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「でも殴ったことは事実でも、その理由は違うような気がするんです。あの話しを聞いてそうは感じませんでしたか?あ、このこと先輩に言わないでくれませんか?」と直伝後輩はクロックが先輩を殴った話しに話題が変わってから、急に興奮したように話し出した。

「言わないよ。でも、そうかな?」と僕は言った。直伝後輩の顔が徐々に紅潮してきたが口元は慎重だった。

「なんて言うかな。そうだな。こんなニュアンス伝わりますか?事実が光にあてられた時に映る影って言えばいいのかな。そんなようなものを感じるんです。事実と真相は違いますよね。提示された事実の他に何かが隠れているような気がしたんです。もっと別の何かがあるような・・・」と直伝後輩は言葉を選ぶように言った。

「それは、どういうこと?」と僕は言った。事実が光にあてられた時に映る影。それは僕が今まで耳にした言葉の中で一番耳慣れない言葉だったが、どこか僕の言語野をくすぐる魅惑的な言葉に思えた。

「事実が事実足りえるほど、その過程は容易に想像できない。というのが俺の持論なんです。俺はだいたいの物事を把握する時は、一度過程と結果を認識した後で違う観点の過程を結果に結びつけるんです」と直伝後輩は言った。「そうするととても正しく物事を把握できるんですよ。筋の通らない矛盾をチェックできるんです」

「面白い意見だね」と僕は直伝後輩の賢い意見に感心すると同時に直伝後輩の生活背景が気になった。確かに利発そうで潔癖のきらいが見える直情型みたいだけど、こういうタイプあんまりクラスの友達にウケは良くないのではないだろうか?認識なんて日常会話に普通は出ない。友達を増やす秘訣は妥協だ。妥協すれば小学一年生から友達を百人作ることも可能だ。直伝後輩に妥協の二文字はたぶん、ない。「それで?」

「俺はあの人のことを尊敬してます。おおげさかも知れないですけどホントです。豪快で爽快で決断も早い。人当たりが良くてどんな人も楽しい空間に導いてるみたいです。人の中心であれこれ行動するのがとても似合ってる」

 僕は黙ってたけれど、うなずいた。直伝後輩は観察力も優れてるようだった。

「でも」と言って直伝後輩は言葉を区切った。「でも、見方を変えればあの人は恐ろしい人にも思えます」

 直伝後輩はクロックのことを「あの人」と言う、少し突き放すような言い方をした。

「先輩は、あの人が自然に人の輪の中心になっていると考えますか?あの人がそういう魅力を持ち合わせていると考えていますか?あの人の何に引きつけられますか?もしそんな感情が操作されてるものだとしたら先輩はどう思います?あの人の凄いところは運動神経なんかじゃない。あの人は他人の心理に上手く侵入してその全容を一瞬にして把握するんです。俺にはそう感じるんですよ。あの人は凄く心理戦に長けてますよ。それも一対一から多対一のあらゆる戦いに。あの先輩の魅力に人が引きつけられているような気もしますが、本当はそういう錯覚を植え付けられてる感じなんです。まるめこまれてると言ってもいいのかも知れません。あの人がそのことを自覚してるにせよ、無自覚にせよ」

 僕は意外な話しの展開に思わず自分の耳を疑ってしまった。直伝後輩は思っていた以上に賢明な奴だったが、クロックについてこんなことを聞くのは僕は初めてだった。操作?侵入?心理戦?そんな言葉は一番クロックに似つかわしくない言葉じゃないか。そんな話しってあるのだろうか?じゃあ僕はクロックの魅力に引かれたのではなく、そういう風に思わされているだけなのだろうか?

「だから、殴ったっていう理由の本当のことについては、何も言えませんがきっと何かの裏がある気がするんです」そこで直伝後輩は口を閉じた。やっぱり言うべきじゃなかったっていう顔をしている。「すいません。こんな話しいきなりしちゃって。でも先輩なら前々から俺が思っていることわかってもらえれそうな気がして」

「えっ?」と僕は言った。「どういう意味?」

「俺一目見た時から先輩のことが気になってたんです。球技大会で球拾い係やってる時はどうということはなかったんです。けどあの人と親しげに話しをしてる先輩の姿を見て、今まであの人と一緒にいた友達とはちょっと違う存在みたいに思えたんですよ。他人とは違う存在に。だから俺がずっと思ってたことをわかってもらえるかと思って」

 しばらく沈黙があった。彼方でピンの倒れる気持ちのいい音がした。ストライクだ。クラウンが光る。

「親戚。待ってるんじゃないの?」と僕は言った。直伝後輩は何を僕に言ってるのかよくわからなかった。

「あ、そうだ。ボール探してたんだ。あっちでしたっけ?」と十四ポンドのボールのあるコーナーを指さした。

「ああ、あっちだよ」と僕は言った。「ねえ、さっきの話しだけど。確かに君の話しをいきなり僕が理解しようとしてもちょっと難しい。君が感じたことは君に言われるまで僕は気づきもしなかったことだ。ナンセンスだとも言える。だいたいあいつがもしそういう風に他人を上手くまるめこむような奴だったとして、一体それが何になるんだろう?何か目的があるのかな?ナンセンス。いい言葉だ。けれどここのところあいつの様子がおかしいんだ。木曜日は休んだ。金曜日も休んだ。今日も休んだ。原因ははっきりしない。原因は誰にもわからない。だから君のその話しが凄く引っかかる。今のところ関連性が見えないけど、とっても気になる。だから君の話しもまんざらじゃないように僕は思える。でもだからと言って昨日までの友達を不審人物のようには思えないよ」

 直伝後輩はじっと僕の目を見て今の話しを聞いていた。たぶん今僕が言ったことを最大漏らさず記憶したのだろう。家に宿題持ち込んで来週の月曜日にはやり遂げるかも知れない。

「そうですよね。いや、俺から持ちかけといて何ですけど、この話しはもうやめましょう。この話しは聞かなかったことにして下さい。俺もう行きます。バイトがんばって下さい」と直伝後輩は大事なことを僕に教えて立ち去った。僕は予定していた時間を二十分もオーバーしていた。


 ニワトリは朝の叫び声のように僕を責めた。

「(コココ)一体何やってんのよ。(コケッ)この忙しい時に。(コケーコココ)あんたがいないからみんなの休憩時間がずれちゃったじゃない。あんたみたいのがみんなに迷惑をかけるのよ。いい?今度はぐずぐずやらないでちょうだい(コケーッ)」

 ニワトリはありきたりの言葉で僕をまくしたてたが、僕は全然そのことに耳を貸さず聞いたフリをしていた。僕も予定の時間をオーバーして悪いとは思っていたが、だからどうなんだという気持ちで一杯だった。それに休憩時間がずれて困るのは一番早く帰るニワトリだけで他の人には何の迷惑もかかっていないのだ。そして直伝後輩のあの言葉がどうしても頭から離れなかった。僕の頭の中にしっかりと刻みつけられたようだった。

「事実が光にあてられた時に映る影」と直伝後輩は言った。僕が今まで一度も耳にしたことがない言葉だった。どんな映画にもどんな小説にも出てこない言葉だった。どんなニュースにもどんな新聞にも出てこない言葉だった。

 僕はクロックの事実に光をあてて考えてみた。

 クロックが人の輪の中心にいる時に映る影。

 クロックが先輩を殴った時に映る影。

 クロックの様子がおかしい時に映る影。

 その影には何かが潜んでいるようにも思えるが、実のところ何の考えも浮かんではこなかった。


 次の日の日曜日。

 朝のTVでは、珍しく軍事関係のニュースをやっていた。軍事関係と言ってもそれはいささか平和的なもので、今日から三日間富士の裾野で陸軍軍事演習が行われるそうだ。

 僕は朝から一週間のたまった洗濯物を洗った。とてもよく晴れた日でまさに洗濯日和だった。ジーパンやらTシャツ、靴下を先に洗いベランダの物干し竿にかけた。このまま干しておけば今日の天気だ、今日中に乾くだろう。続いて制服のシャツを洗濯機に放り込み洗濯糊を流し込んだ。もらったビギのシャツだけは別にして今日中にクリーニング屋に持っていかなくては。父の衣類は下着一枚篭には入っていなかった。一体どこで何をしているのやら。

 洗濯機が静かに自らの仕事を進めている頃、僕は簡単なサンドウィッチを作ってそれを朝食にした。八枚切りのトースト二枚にハムとレタスとトマトと金曜日に作ったえのきバターの残りを挟み、小皿に盛ったマヨネーズを少し多めにつけながらがぶりと食べた。さっき西友で買ってきた牛乳をコップ二杯飲んで新聞を読んだ。

 例の木曜日の殺人事件はあれから色んなことが判明した。殺害された人物は重工業関係の会社に勤めるサラリーマンで、帰宅途中に池袋の路上で夕方の人混みの中で刺されたらしい。警察によれば被害者の身元が当初わからなかったのには理由があった。被害者はその日に限って自宅に社員証や免許証が入ったパスケースを忘れたらしい。所持品等は盗られた様子はなく、通り魔的異常者にたまたま狙われたのではないかとのことだった。犯人は今だ容疑者も見つかっておらず引続き捜査を続けるとのことだった。

 僕はいつもならニュースや新聞を賑わす殺人事件にたいして興味を持てずにただ事実を受け止めるだけだった。所詮は自分とは全く関係のない事件で世間が勝手に騒いでるものだと考えていた。しかし、今回はわけが違った。なにせ僕は殺人事件の現場を目の当たりしたのだ。もし通り魔的犯行だったとしたら、たまたま僕が殺されなかっただけで、もし犯人の目にとまれば刺されたのは僕かも知れないのだ。被害者はついていなかっただけなのだ。今回の事件の情報は僕にとって、いつもTVのブラウン管から垂れ流される情報とは意味合いが違っていた。どんな奴が犯人なのか気になったが、それよりこの殺人にどんな意味があるのかに興味を持った。ただの異常者による犯行ならそいつはどんな精神状態だったのだろうか?異常者による犯行ではないとしたら、怨恨によるものだろうか?保険金目当てであろうか?誰かに依頼されたのだろうか?僕は今後もこの事件の成行きを見守ろうと思った。

 僕が生活面の今日の献立を読んでいるところでピーピーピーと洗濯機が脱水を終え、作業の終了を告げた。僕は残りのシャツを物干し竿に一つ一つかけていった。長袖が三つに半袖が二つ。どれもあっちこっちの親戚から入学祝いに頂いたものだ。ありがたく着させて頂かねば。

 僕はシャツを全てハンガーにかけて、洗濯が全て終了したことを確認すると直ちに朝食の片付けをした。食器を拭いて元の場所に戻すと、僕はテーブルに置いてあったタバコを一本取り出し、火をつけた。

 僕は今日一日まるっきりやることがなかった。せいぜいこの後クリーニング屋に行くくらいだった。でもクリーニング屋に行くのに三十分もかからない。時間潰しにすらならないだろう。

 僕はリビングに放り出していた新しく軍に制式採用された『スパイダーⅣ』のモデルガンを手にして縁側に寝ころんでそれをいじりながら軍隊のことを思った。

 こんな晴れた日に軍隊はどんな軍事演習を行うのだろう?照りつける太陽の下で身体に土をこびりつけて大地を這回っているのだろうか?僕は弾倉を取り外して弾が入っていることを確認すると弾倉を再び戻した。彼らは何を思って軍隊に入ったのだろう?彼らは何を守ろうとして戦っているのだろう?僕そんなことを考えながら撃鉄を倒し見えない空に向かって一発撃った。

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