成就
かながた
第1話 旅への誘い
旅は、不思議なほど魅力にあふれている。
旅という言葉を聞くと、自然と心躍り、本来は面倒なその準備や下調べさえ、まったく苦にならない。日常ではあれほど嫌がられる下準備が、むしろ楽しく、それどころか、これからの旅の中で、最も心ときめく瞬間のひとつと言っても過言ではない。旅は、下準備からもう始まっているのである。
旅に出るきっかけは人それぞれだが、その目的は多くはない。
きっかけは、それこそ友との再会、家族での思い出、失恋、気晴らし、思い付き、と何でもある。
ただその目的となると、楽しみであるレクリエーションか、信仰の一環である巡礼である。出張で外に出ることはあるが、これを旅というのはいささか無理がある。そう考えれば、概ねこのふたつが旅行の目的と断言しても良いだろう。
ここで、旅というものの不思議さについて、ひとつ考えを述べてみたい。
というのも、そもそも旅という行為自体が、考えてみればいたって不思議であるからだ。
旅での行いを簡潔に述べればこうだ。移動し、見て、体験して、食べて、入浴して、排せつして、寝る。そう、日常行為と何ら変わらない行動をしているまでだ。特別に何か新しいものが加えられることは、冷静に考えてみるとない。
では、なぜここまでに、旅には魅力があるのだろうか。
それは、この日常行為が、いつもと違う異世界で行われるからだ。記憶に残ることのない、まったく同じ陳腐なリズムの変哲のない日常生活が、旅という異世界の中では、どれもが新しく、何もかもが初めて行うかのような高揚感と緊張、そして幸福感をもたらしてくれる。そして良い思い出として人生に刻まれ、我々の明日からのさらなる活力となっていく。
異世界との接触、それが旅の魅力の根本だ。
さて、旅の歴史にも少し触れてみよう。
旅というものがいつから行われていたのかは、当然定かではない。人がいつから鈴を使い始めたのか、それを知ることができないのと同様だ。
ただこの日本で、旅というものがはっきりと民衆の中ではっきりと意識され始めたのは、おそらく江戸時代のお伊勢参りがそうではないだろうか。
当時、お伊勢参りと言えば、一生に一度の行事であった。それもそのはず、現代のように交通機関もなければ、多くの休日もない時代。それどころか、日々の生活にやっとの時代である。
そのような時代の中で、お伊勢参りは羨望の的であり、「いつかはお伊勢さん」と、庶民の人生最大の夢でもあった。
その目的は、ついつい信仰の巡礼と思われがちだが、実のところ案外それだけではなかった。伊勢参りのアテンダントである御師の家に滞在し、伊勢神宮へ参詣する。もちろんそれが最大の目的だ。ただ合わせて、他にも楽しみがあった。
それは、男たちの永遠の遊興、遊郭での散財だ。
伊勢神宮のほど近く、内宮と外宮のちょうど真ん中から少し外れたところにその遊郭はあった。古市遊郭だ。
ここでは、お伊勢参りに来た男たちが毎晩、飲んで騒いで女性を抱いてと、遊興の限りを尽くしていたという。今の伊勢神宮界隈では考えられない状況だ。
改めてお伊勢参りというものを考える。そこには巡礼とレクリエーションの両側面、つまりは旅の最大の目的の両方が備わっていたのである。これでは、はやらない方が難しいというものだ。
ただ、この旅も当然ながら楽しいばかりではない。
昔の旅は今と違い、全てを徒歩で完遂しなければならない。そうすると、当然その間には峠も多々ある。この峠は問題なのである。今では考えられないが、峠には山賊がつきものなのである。
その山賊も、現代の路上強盗のように金だけ渡せばいいものではなかった。身ぐるみを剥がされ、それどころか命を奪われることも普通であった。
旅での危険がなくなった現在は、なんと良い時代であろう。
さて、そんな安全に旅が出来るようになった現代、心の癒しが叫ばれて久しい。心の癒しを求めるあなたにはぜひ、異世界との接触ができる旅がおすすめだ。
例えばあなたが都市部に住んでいるなら、田舎への旅などはどうだろうか。ここから先は、私が実際に行って良かったおすすめの観光ルートと宿をいくつか紹介していきたい。
あなたの旅の参考にしてくれたら幸いだ。
まず最初に紹介したいのは、「宿どぐま」だ。ここの特徴は・・・
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