第十三話 御訪献上之次第

 権大納言ごんだいなごん甘露寺かんろじ親長ちかなが卿の強硬な反対論を受けて、主上はしぶしぶ譲位を諦めあそばされたが、その判断は決して間違いではなかった。

 譲位が立ち消えになったうえは、政元が献上した「御訪おとぶらい」こそが、いまは唯一の関心事であった。しかしその額につき官人から報告を受けた主上は

(三〇〇疋とな……。確かにこれでは譲位など到底かなわぬ)

 かく思し召し、肩を落とされた。

 ここでまたぞろ銭の話になっていささか恐縮なのだが、しばしお付き合い願いたい。この三〇〇疋という銭を、現代の価値に換算したら何円になるか、という話である。

 天正十年(一五八二)から慶長三年(一五九八)にかけて順次行われた太閤検地の結果、当時の日本の総石高は約一八〇〇万石と判明した。

 時代はとんで令和四年(二〇二二)、米の総収穫高は約六七〇万トンだった。これを石高(一石=一五〇キログラム)に換算すると、四四六六万石だ。

 現代は、戦国期と較べて約二・五倍の収穫量ということになるので、戦国期の米の値段を現代の約二・五倍と仮定しておこう。

 一口に米の値段といっても、銘柄やその年の収穫量に左右されるので一概には言えないが、一〇キログラム五〇〇〇円で店頭に並んでいたとしても「非常識な値段だ」と感じる人はあまりいまい。それだと一升(一・五キログラム)につき七五〇円なので、戦国期なら一升につきこの二・五倍、一八七五円だったということになる。当時は銭一〇文で米一升を買えたらしいから、一文=一八七・五円という計算がここで成り立つ。

 一疋は一〇文だったので、銭三〇〇疋=三〇〇〇文=五六万二五〇〇円というのが結論である。ただし一疋三〇文とする説もあるので、それなら三〇〇疋=九〇〇〇文=一六八万七五〇〇円になる。

 ちなみに、一貫=一〇〇〇文だ。よく一貫=一〇万円などといわれるが、右の計算方法によると、一貫=一八万七五〇〇円という数字が導き出される。

 ただし記したように、米が農作物である以上、その価格は一定しない。また、戦国期の約二・五倍の収穫量があるからといって、戦国期の米の値段が現代の約二・五倍になるかどうかという点についても、我ながら疑問が残る。戦国期の消費者の数(人口)は現代よりはるかに少なかった。買い手が少ないぶん価格も下落するかもしれない。

 紙幅を割いたが、右の数字は参考程度に止め置いていただきたい。

 問題はこの三〇〇疋という数字が多かったのか少なかったのか、という点だ。

 政元の献金により、清晃せいこうは従五位下に叙されている。

 時代は下って天文二年(一五三三)九月、毛利元就は天皇に銭四〇貫を献じて、従五位下右馬頭に叙任されている。

 右の計算によると、銭一貫は一〇〇疋(一疋=三〇文説なら三三・三疋)になるので、毛利元就は同じ従五位下に叙されるために、清晃の四・四倍あるいは一三倍の銭を支払わされたことになる。元就を田舎侍と見くびってぼったくったゆえか、幕府を経由して朝廷に近侍してきた政元に対する友情価格ゆえか、はたまた三〇〇疋という額に不満はあっても清晃の叙位を認めざるを得なかったゆえか、それは分からない。

 これも参考として挙げておくと、大永元年(一五二一)に細川高国が従四位下に叙された際の献金額は一〇〇貫だった。同じ従四位下でも、天文十八年(一五四九)の今川義元は二〇貫だ。情報公開などという概念がなかった当時、売位売官にあたってなんの基準もなく、朝廷はその時々の台所事情で、勝手放題に価格を設定していたようである。

 天正十四年(一五八六)、正親町天皇の譲位、後陽成天皇の即位式典にかかった費用は一万貫だったとされるから、将軍擁立のような大事に臨んで銭三〇〇疋(三貫または九貫)程度しか準備できなかった政元が、主上の御意に従ってさらに譲位式典を挙行できる財力など、はなからなかったことになる。

 実際、圧倒的優位だったとはいえ、依然河内に主敵畠山政長を残していた政元に、朝廷諸経費を負担する余裕などなかった。富子の呼びかけによって、奉公衆や奉行衆は将軍義材を見限り、先を争って上洛したが、正覚寺の義材本陣には、いまだ政長被官人約八〇〇〇が健在であり、政長の分国紀伊にも、約一万とも喧伝される根来ねごろ衆が健在であった。

 とりわけ政元を苛立たせたのが、天王寺に布陣する大内六郎(義興)の存在であった。山口の大内家といえば、対明貿易をめぐって永年対立関係にあった、細川京兆家にとっての不倶戴天の敵だ。先の大乱でも、六郎の父政弘は大軍を引率して入京し、ほとんど西軍の主力といっていいほどの活躍を見せている。同じ西軍の畠山義就が最後まで戦いをやめようとしなかったのは、主敵政長を滅ぼしていなかったからであり、政弘が最後まで戦いを止めなかったのは、主敵細川京兆家を打倒していなかったからだ。東軍総大将細川勝元は、文明五年(一四七三)に乱の結末を見ることなく陣没してしまっており、弱体化した細川をあと一歩のところまで追い詰めていたので、政弘はなかなか陣払いしようとしなかった。その政弘が撤退した経緯は先に陳べたとおり、富子の銭で戦費を回収できたからである。

 政弘の跡を襲った六郎は明応二年(一四九三)当時、依然十七歳の若輩に過ぎなかったが、本国に政弘は健在、歴戦の被官を多く抱えてもおり、これが政元と雌雄を決すべく正覚寺に入城すれば、天下が京都と河内とで二分される恐れがあった。政元は、なんとしても大内勢の動きを止めなければならなかった。

 幸いだったのは、いかに政元を敵視する大内とはいえ、やはり今回の河内出兵は負担だったらしく、どうやら陣中には覆しがたい厭戦空気が漂っているらしいこと。そして上原元秀を通じて、若狭守護武田元信とめぐらせた策略が成功したことであった。

 明応二年(一四九三)閏四月一日、武田元信は京都において大内六郎の妹を拉致した。『大乗院寺社雑事記』によれば、以前元信が、大内に対してこの姫君との婚姻を申し込んだにもかかわらず断られた腹いせだとしているが、腹いせだろうが策謀だろうが、政元と盟友関係にあった武田元信が大内の姫君を人質にした形だから、厭戦空気も相俟って大内は兵庫津ひょうごのつへと退いている。

 政元と元信は京都でがっちりと手を取り合った。赤松政則と同様、武田元信もまた、将軍廃立についてはなにも知らされていなかったとされているが、奉公衆、奉行衆が続々と上洛していた折節、異変に勘づかない方がどうかしている。

 将軍廃立が広報されるや、赤松政則と武田元信はそろって政元に抗議したというが、

「自分たちは謀叛人ではない」

 という形ばかりのアピールだったと思われる。

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