第3話 母娘の口論
電車に揺られる間、僕達に会話は一切なかった。2人は気まずそうにしていたが、頭を整理したかった僕にとっては好都合だった。
2つ隣の駅で電車を降り、改札口を通り抜ける。
そこでふと冷蔵庫に何もなかった事を思い出した。小春ちゃんはお腹を空かせているし、どこか途中で買って帰る方がいいだろう……。
「僕の家の近くに弁当屋があります。そこで何か買ってから行きましょうか」
僕の呼びかけに応じない2人。一体どうしたのだろうかと疑問を抱く。
少し待っていると、雪さんが申し訳なさそうに切り出した。
「優君ごめんなさい。久しぶりに会ってこんな事をお願いするのは気が引けるけど、良かったら娘の……小春の分だけお弁当を買ってもらえないでしょうか」
「お母さん、私はお腹空いてないよ。それにこんな変態に奢ってもらうなんて嫌よ」
「優君に失礼な事を言わないで。それにここ最近ロクに食べてないじゃない」
「それはお母さんだって……」
何かしらの事情があるとは思っていたが、僕が考えているより深刻なのかもしれない。
そんな
下手に仲裁に入らない方が良いと判断し、2人を無視したまま店内に入る。
「いらっしゃい。って先生じゃないか。最近ちっとも来てくれないから死んだのかと思っていたよ」
この歯に衣着せぬ物言いをする女性が切り盛りしているこちらの店は味が良い事もあり、近所でも評判だったりする。
僕も去年までは毎日の様に買いに来ていたのだが、自炊を始めた事もありここ最近は足が遠のいていた。
「おばちゃん、久しぶりです。今日は少し多めに注文したいのだけどいいかな」
「なんだい珍しいね。客人でも来るのかい」
僕が答えに
「はは~ん、先生もなかなか隅に置けないわね」
「そんなんじゃないですよ。雪さん、ちょっと入ってもらってもいいですか」
そう呼びかけ雪さんだけを店内に促した。小春ちゃんを呼ばなかったのは、嫌がらせではなく話を円滑に進める為だ。
「遠慮しなくていいから好きなのを頼んで。もちろん小春ちゃんの分もね」
「優君、本当にいいの?」
今にも泣き出しそうな顔で尋ねてくる雪さんに、僕は無言で頷いた。
「それじゃ……ハンバーグ弁当を2つお願いします」
「はいよ、ハンバーグ弁当2つね。先生はどうすんだい?」
「僕も同じものを。ついでに、豚汁3つとお茶も3本。あと、朝に食べられそうな軽いものを2つお願いしたいのですが……」
「朝食には向いてるか分からないけど、トンカツなんてどうだい?ちょうど娘夫婦が遊びに来て食パンを置いて行ったんだよ。すごい有名なパン屋さんのパンでウチのトンカツと合わせて作るカツサンドがこれまた絶品なのよ」
さすがに朝からトンカツと言うのは、女性には少し重いだろう。
僕は断ろうとしたが、隣にいる雪さんの表情が視界の端に映り……考えを改めた。
「おばちゃん、それお願いしてもいいですか?」
そう言えば雪さんは昔から脂っこいものが好きだった。変わってない一面が見れた事が少しだけ嬉しかった。
「久しぶりに来てくれたから、パンの代金はサービスしておくよ。その代わりまた買いに来るんだよ」
そう言って豪快に笑う姿を見て、素直に甘えておく事にした。
「ありがとう、それじゃ今回は甘えさせてもらいます」
僕の返事を聞いたおばちゃんがすぐに厨房に向かおうとしたので、慌てて呼び止めた。
「おばちゃん、一度家に帰りたいので先にお金を払いますよ」
「すぐ戻ってくるのかい?ウチの弁当は冷めてもおいしいけど、出来立てが一番だからね。なんなら少し時間ずらして作るかい?」
「いえ、すぐ戻ってくる予定です。なので作り始めてもらって大丈夫ですよ」
「そうかい、それじゃお金はその時でいいよ」
雪さんと一緒に店を出て、相変わらず不機嫌そうにしている小春ちゃんの元に駆け寄る。
「待たせてしまったね、さあ行こうか」
後ろから何かを文句を言っている様だが、僕はその声を無視して家に向かって歩き出した。
弁当屋から5分程の距離を歩き自宅に到着する。築30年と少し古びたマンション。先々を考えて賃貸ではなく購入を決断したのは、就職して1年が経った頃だった。
元々はローンを組んで購入したのだが、先日繰り上げ返済をして無借金生活になったばかりだ。
「あんまり綺麗な所ではないけど、広さだけはそれなりにあるから」
入居時に室内を少しだけリフォームをしているので、そこまで見苦しくはないと思う。
オートロックを開け、エレベーターホールにある行き先ボタンを押す。タイミングが悪かった様で、液晶には最上階の数字が示されていた。
普段は階段を利用しているのでエレベーターを使うのはいつぶりだろうか……そんな事を考えながらかごが降りてくるのを待った。
「少しだけ待っていて」
部屋の前に到着した僕は、2人にそう告げて室内に入った。鞄を廊下に置き、リビングが散らかっていないかを確認する。このぐらいならば特に片づけなくても大丈夫だろう。
「お待たせ。2人ともとりあえず中にどうぞ」
遠慮がちに……恐る恐るといった様子で入ってきた2人が面白くて、つい顔がニヤけてしまう。
「何がおかしいのよ?」
どうやらそれを小春ちゃんに見られてしまったらしく、彼女は不快感を露わにした。
これは僕の配慮が足りなかったな。素直に謝罪すると彼女は少しだけ驚いていた。
とりあえず2人にはソファーに座ってもらう。何か飲み物を出そうと冷蔵庫へ向かった。
水しかなかった。それでも出さないよりはマシ……と思う事にした。
「これしかなかった。すまない」
「いいえ、そんな。こっちこそいきなり押しかけてごめんなさい」
この短時間で雪さんは何度『ごめんなさい』を口にしただろうか?
記憶の中にある明るかった彼女とはかけ離れた姿にチクリと胸が痛んだ。
「僕が勝手に呼んだのだから気にしないで。弁当を取ってくるから2人はテレビでも見てゆっくりしてて」
そう言って僕はテレビの電源を入れ、逃げる様に部屋を出た……。
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