのが楚の覇王
釈明の必要に迫られた劉邦はわずかな供廻りだけを連れて
きな臭さを残したまま宴もたけなわとなり、項羽の従弟項荘が
「
と、やにわに剣を取って舞い始めた。
その剣先はたびたび劉邦の鼻先をかすめ、どうやら項荘は剣舞にかこつけて劉邦を殺すつもりらしいと悟った張良は中座し、幕外で待機していた樊噲に劉邦の危機を伝えると、樊噲は守衛を突き飛ばして宴席に立ち入った。
呼ばれてもいないのに両陣営のお歴々が集う宴席に踏み込む度胸、
「戦勝の振る舞いを所望いたす!」
さしも覇王ですら樊噲の大喝に圧倒され、
「まあ座って呑め」
酒を勧めるのがやっとだった。
樊噲は大盃になみなみと注がれた一斗(約一・八リットル)をたちまち飲み干し、項羽が豚の肩肉をまるまる与えると、盾をまな板に、腰に差した剣でこれを切り分け、生のまま平らげてしまった。
「勇士、まだ呑めるか」
項羽が勧めると、樊噲が言った。
「臣は死すら避けません。どうして酒ごときを辞することがありましょうや。そもそも秦王には虎狼の心があり、殺した人数は数えきれず、刑罰を科するに処刑しきれないのではないかと心配するほどで、だからこそ人々の心は秦から離れたのです。
(中略)沛公は秦を破り最初に咸陽に入りましたが、秦の宝物に手を付けず宮廷を封鎖し、神妙に大王(項羽)の到着を待っていました。ところが大王は佞人の策を取り上げて功のあった沛公を殺そうとなさっている。これでは滅んだ秦と変わるところがなく、大王のためになりません」
あまりの剣幕に項羽は
「とにかく落ち着いて座れ」
樊噲をなだめなければならないほどだった。
この隙に宴席から逃れ、虎口を脱した劉邦が、後年項羽を破って創業を成し遂げたことは、本邦でも広く知られた
この樊噲に勝ると称されたのだから、武人として最大の讃辞を得たといって良い。また賜った太刀の設えも、これが並の銘ではないことが手に取っただけで分かるほどだった。
しかし宗益はまだ満足していないようにして求めた。
「大和を攻めとうございます」
「……」
否とも
「大和切り取り次第の御下知をたまわりとうございます」
「ふぅむ……」
分かったような分からないような生返事をして、政元が訊ねた。
「なにゆえ大和を攻めたい」
なにゆえもなにもあったものではない。武士が弓矢をもって敵から土地を切り取るのは息をするのと同じくらい当たり前のことだ。にもかかわらず、政元がなにゆえ大和を攻めたいのかなどと訊ねた所以は、要するに
「それはやめてくれ」
という本音の吐露に他ならぬ。
何度も繰り返してきたとおり、京畿周辺は荘園の総本山のようなところだった。特に大和国は興福寺の守護権に属しており、大袈裟な話ではなく「どこに石を投げても興福寺領に落ちる」というのが当時の大和国の実情だった。
そんなところを切り取るというのだから、その行為は自ずと荘園押領になる。特にこのころは宗益の活躍もあってやや義高方が盛り返していたものの、未だ予断を許さない戦況が続いていた。大和切り取りは犯罪行為に他ならず、情勢の傾きいかんでは政元が朝敵に指定される流れを生み出し、それを加速させかねない危険性があった。
しかし政元の苦悩を知ってか知らずか
「諸兵が腹を空かせてますよってに……」
宗益、にじり寄って言う。
御下知なければ飢えた兵が何をするか分かりませんぞ――。
言外にそう脅しているのである。
いまや赤澤兵団は、飢えや苛政に怯えるかよわい個人から、略奪狼藉の味を覚えた強盗集団に変貌を遂げていた。それはさながら人間の味を覚えた人食い虎のようなものであった。
いちど人の味を覚えてしまった虎は、何度でも人里に下りてきて人間を襲うものであった。人の味を覚えた虎と同じで、略奪狼藉の味を占めた赤澤兵団は、善良で軟弱だった個人に戻ることなど、もうできなくなってしまっていた。こういった連中に略奪狼藉を禁ずれば、その凶刃がどこに向くか分からず、かえって危険だった。
いくら渋っても、政元には
「好きにせよ」
という回答しか残されていなかったのであった。
宗益は兵団を引き連れて
これに対し、伝統の流鏑馬芸以外に目立った戦技を持たぬ大和武士は防戦一方で、いよいよ危機が差し迫った大和六方衆は、赤澤宗益の名字を籠める最終手段に訴えることとなった。
「名字籠め」とは寺社に仇なす怨敵の名字を紙に書き、これを五社(春日大社を構成する五所社)七堂(興福寺を構成する七堂舎)の内陣に打ちつけ、呪詛調伏して呪い殺す一種の刑罰だ。名字を籠められた者は、あらゆる手段を用いて詫びを入れ名字を取り出してもらわねば、病気、災害などによって不慮の死を遂げるとされた。
もちろん当時の人々だからとて無条件に呪いを信じていたわけではなかった。自分の名字が籠められたと聞けば嫌な気持ちにはなっただろうが、呪い殺される云々に関してはさすがに半信半疑だっただろう。
それでは興福寺は、単に心理的な負の影響を狙って敵の名字を籠めたのだろうか。
前述したとおり名字は五社七堂に籠められる。五社七堂とはすなわち興福寺全体のことだ。興福寺の総力をあげて刑罰を科すわけだから、その発動には衆議が欠かせない。名字が内陣に打ちつけられたら、今度は全僧あげての呪詛調伏が行われた。
このように名字を籠めるには多人数の手を経る必要があったわけで、これは取りも直さず興福寺全体として犯罪者に指定したことを意味する。現代に喩えていうならば指名手配をうたれたようなものだ。
なので名字を籠められた者は、大和国内で興福寺関係者に見つかってしまえば殺されても文句は言えなかった。呪い云々はおまけに過ぎず、賞金首にかけるという意味では実効性のある刑罰だったのである。
名字を籠められた事例をひもとくと、その原因とされた行為のほとんどが、寺社領押領或いは年貢未進など興福寺の財産権に対する侵害だったことが分かる。本件でも、宗益が奈良に乱入し、略奪狼藉や寺社領押領を働いたことがその理由だった。
しかし、である。
いくら指名手配にかけてみたところで、犯罪者側の力が取り締まる側を上回っておれば意味がない。宗益は興福寺関係者に殺されるどころか、自分が呪詛されたらしいと聞いて怒り、かえって手当たり次第奈良を蹂躙する始末であった。
名字を籠めたところでなんの役にも立たないことを今さらのように思い知らされた興福寺は、遅まきながら政元や朝廷に、宗益の押領停止を訴え出る仕儀と相成った。
戦って勝てず、呪いが駄目なら次は訴訟。武的力量に乏しい寺社の悲哀が際立って涙ぐましい。
以上述べてきたとおり、明応八年(一四九九)の下半期、叡山焼討に始まり大和を席捲するまでの赤澤宗益の活躍には目を瞠るものがある。
優勢だった義尹方を沈黙に追いやり、四五分裂状態にあった義高方を勝利に導いたのは宗益の武功によるところが大きい。
文字どおり樊噲にも比肩する古今比類ない武勇の持ち主だったといえよう。
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