探偵はいつも0と1の間【電網探偵:明石家九郎の事件簿】
鯨鮫工房
レイとヒトの交わる街①
午後七時過ぎ。都内某所の駅前ロータリー。某有名ディスカウントショップでの勤務を終えた一人の女が、帰路に就くべくバスへと乗り込んでいく。
早紀は段差で少し高い位置にある席を選んで座る。
走り出した車体に揺られて眠気が襲ってくると、脳内に毎晩と同じ光景がフラッシュバックしてくる。それはベッドで無防備に寝ている早紀の下へと一匹の猿が近付き、自分を食い散らかしていく夢であった。
目が開いて意識がはっきりとしているにも関わらず、動かせない身体。その上に猿が覆い被さってくると、野生生物とは思えない程に悪意の滲む血走った眼球が此方を見下ろしている。
猿は異常な膂力で早紀の服を裂くと、無抵抗の彼女を生きたまま素手で解体していく。そして血の滴る臓物を目の前で食らうのだ。
そんな悪夢を見続けて、もう二週間になる。今では眠るのがすっかり怖くなってしまい、毎晩怯えながら眠気に耐えては、体力の限界が来て気絶するように眠るのを繰り返していた。
先週末から精神科に通って薬を処方されるも効果はなく、早紀の精神と体力は限界に近付きつつあった。ふと転寝をしそうになってハッと我に返ると、彼女はバスのアナウンスが鳴っている事に気付く。
「次は――
気が狂ったような言い回しの車内放送に思考が停止した刹那。一番前の座席から、一匹の猿が立ち上がる。それは毎晩夢に見る、あの忌まわしい目つきの猿であった。
(あっ……ひ……!)
早紀は必死に叫ぼうとするも、声が出ない。毎晩の夢と同じように、身体も完全に動かせなくなっていた。視線も固定されて、瞬き一つできずに目の前の光景を見続けている。
猿は早紀の前に座っている乗客の下へ、ぺたぺたと近寄っていく。前に座っていたのは、驚く程身長の高い女性だった。身長168センチメートルと、平均より随分と高い早紀の身長と比べても、やもすれば頭一つ分は大きいかもしれない。黒いセーターに包まれた身体は細く、モデルのようだ。だからこそ背中越しにも見える胸が異様に大きく、違和感さえ感じる。
猿はその身体によじ登ると、微動だにしない彼女の服を引き裂いていく。規格外のサイズを誇る黒いレースのブラジャーを剥ぎ取ると、その下から現れた巨大な乳房を猿は豪快に掴み、憎悪を感じさせる金切り声を上て食らいついた。そうしてぐちゃぐちゃと肉を噛み裂き、千切り取った血肉の塊を床に投げ捨てる。
猿は返り血を浴びた顔で早紀の顔を見ると、「次はお前だ」とでも言うように歯を剥いて笑った。
「――おやおや。ボクの番はもうおしまいかね?」
恐怖の静寂に包まれていた車内の空気が、たった一言で輝度を増した。つい今しがた惨殺された筈の女は座席から立ち上がると、裂かれた衣服も元に戻った姿で、猿の背後にて腰へと片手を遣る。
振り返ったその姿は、女である早紀が息を飲む程美しかった。真っ黒な瞳は死んだ魚のように生気が感じられないが、白い肌と鼻筋の通った顔立ちは西洋の血を感じさせ、絵画に描かれる天使のようだ。ウルフカットに整えた黒髪はハスキーな声質と合わさって中性的な印象を与え、青く染められた長い襟足は浮世離れしたミステリアスさを湛えていた。
「中々刺激的な責め方だが、果てるのが早いよ。女はそう簡単に感じないものさ」
女の手には、銀の細工が施された拳銃が握られていた。
猿はその輝きに気付くと、まるで銃器の恐ろしさを知っているかのように絶叫し、直ぐ近くにある出口に向かって走り出す。
だがその鼻柱を、突然の固い衝撃が襲う。
鼻血を噴き出しながら猿が頭上を睨むと、扉の前には先程まで影も形もなかったスーツ姿の人物が現れていた。壮年初期。どこか冴えない印象の陰気な男だ。
「……猿の幽霊ですか。また珍しい」
男はまるで当然のマナーであるかのようにポケットから拳銃を取り出し、猿へと向ける。
「悪く思わないでくださいね。これも仕事ですので」
そして何の躊躇いもなく、引き金を引いた。弾丸が猿の脳天をずぼりと貫き、後頭部からかき混ぜられた頭蓋の内容物が飛び散る。
早紀がその光景を認識した次の瞬間には猿の死体も消え去って、車内を再び沈黙が包んだ。唯一の現実であった目の前の男女も、次のバス停で何事もなかったかのように降りていってしまう。
女は去り際に、「今晩からはよく眠れるよ」とだけ早紀に言葉を向けた。
車内にたった一人残された早紀はもう何も考えられず、恐怖から解放された安心感と心身の疲労が重なって、糸が切れたように穏やかな眠りへと落ちていく。
日本の新元号が発表されて三年。世間を騒がせていたのは、正体不明の怪異によって引き起こされる、検挙不能な〈
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