5(2)

 例の彼のこととは全く別に、この世界には何故か僕だけが首を傾げる不思議な存在が幾つかいる。もしくはある。周囲の人間はまるでそのことを気にかけないのに僕だけがいつも眉をひそめ疑問視する存在のことだ。街中の謎のステ看板や「世界人類が平和でありますように」や、家の近所の『黄色いサボテン』なんかがそうだ。その内の一つにリストアップされているのが化学教師のダークアイだ。この男は一体何なんだろうか?何故その存在が僕を惑わすのだろうか?そう思っているのは本当に僕だけなんだろうか?あの彼に対しては妙な噂で防護壁を囲うくせに学校のみんなはダークアイに対しては何も思ってないようだ。僕は突然のクラスメートの彼の存在には確かに驚いている。でもダークアイの持つそれとは明らかに違うものだった。少なくても彼に対しては噂ほどの陰湿さや残虐さを感じなかった。彼を汚し曇らせてるのはあくまでも真実味のない言葉ばかりで、彼自身の印象とは無関係のものばかりだった。

 ダークアイは一見普通の三十代前半の冴えない男だ。特に怒りっぽい雰囲気もないし、ヒステリックな部分も持ち合わせていない。むしろひ弱で貧弱な感じだ。高校生に一番なめられそうなムードに溢れている。

 ダークアイはボソボソと小さな声で授業を進める。聞き取れないわけではないけれど耳を澄ますかどうかのギリギリの大きさで話す。真剣に聞こうとすれば聞こえるし、そうでなければ無視できる。カツカツとチョークで元素記号を板書し、こまごまとした元素モデルを操りながら目に見えない世界での原子分子の結び付きを説明していた。きっと普通ならモル数やら周期表の説明を延々とされても授業の時間を長く感じるだけなのだろうけど、どういうわけか気づけばチャイムが鳴り授業は終わっている。まるで時間でも操作されているような不思議な感覚に陥ってしまう。授業をよそに本を読んでいても座り寝をしていてもあっという間に時間が経過している気分になる。授業はいつも滞りなく終わる。その間誰にも質問せず、誰にも質問されず、誰にも目を合わせずに元素記号の説明をする。プラスマイナスの結び付きを言葉にする。

 クラスのみんなもどうしたんだろう?英語の授業なんかじゃみんベチャクチャ喋るのにことダークアイの授業では怖いくらいに静かになってしまう。普通なら少しくらい私語があってもよさそうなのにこの男の授業ではクラスの誰も喋ろうとしない。みんなは他の先生の悪口はあれが嫌だこれが嫌だと言うくせに、ことダークアイに関してはほとんど何も言わないのだ。僕の錯覚ではないはずなのに。

 ダークアイは確かに存在しているのに、何故か世界からは息を潜めているように感じるのは本当に僕だけなのだろうか?時折見せる光のない瞳からの暗い光は僕の思い違いなのだろうか?僕にはダークアイが秘かに世界の裏側に立ち、微笑みながら狂気の沼に浸っているような気がしてならない。だからと言って僕がそんなことを言い出せばきっと周りのみんなは僕を今よりもっとおかしな目で見ることになるだろう。僕は妙な危機感を覚えている。見過ごせばきっと取り返しのつかないことをじっと見ているだけのような気になる。あいつは何か変じゃないか?そういうだけの確証は今はどこにもない。ともあれ今日もダークアイの化学の授業は何事もなく無難に終わった。


「ねえ、彼何があったの?」と僕の左隣の席の女の子が僕に声をかけた。

 水曜日の六限目の化学が終わり、チャイムが鳴って礼が終わるとみんなあーあと安堵の息を漏らし帰る用意をしたり、部活動のある奴は早速部室に向かったりした。クロックは昼休みから姿を消し、早退したようだった。その理由は誰も知らなかった。僕もさあ帰ろうと仕度を始めた矢先に隣から声がかかった。僕の周辺の前後左右斜めの八人のうちに去年クラスが一緒だったのはたった二人だった。一人はクロックで、一人は彼女だった。彼女はクラスの人気者で会話のコツを知ってるし、シャレもわかる。男子にも女子にもウケが良く、何より可愛かった。頭の鉢は他の女の子より少し小さく、綺麗で整った顔立ちをしていた。鼻は高い方じゃなかったがそこがチャーミングだと僕は思った。小さくてささやかな口元にはある種の世界が凝縮されていた。

「えっ、何って?」と僕は言った。

「何かさあ、落ち着きないでしょ。ここんとこ」

「そっ、そうかな。どうだろう?」と僕は知らないフリをした。けれど声がうわずってしまった。

「何かさあ」と彼女は目を少し吊り上げて「隠してるでしょ」と言った。

「いや、別に」

「もう、素気ないんだから。相変わらず」と彼女の顔は半分呆れていたがちょっと笑っていた。彼女の髪の毛はもうずいぶん前から伸ばしているようで、今は肩まで届いている。カチューシャでさらけ出た広い平らなおでこは僕のある感覚をいつものように刺激した。

「何か様子が違うってことなのかな?その落ち着きがないってのは」と僕は聞いた。

「あのねえ、あたし去年からずっと彼の後ろの席なのよ。雰囲気の違いくらいわかるわよ。イライラしてるのがビンビン伝わってくるの。友達でしょ?そんなこともわからないの?」

「そんな言い方ないだろ」と僕は言った。彼女のトゲのある言い方に僕はちょっと腹が立った。「そんな言い方」

「ごめん、言いすぎた」と彼女は素直に謝った。「でも気になるのよ。あの人今までずっとあたしの前の席だったけどあんなにイライラしてるのってなかったわ。何かに怖がってるみたいだし。そう思わない?」

「そう思う、と思う。今ははっきりとは言えないけど」

「何それ?まったく相変わらずね」と口を曲げた。でも不快の色は見せなかった。

「そっちこそ」と僕は言った。「ところであの時のシュートは見てた?」

「シュート?ああ。うん。凄かったね」

 僕は「ふうん」と言った。それが当り前の反応だ。シュートは見た。パスは見てない。

「何それ?」と彼女は言った。


 僕は彼女が苦手だった。それは去年の十二月の凍える星空の下で僕は生まれて初めてのキスを彼女としたせいかも知れない。


 隣の席の女の子は「たまには一緒に帰ろうか?」と言ったが僕は断わった。そうすべきだと思ったからだ。

 彼女と少し話したせいか教室を出る時間が少し遅れ、玄関やグランドには部活動の連中がウォームアップやラインを引いていた。水曜日はサッカー部の休息日だったので、今日は野球部とラグビー部の連中がグランドでハバをきかせていた。陸上部は隅っこで輪になってストレッチをしていた。

 玄関で靴を履いて正門を出ようとした時、何かが僕の周りにまとわりついたような感じがした。何かが僕を監視しているような感覚だったが、周囲には何の異変もなかった。部活動をする者と帰宅する者がいるいつも通りの下校風景だった。僕は首を傾げて駅に向かった。


 バイトを九時に終えると、僕は家に一人でいた。そういえば最近父の姿を見ないけれど父はまだ仕事が忙しいのだろうか?いつものことではあるけれど全く連絡がない。ここ半年、いやそれ以上声も聞いていない。僕は本当に一緒に住んでいるのだろかと疑問に思うこの頃だが、僕のいない時に父は間違いなく帰ってきている。あの家の荒れ方が父でないとすれば強盗に違いない。

 それでも父は父親としての義務を一応果たしていた。僕が仕事場の留守電に生活費を申し立てておけば口座に振り込まれてるかテーブルに置いてある。僕としてはそれだけで十分だった。

 父は電気メーカーの宇宙開発部門で宇宙ステーションのシステム設計に携わっている。元々航空関係の仕事をしていたが、その実績を買われて今の会社に引き抜かれた。妥協を知らない父はそこでも毎日終電まで仕事をして開発部長のポストを手に入れた。父の開発した衛星通信システムは画期的なもので、今流行りの移動体通信をより便利にするものだと新聞に書いてあった。父はそのことについて一言も僕に語らなかった。筑波での開発計画がスタートしてからほとんど家には帰ってこない。少なくとも僕とは顔を会わせてはいない。

 僕は一人でリビングのソファーに寝そべってじっと考えごとをしていた。TVを見ようとしたがやめた。『ワイルドシープチェイス』を読もうとしたがやめた。『超人ロック』を読もうとしたがやめた。『クルドの星』を読もうとしたがやめた。造りかけのプラモデルに手をかけようとしたが叩き壊すかも知れなかったからやめた。脱ぎ散らかした洗濯物を篭に入れることすら面倒くさかった。ここ数日同じことの繰り返し。ここ数日ずっと同じことばかり考えていた。違うことを考えても、燕が巣に戻るようにあのことを考えてしまう。

 あの決勝戦で僕は確かに見たのだ。決勝点を入れたのは確かにクロックだ。クロックのボレーシュートによるものだ。しかし、注目すべきはその前にある。彼が鮮烈なロングパスを放ったことだ。実際クロックはとっさのボールに無意識に足をさしだしたに過ぎないのだ。そして学校中の誰もがそのことに気づかずにクロックの功績を讃えていた。

 彼の存在は同じクラスだったのにも関わらず今の今まで僕は知らなかった。ただし、それは僕が気づいていなかっただけの話しで、学校中ではかなり有名な人物だった。それも奇妙な噂に彩られた。

 ここ数日彼の噂をあらためて色々聞いた訳だが『シャドーレスマン』の話しと去年の『遺書のイニシャル』だけはやけに細かなディティールだった。噂話しが全部作りだったとしても『シャドーレスマン』なんか出来過ぎだ。本当かも知れないというリアリティーがそこかしこにあった。僕は他の話しは全部目をつぶってもその話しだけは気になった。僕はその写真が本当にあるような気がした。もしあるのなら何とか見ることはできないだろうか?

 それからクロックのことを考えた。

 結局のところ、この三日間クロックとは話しらしい話しもできずにいた。なまじ何かを話そうとしても僕はうまく話のきっかけが掴めなかった。話しのきっかけが掴めず挨拶ぐらいで会話が終わってしまうのだ。

 きっとクロックは自分の中で色々なことを抱え込んでいるに違いない、と僕は考えていた。全校生徒が見守る大舞台。みんなからの期待と羨望。そして閃光のようなシュート。それら全てが誰にも気づかれなかった一人の男の功績によるものだった。最後の一押しはクロックが決めたのではなかった。クロックは吸い込まれるようにボールに脚をさしだしただけなのだ。クロックは必要以上に自分の能力をひけらかしたり、他人に押しつけたりするような奴じゃなかった。クロックの実力からすれば球技大会でヒーローになっても当り前だと思う。それは別におかしくない。人は人に求められた時に何かをなすものだと僕は思う。クロックはみんなに求められて人の輪の中心になるべきなのだ。クロックはそうすることで前に進める人間なのだ。クロックはそんな時に輝きを放つのだ。クロックの踏み出す一歩は、みんなの期待が込められているのだ。

 しかし、そこにクロックはつまづいていると僕は考える。踏み出す一歩には自分の意志がなかったのだ。得体の知れない他人の意志が含まれていたのだ。それをクロックは一人で抱えてしまっているのではないだろうかと、僕は三日目にしてようやく考えをまとめた。

 クロック自身は自分の他にこの件の真相に気づいた者がいることを知っているのだろうか?もしクロックが自分では解決できない何かを抱えているとしたら、どうすれば僕はクロックの力になれるだろうか?もし僕が「僕見たよ。あれはすごいパスだった」と言えば少しは気が楽になるだろうか?逆に不安にならないだろうか?クロックを傷つけずに上手にそのことを話せるかどうか僕は自信がなかった。得体の知れない相手からのパスに混乱しているのは何もクロックだけではないのだ。

 あれこれ考えを巡らせたところで良いアイデアはちっとも浮かばず、いつしかテーブルに置いてあった今日の新聞に手をのばしていた。新聞には様々な事件が記されていた。貿易摩擦による円高ドル安。それに伴う対米関係の悪化。神奈川県での幼児誘拐のその後。外国では大物ロックスターが死んだ。そしてその死の真相は、十数年前観客に殺された同じバンドのギタリストの死と深く関わっていることが明らかになっていた。今日もどこかで何かが起きている。何かが起きているけれど僕とは無関係の話しだった。そして社会面から広告欄に目を移し、下段の映画情報を見た。相変わらず新聞の映画情報欄は狭くてちっちゃくて見づらかった。見やすい工夫は一つも施されていない。じっくり見ないとどこの映画館では何を何時に上映するのかさっぱりわからなかった。じっくり見ると池袋の文芸座で『ライト・スタッフ』が今週から来週末まで上映されていることがわかった。

『ライト・スタッフ』はレンタルビデオで観たことがある。長い映画だったけど面白い映画だった。ああいうのを観ごたえのある映画と言うのだろう。他に観ごたえのある映画と言えば『アマデウス』『Dr.ストレンジラヴ』『フルメタルジャケット』『シルバラード』が思い浮かぶ。そして僕は閃いた。明日クロックを映画に誘おう。映画をきっかけに何かクロックの話しにのれるかも知れない。単純かも知れないけど、とにかくきっかけが必要なのだ。

 早速僕はクロックに電話した。しかしクロックはいなかった。友達の家に出かけたと母親に言われた。僕は帰ったら電話があったことを伝えて下さいと言った。まあ、明日学校で誘ってもいいかと僕は思った。


 しかし、次の日クロックは学校を休んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る