第四話 寺社本所領押領之事
元秀の活躍が目覚ましい。
政変では、赤松や武田といった各勢力との折衝を取り持つのみならず、一軍まで率いて正覚寺を取り囲み、将軍義材が投降したのも元秀陣中だった。富子に殺されそうになった義材を元秀の邸宅に移送したことも、政元の元秀に寄せる信頼の厚さを表している。
大車輪の活躍により上原元秀は、単に「神六」だったものが、やがて「左衛門大夫」となり、いまでは「紀伊守」などと呼ばれる大身の侍に変身していた。政元はなおも活躍する元秀の労に報いるため、政変直後の明応二年(一四九三)七月、上原元秀を細川京兆家の一族に列する人事を発表した。
これはおそらく、足利将軍家が手柄のあった者に細川、畠山、廣澤などといった足利一門の名字を名乗らせる「
実際、元秀の活動は
各勢力の折衝には手みやげが必要だっただろうし、そもそもいくさには銭がかかる。降将とはいえ前将軍だった義材のために牢舎をこしらえたから、ここでもそれなりの銭はかかっているはずだった。
その元秀に対し、政元が一族に列することで報いようとした所以は、結局のところ
「加増してやれるほどの領地も銭もなかったから」
これに尽きよう。
実利をもって苦労に報いることができないから、名誉を与えることで代えようとしたのである。
では政元でさえ実利が挙がっていなかった当時、なぜ上原元秀ごときが銭集めに成功していたのだろうか。もちろん真っ当な方法ではない。寺社本所領を横領していたのである。これは当時としてもれっきとした犯罪行為だった。他人の土地から上がる収益を勝手に我が物にして良いはずがない。
最盛期において荘園の面積は、国土全体の約六割を占めたとされている。戦国時代当時、それらはまだ日本中に根強く残っていた。
現代の我々は太閤検地以降のイメージから、ともすればその領土につき武家の一円支配が行われてきたように考えがちだが、実は戦国時代当時においても国土の大半は、たとえ名目上のこととはいえ寺社や本所(公家)の私領だった。
特に京都を中心とする畿内及びその周縁部は荘園の総本山のようなところだった。荘園領主のほとんどが在京していた中世、荘園から上がってくる貢納品の輸送コストを考えれば、京都に近い方がなにかと便利がよかったからそうなるのは当然のことだ。よさげな場所はたいてい誰かの土地だった。
京都周辺で軍事活動を行う武家にとって、荘園は無視しようにもできない存在だったのである。
後年の話になるが、あの明智光秀は寺社本所領押領の停止を主君信長に厳命されている。明智光秀も、上原元秀と同様の犯罪を行っていたということである。ちなみに両名の本拠地はともに丹波国だ。
丹波に本拠を置き、荘園横領に手を染めていた――。
なにかと共通点の多いこの両名が特に悪辣だったというよりは、領内に荘園が入り組んでいて、思ったより手取りが少ない丹波のような場所に本拠を置いている限り、そんな犯罪行為にでも手を染めなければ、主人の期待に沿う活動が出来なかったと考えるべきだろう。
「京都周辺で軍事活動を行う武家」にとって、寺社本所領押領は宿命だったのである。
もちろん信長とてそんなことは百も承知だったはずだ。しかし当時は信長にも銭がなく(それでも他と比較すれば桁違いの金満大名だっただろうが)、光秀に補填してやれるアテといえば、まだ切り取ってもいない石見出雲二ヵ国への国替えを約束する程度だった。
信長が窮乏していた証拠に、正親町天皇の譲位費用捻出を朝廷から打診されたにも関わらず
「今年は金神年にあたりよろしくない」
と儀式執行を回避していることが挙げられる。こんなものは
信長は本気で迷信を恐れたのではない。譲位式典を執行できるほどの財政的余裕がなかったので、詭弁を弄してでも儀式を延期したかったと考えた方が妥当である。
これは天正九年(一五八一)のことだから、年表上は信長の覇業も相当煮詰まっていたように見える時期だが、そんな時期でさえ信長は金欠に悩まされていたということだ。
ちなみに信長が譲位式典を延期したのはこれが初めてではない。天正元年(一五七三)末には信長の側から譲位を言い出しておきながら、当の信長が
「当年すでに余日無きのあいだ」
として延引している。今年はもう余裕がないなどといいながら、翌年に決行されることもなかった。銭がなかったからと解釈するしかない。
当時、天皇が在位中に崩御する異常事態が三代にわたって続いていた。この間京畿の支配者はめまぐるしく入れ替わったが、譲位式典を執行できる者は誰ひとり現れなかった。
京都を捨てて流浪していた足利将軍家や、権力の間隙を衝くかたちで入京してきた柳本賢治といったやつばらと比較すれば、さすがに信長は相当マシに見えただろうが、それでも譲位式典を二度にわたって延期していた当時の信長を朝廷が厳しい目で見ていただろうことは想像に難くない。
「信長よ、お前もか」
そんなふうに言いたげな公家連中の冷たい視線を、信長もひしひしと感じていたことだろう。
そのうえ更に配下である明智光秀が廷臣の私領を押領していたのだから、信長としては
「光秀よ、今はやめてくれ」
という気持ちだったに違いない。
延徳三年(一四九一)、
当時すでに一強状態だった信長が朝敵に指定されることはさすがになかったが、安心して見ていられるのは結果を知っている我々だけで、信長本人は気が気ではなかったに違いない。延徳の近江討伐も、六角家臣団が高頼の言うことを聞かず押領を止めなかったことに端を発している。織田家家臣である光秀が押領を止めなければ、信長が六角高頼と同じ憂き目を見る可能性も情勢次第ではあり得た。
いっぽう光秀からはかなり違う風景が見えていたのではないか。ここで「御恩と奉公」という武家の不文律を思い出していただきたい。
「奉公」を果たしてきた光秀に対し、信長は荘園押領停止を命じて「御恩」を制限した。これでは恨まれて当然だ。
本能寺の変といえば、歴史愛好家がその原因についてあれやこれやと所論を戦わせる恰好の素材でもある。信長が光秀に対し荘園押領停止を厳命したのは歴史的事実だ。所論に加えても差し支えあるまい。
なお私は光秀挙兵の直接的原因を、信長が最低限の警固で上洛するという錯誤を犯したことに求めている。しかしいくら信長が錯誤を犯したからといっても、不満さえなければ光秀とて挙兵しなかっただろう。
荘園押領停止など、かねがね信長に不満を抱いていた光秀が、信長が少人数で上洛することを知って発作的に犯行に及んだ――。
両説が相反するものでないことは、ここで改めて明言しておきたい。
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