第十一話 銭之話

 清晃を囲い込んだ政元は金龍寺に使番つかいばん(伝令)を派遣した。万事首尾よく運んでいる旨を富子に復命するためであった。

「清晃を遊初軒ゆうしょけんに保護するとともに、洛中に所在する義材方の拠点をことごとく制圧した」

 このしらせは富子を安堵させた。それまでの緊張の面持ちがふと緩む。富子は更なる命令を政元に伝えるため、役目大儀、と前置きした上で次のごとく使番に告げた。

「洛中の怨敵ことごとく鎮圧せしうえは、速やかに御訪おとぶらいすべし」

 使番経由で富子の命令を聞いた政元は深いため息を吐いた。

 想定内ではあったが、改めて御訪を命じられると、御台にしても貞宗にしても、損な役回りを全て自分に押しつけようとしているのだとつくづく思い知らされる。

 清晃は、これから順次昇官していって、ゆくゆくは将軍に任官されなければならない身であった。その任命権者は天皇だから、清晃は朝廷に貢ぎ物を献上しなければならない。貢ぎ物とは有り体に言えば銭である。要するに売位売官だが、献金という言い方ではいくらなんでもいやらしくなるから隠語を使っていただけの話だ。清晃の昇官は、朝廷への献金と引き替えだった。

 とはいえ、ついさっきまで僧籍にあった清晃に朝廷を満足させるだけの財力など望むべくもない。富子にしても貞宗にしても、口出しこそすれ銭を出すつもりまではない。彼等が政元をクーデター計画に引き摺り込んだのは、軍事力だけではなく、最初からその財力を当て込んでのことだった。

 もっとも、銭云々は彼等が勝手に当て込んでいたというだけで、実際に政元が銭を持っていたかどうかとなると、それはまた別問題であった。

 当時の日本が深刻な銭不足に陥っていたことは前節に記した。それまで銭の輸出元だったはずのみん政府が、海禁政策に転じたからである。それでも利益が見込まれる銭輸出は密貿易という形で継続され、いくらかの中国銭が日本に流入したらしいことが分かっているが、足利義満が一度の貿易で二〇万貫にも及ぶ銭を手に入れたころのことを思うと、その流入量は見る影もないほど痩せ細っていた。

 このころ対明貿易を担っていたのは細川京兆家と山口の大内家だったが、もし細川が貿易で多額の利益を上げていたというなら、政元が朝廷や幕府の行事に対して、後世に悪評が伝わるほど冷淡な態度を示すことはなかったはずだ。結局さほど儲かっていなかったのだろう。

 室町幕府を経済的に概観すれば、三代将軍義満は対明貿易で巨万の富を得、その有り余る財力にモノを言わせて思うさま政治を操った。南北朝合一にしても、北朝に反対論は根強かったものの、強引にこれを成し遂げ得た所以は、なんだかんだいっても朝廷諸経費を負担していたのは足利家だったのであり、公家連中が有職故実を盾に反対してみたところで、最終的には出資者の意向に逆らえなかったということだろう。

 四代将軍義持は父義満の遺言に従って対明貿易を中断したが、経済的にはまだ余裕があったようで、各種儀式を遅滞なく執行し、朝廷との蜜月関係を維持している。

 ただ、既に水面下では銭流入途絶による人々の不満がマグマのように溜まっていた。義持が応永三十五年(一四二八)正月に薨去すると、同年八月、徳政一揆が機内一帯で起こったのである(正長の土一揆)。

 大乗院日記目録にある

    日本開白以来土民蜂起之初也

 の一文はあまりにも有名だ。

 八代将軍義政のころともとなると、東山山荘(のちの慈照寺銀閣)造営のため、義政自ら政務にかこつけて人々から礼銭を徴収しなければならないほどだった。大名連中からの上納を期待できず、自ら「シノギ」に血道を上げなければならなくなったのである。義政が将軍職を子の義尚に譲ったあとも、なかなか実権を手放そうとしなかったのはそのためだ。思うに任せぬ政務に苛立った義尚は自らもとどりを切るなど、時折ストレスを爆発させている。

 このころの義政に代表される著しく利己的な政治姿勢こそ、当時の武家政権に中央政府としての自意識が欠如していたとする所以なのである。

 なお、富子も自ら新関を設置するなどして金儲けに勤しんだが、義政が趣味に金を注ぎ込んだのとは対照的に、彼女はその利益を朝廷諸経費に充てたらしい。

 新関設置で迷惑を蒙った人々や、女性が政務に口出ししたやっかみから、市井しせいの民や武士の間における富子の悪評は散々だが、公家連中からは慈母のごとく慕われており、彼等が富子を悪し様に書いた記録はない。

 応仁の乱を最終的に終結に導いたのも富子の銭だった。戦いが長期にわたったために損切り出来ず、なかなか撤退しようとしなかった畠山義就と大内政弘に、戦費代わりの銭を渡して陣払いさせ、十一年にも及んだ戦いをたった一日で終わらせたのである。武力で敵を打倒しきれなかった武士連中は地団駄踏んで悔しがった。やむを得なかったとはいえ、結果的に武士の面目を潰したことも、富子に対する悪評の一因になったと思われる。

 もっとも、自ら新関を設置して負担を強いるような幕府に対して、人々が嫌悪感を抱いたのは当然で、富子よりあとは朝廷を庇護する力を失ったことも相俟って、幕府は急速に声望を失っていった。

 幕府の貧窮に引き摺られるようにして没落していった朝廷は、ようやく幕府頼みのマインドから脱却し、売位売官によって、自力で権威と財力を取り戻していくことになる。朝廷の庇護者を以て自認していた足利将軍家が、必ずしも朝廷に必要とされなくなったのだから、その消滅は必然だった。明の海禁政策が日本で銭不足を引き起こし、これに対応できなかった幕府が立ちゆかなくなったという流れである。明にそんなつもりはなかっただろうが、日本の政権が外国の政策に存立を左右された一例ともいえる。

 余談はこれくらいにしておこう。

 御訪を命じられた政元の

(将軍家のことなど、将軍家自身でやってもらわねば困る)

 これが偽らざる本音だったが、細川の興りをたずぬれば、あの八幡太郎義家の孫、足利義康長子矢田判官代義清であった。庶流とはいえ細川が足利の一族であることに違いなく、だからこそ富子は、足利将軍家のための費用を、他ならぬ足利一族である細川政元に負担させようとしているのである。これはどう解釈しても富子の理屈に分がある。

「銭がなくなったから将軍家の面倒はもう見ない」

 そんな本音を丸出しにして献金を渋れば、政元が人々から非難を受けることは明白だった。

「これまで将軍家の一族としてさんざん良い思いをしてきたくせに、銭がなくなったからといって見棄てるとは何事だ」

 政元が清晃に突き付けたのとそっくりの理屈を、今度は政元が突き付けられることになるだろう。

 政元は富子の命令に従うしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る