朝倉さんがおねがいしたら
水溶性食物繊維
奥村馨は朝倉夕日のおねがいを聞いている
第1話
変化というのは、いつだって唐突だし、突然だ。
ささやかなものも、人生を変えるような大きなものも、いつも予兆や前触れなんてない。
わたし、
小学六年生のときは父が転勤になって、県をふたつもまたいだ知らない土地に引っ越すことになった。わたしは良い子だから、少しだけ悲しんで、けれど素直に父の手を掴んだ。
中学二年生の夏頃には、母が違う男を作って蒸発した。父はなんだか忙しそうで、母のことや、私にかまう暇などないようだった。
だけど、やっぱりわたしは良い子だから、何も言わないで、父の手を離した。
それから家にはわたし一人。父はめったに家に帰ってこないし、友人と呼べるような人たちはみんな引っ越す前の場所に置いてきた。
そのことは別になんとも思わなかったし、思う気もなかった。
けれど、ずっとわたしは良い子だったから、ひとりになって少しだけ魔が差した。
いや、なんとなくだとか格好つけたかったからだとか、理由はなんでも良かった。
中学三年生に上がる頃、初めて”ピアス”を開けた。
最初は、右耳の耳たぶにひとつだけ。
ピアッサーなんてものがあることは知らなかったし、当然どこで買えるかなんて知るはずもなかった。
だから家にあった小さな安全ピンで、昔漫画で読んだことがあったから。
とても痛かったし、熱かった。血が出て、服が汚れて、少しだけ後悔した。
けどそれ以上に、言葉にできないような不思議な解放感があった。
耳を突き刺すするどい痛みが、わたしを良い子じゃなくしてくれるような気がした。
ひとりでいる自分を、肯定できる気がした。
だけど、これはあくまで自己満足の範疇で、高校に上がるまでの間に増えた左右五つずつのピアスも、学校がある日は外して髪をおろしてしまえば、誰に咎められることもない。
なんだったら、耳以外の見えないところにも増やそうと思っていた節もある。
そうやって密かに、”これ”はわたしがわたしを満足させるためだけの
「ね、委員長。こっちもつけてみてよ」
そうやって、まるで屈託がないような笑みで、わたしへシルバーのチャームがついたピアスを差し出す彼女はいったいなんなのだろうか。
午後五時半。十月上旬のすこしだけ秋を覗かせた涼しい風が、カーテンの隙間から日差しと共にわたしの部屋へ入り込む。そよ風にあおられた彼女は、それとおなじくらい涼やかに微笑んだ。
「ね、おねがいだから」
…気に入らない。
渋々それを受け取ったわたしの顔を見て、彼女は嬉しそうに目を細める。
高校にあがって一年目。彼女はクラスメイト、
清潔感のある黒のボブカットに、一見すると冷ややかな印象を受ける整った顔立ち。
ブレザーは脱いでいて、いまは制服のブラウスにグレーのカーディガンと膝丈のプリーツスカート。
姿見の前で座り込んだわたしの後ろで、彼女が膝立ちで顔を寄せてくる。
ほのかにシャンプーかなにかの香りがする。
学校で朝倉さんにこれほど近づける人間がどれだけいるだろうかと、クラスメイトの何人かの顔を思い浮かべるが、すぐにどうでも良くなった。
肩をトンと叩かれる。わたしを委員長と呼ぶその声は、学校で聞く彼女の声よりか幾分たのしげに聞こえた。
「やっぱ似合うと思ったんだよね」
付け替えたピアスを姿見ごしに眺めてから、満足げにいう彼女を見てわたしは眉を顰める。
「…朝倉さん」
「なに?」
「その、”これ”楽しいですか」
これ、というのはわたしをピアスの着せ替え人形のようにすることを指すわけではない。
「”これ”って、委員長におねがいすること?…もちろん、これで結構楽しんでる」
また、あの涼やかな微笑みを浮かべてそう言った。気に入らない。
しかめたわたしの顔を見て、彼女はまた嬉しそうに笑う。
「朝倉さんはひとが嫌がってるところを見るのが好きなんですか」
鏡の向こうの彼女へそう問いかけると、朝倉さんは不思議そうな顔で
「なんで?」
と聞き返す。
なんにもわかっていなそうな顔でとぼける彼女にわたしはうなだれる。
わたしはうしろにいる彼女へ振り向いてから口を開く。
「…だって、朝倉さん随分と楽しそうな顔をしているので。あと、近いです。もうちょっと離れてください」
振り向いたとき、思ったよりも顔が近くてすこしだけ驚いてしまった。思わず彼女の肩を掴んで、ぐいと向こうへと押しやる。
「はいはい…って、あたしそんなに楽しそうな顔してた?」
「…たぶん」
「ふーん」
曖昧に返事したわたしのことを眺めてから、急に興味がなくなったような反応を彼女が返す。
わたしはすこしだけほっとして、机の上に置いてあったメガネを取って掛け直す。
朝倉さんはふらりと立ち上がって、当然のようにわたしのベッドに寝転がった。
朝倉さんは、とても容姿がいい。
学校ではいわゆる一軍の女子グループに所属している。
いつもクールで、ドライで、同じグループの女子たちとしか喋らないような、高嶺の花。
わたしのような人間が本来関わるようなことは、ましてや自宅に招くような存在ではない。
そんな彼女がなぜか、わたしの部屋のわたしのベッドで、ぱたぱたと足を振りながら、だらしない様子で手慰みに漫画本をぺらぺらめくっている。
学校での彼女と比べると想像もできないだろう。彼女に憧れる男子たちがみたら、あるいは幻滅するかもしれない。
いや、なぜか、というと少し語弊がある。いちおう理由はわかっているのだ。
「あ、委員長、おねがいなんだけど」
さっきまでゴロゴロとひとのベッドでくつろいでいた朝倉さんが体を起こした。
またあの気に入らない笑みを浮かべている。
「…なんですか?」
「む、そんなヤな顔しないでよ、ただなんか飲み物とかほしいなって」
週に一回、金曜日だけ。
わたしの家で、朝倉さんとふたりきり。
「はぁ…、そんなことでおねがいしないでください。…いまいれてきますから」
今からだいたい三ヶ月ほど前。わたしの秘密を知った彼女と、秘密を秘密のままにしたいわたしの間に交わされた契約のようなもの。
程度の大小はままあれど、それほど過剰なことは要求されない。学校生活に影響をおよぼすようなこともない。
奥村馨は、朝倉夕日のおねがいを聞いている。
朝倉さんがおねがいしたら 水溶性食物繊維 @suiyosei_syokumotusenni
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