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 学校を終えて四時くらいに家に帰ると、僕はすぐに赤いチェック柄のネルシャツとようやく色落ちが落ち着き始めたジーパンに履き替えた。これから僕はスポーツセンターの中の二階にある喫茶店のアルバイトに向かうのだ。オレンジのスイングトップを着て玄関に鍵をして、単車のエンジンをかけた。今日もエンジン音は快調だ。

 スポーツセンターは板橋区にあるけど限りなく豊島区に近い場所にあって、プール、ボーリング場、ビリヤード、インドアテニス、ゴルフレッスン、パターゴルフの設備があった。おまけにレストランもマクドナルドもダイエーもYOU&Iもあった。ボーリング場は都内でも一、二を争う大きさで、レーンは二階と三階をあわせて百あった。よくプロやアマチュアが全国大会を行っていた。四階のインドアテニスは六面あって、これも都内ではあまりないらしい。僕が働く喫茶店はその二階の真ん中にあるカウンターの店でコーヒーやホットドックやラーメン、ピザなどの簡単な食事を扱っていた。レーンのすぐ後ろにあるせいか週末はいつも繁盛していた。僕は毎週水曜と土曜、たまに日曜日にバイトに向かい、その中で皿洗いをしたり、片付けしたり簡単な飲物を出したりした。また、センター内のコーラやカナダドライの缶ジュース自動販売機の補充も仕事の内で、店の奥は休憩室になっているがそこに業者からやってくる何百本という缶ジュースをストックして売り切れが出ないように毎日四回決まった時間にそこから台車で運んで缶ジュースを補充するのだ。おかげで新製品の缶ジュースの情報には僕はちょっとうるさい。

 僕がアルバイトをするのには二つの理由があった。

 一つは僕は父親からは家で暮らす最低限の費用は貰っていたが、それ以外のお金は何一つ貰っていなかった。必要な学費や定期代、積立金は連絡さえすればきちんと振り込んで貰った。けれど僕は自分の欲しいCDを買ったり見たい映画を見るにはそれでは足りないので自分で稼がなければならない。

 もう一つはただの暇潰しからだった。

 僕はつい最近中古で買ったホンダの二百五十ccのバイクにまたがり、バイト先に向かった。街中を走るくらいのスピードだと風はとても気持ちがいい。僕の単車は少しイジッているけど無理にスピードを上げる必要なんかはどこにもない。

 十五分とかからずスポーツセンターに着くと、正面入口のエスカレーターを昇って、二階の奥の事務所のタイムカードを押した。水曜日の夕方はあまり忙しかったことはない。いつも通りだと缶ジュースを補充して、皿洗いして片付けすればちょうど閉店の九時くらいにのんびり終われる。今日はニワトリの休みの日だ。ニワトリというのは、この店に勤める五十才くらいの声高のオバサンで僕がこの店で最も苦手とする人だ。早くこの世界から消えてしまえと密かに思っている人間の一人だ。つい最近もフライパンの置き場所のことで僕にどうでもいい説教をしてくれた。「あんたお母さんにどういうしつけされたのよ」とまで言われたが僕は黙っていた。店のみんなは本名にさんづけで呼んでいたが、一度いなくなるとニワトリ、ニワトリと陰口を言った。みんなもそんなにあの人のことを好きではないようだ。

「よお、じゃあ早速ジュースやってくれる?」とカウンターの入口で新聞を広げているバイト先の先輩一号に言われた。

「はい」と僕は言った。

 店は三~五時間交代のシフト勤務で、平日は三~四人、週末は五~六人で社員とバイトがつめていてそれぞれ厨房や販売機を任されている。今日の夜のシフトは先輩一号と三号と僕だった。先輩一号は今年二十八才になるフリーターで厨房がメインだった。この人は月曜日が休みで、それ以外は社員のように毎日働いている。三号の歳は知らないけれど三十を前にしているのは間違いなかった。標準体重を五十キロは上回る巨漢でもの凄い汗っかきだ。いつも「あ、やってしまった」とか「フッフッフッ」と独り言を楽しそうに呟いていたので、僕は内心鬱陶しく思っていた。三号は映画マニアだが僕とは趣味があいそうにないから映画の話しは僕はできるだけ避けた。三号のような手合いはどこかで読んだ評論家の話しを盾に振りかざしてもっと本質的な、面白い、つまらない、金を払う価値がある、ないをはっきり言わないのだ。知識だけはあるくせに人に理論を押し付けて自分のために前向きに役立てていないのだ。僕の映画鑑賞観とは根本が違う。僕のはもっとシンプルで庶民的だ。

 缶ジュースの補充は意外と骨が折れる。なにせセンター内の四十台近い自動販売機を全部見回らなければならないのだ。全部見るだけでも一時間半はかかる。それに最近は暑くなってきているから冷たいジュースは売れ行きがいい。一日の見回りの回数が増える。

 僕はまず一階正面入口の七台を片付けることにした。コーラが二台にカナダドライが二台、アサヒにサッポロに大塚が一台ずつ。コーラの販売機は他の販売機に比べてダントツに売れ行きがいい。扉を開けてカラムに缶ジュースを放り込んで行くとガラガラガラガラと景気のいい音を立てて何本も入って行く。それに対して他の販売機はちっとも売れてない奴が何本もあった。

 宣伝の力は凄い、と僕は思った。こんなにもコーラの販売機の売上がいいのもひとえにコーラの宣伝力イコール資本力のせいだろうと僕は思った。春夏秋冬、四季を通して年中TVのCMを斬新に爽やかに作り続けた結果なのだろう。

「YES,COKE YES」

「COKE IS IT」

「I FEEL COKE]

 毎年作られる簡潔にして明確なキャッチコピー。

 もし世界が大砂漠になろうとも、コーラだけは全人類の渇きをいやし、潤いを与えてくれるだろう。

 僕は正面入口での補充作業を終えると、一階通路にある販売機に取りかかった。一階通路は明るく賑やかな二階と違って薄暗くて陰気なところだ。こちらは場所的に言ってあまり売れない。販売機の売上はその設置場所の人通りの数と密接に関わっている。繁華街ほど自動販売機を多く見るが、販売機は所詮通りの傍らに置いてあるものなのだ。放っとけば汚れる、壊れる等の手間がかかり、維持費も馬鹿にならない。小道の販売機がやがて朽ち果てるのも道理だろう。この一階の販売機はそこまでいかないまでも全フロアの中では売上は最低だ。僕は缶を十本も補充しない内に前扉を閉めた。僕はふと通路の奥の闇を見る。その通路の奥には掃除のおじさんたちでも滅多に使わない倉庫があった。あったと言っても僕は実際に見たわけでも足を踏み入れたわけでもない。本当に倉庫があるかもわからないのだ。それほど通路の奥の闇は深い。直線的なわずかな輪郭が浮かび上がるが、それが扉かどうかも怪しい。一度は奥に入ってみようと思ったこともあったが、ここに来るのは販売機の補充だけで余り時間もなかった。それ以外では用事もないし、ここに来る以外ではもうそのことを忘れてしまっている。

 僕はエスカレーターで再び二階に戻り、二階のあちこちにある十何台もの販売機に取りかからなければならない。途中何人かの知っている従業員に出会い挨拶をした。従業員と言ってもその担当する仕事はバラバラでボーリングのレッスンプロやフロント係、ゲームセンターの係員、事務所の経理担当、テニスのコーチと様々な人々がここで働いていた。僕は知っている限りその人たちに挨拶をしている。

 一度店に戻るとハンカチで額を拭っている先輩三号に「下の売れはどう?」と聞かれた。

「コーラの販売機以外はさっぱりですね。コーラはファンタのグレープが売り切れてました」と僕は言った。

「ああ、そう。奥にファンタグレープまだあったよね?」

「いや、どうかな。まだ見てないんですけど」

 僕と三号は二人で山積みされたストックを簡単に調べたが、ファンタグレープは五ケースしかなかった。

「うーん、まずいな。これはいかんぞー」と先輩三号は言うが全然困ったような感じではなかった。むしろただ言ってみたかっただけのようだった。

「今日夜の分入れたら、なくなっちゃいますね」と僕は言った。

「まあ、明日の昼に業者が来るからいいや。とりあえず今日の分は入れちゃってよ」

「わかりました」と僕は言った。

 僕は二階を終え、三階の販売機まで片づけると、すぐに店に戻って最後の片づけに入った。散らかったダンボールのケースを一つにまとめ、ケースに五本くらいしか残ってない奴はケースから出して他のケースにまとめ台車にのせた。

 だいたいの作業が終わると終わりましたとさっきの先輩三号に報告した。

「ご苦労さん。アイスコーヒーでも飲みなよ」と先輩一号はカウンターで競馬新聞をだらだらと見ながら言った。休みの日は一日中新宿の場外馬券場にいるらしいが、この人が競馬で当たった話しは今まで聞いたことがない。

「じゃあ、いただきます」と僕は言って段ボール箱で汚れた手を洗って、冷蔵庫に入ったアイスコーヒーのポットを取り出して氷一杯のグラスに注いだ。ミルクもシロップもたっぷり入れた。黒い液体に白いミルクが流れ込み、そしてシロップが混じりあう。口に入れると甘くてまろやかな液体が僕の舌を冷たく包んだ。

「飯喰ったの?」と先輩が言った。店に客はいなかった。また、ボーリングレーンからも気持ちのいいあのピンが倒れる音も聞こえなかった。

「いや、まだです」と僕は言った。

「じゃ、飯喰って休憩してれば」

「そうします」と僕は言って、鍋に油をひいて刻んだピーマンと玉葱とマッシュルームを放り込んだ。適当に野菜に火が入ったのを確認すると冷蔵庫から既にゆでたスパゲティの麺を取り出して鍋で炒めた。シーフードミックスというエビとイカとアサリが袋に詰まって冷凍されたものを右手いっぱい握って鍋に入れ醤油をたらりとたらした。カウンターの向こうに巨大なお尻を振ってダンボールを外のゴミ捨て場に捨てに行く先輩三号の姿が見えた。

 僕はでき上がった和風シーフードスパゲッティを食べながら先輩に水曜日はいつもヒマですねと言った。

「毎日忙しかったら俺はここにいないぜ」と先輩は言った。「暇で金貰えるからここにいるんだよ俺は。じゃなかったらニワトリババアの顔に蹴り入れてるぜ」

 僕もその意見に賛成だったのでうんうんとうなずいた。ついでに頭をわしづかみにして髪の毛を一部むしり取ったらどうだろうと提案しようとしてやめた。

 時間になると僕らは決められた手順に従って店を閉めた。タイムカードに打刻された時間は九時六分だった。


 僕はまっすぐ家に帰り明日の学校の準備をした。学校の準備と言っても教科書を鞄に入れるわけじゃない。教科書ノートは全部学校のロッカーだ。ウォークマンの電池を充電し、カセットは今よくわからない活動をしている布袋の『GUITARHYTHM』にした。早くソロに戻らないだろうか?鞄には明日電車で読もうと思っていた『オリエント急行殺人事件』を入れた。もう六度目だからカバーもボロボロだ。

 僕はマドンナのライブLDでも観て寝ようと思ったが、あることがとっても気になってそうはしなかった。僕は牛乳をコップ一杯飲んでから玄関の靴箱の中から薄汚れたサッカーボールを久しぶりに取り出し、靴を履いてそのまま外に出た。外はもうかなり散ってしまった桜の花びらの匂いが立ちこめていた。道路に降り注いだ桜の花は土埃にまみれ薄汚れて見えた。素気ない街灯だけが照らすその道路を僕はゆっくりドリブルしながら歩いた。

 僕の家のすぐそばに商業高校があってその裏に緑色のフェンスに囲われたキャッチボール場があるのだ。僕はそこで今自分にどれだけの能力があるのか試してみようと思った。僕は歩くスピードを早め走りながらドリブルした。なかなかのスピードにのったドリブルだったがこれに敵が一人でもいたらどうだろうと僕は思った。ボールを道の反対側に蹴り、相手をかわしたつもりだった。素早く僕も後を追ったがボールを強く蹴りすぎて追いつけなかった。もう一度やってみたが同じだった。僕は走るのをやめ歩きながらボールを蹴った。

 誰もいない静かなフェンスにつくと、僕はさっきの気を取り直してボールを足元に置いた。そばの通りでは車が何台か通り過ぎ、ライトが僕を照らし去って行く。遠くの街灯が重なりあって複雑な影を織りなす。頭を上げると反対側のフェンスには巨体のキーパーが自信満々の表情で立って構えていた。影でできているくせに僕を見下した嫌な目だ。唇の端を吊り上げて、黒人ばりのにやつきだ。見てろ。その顔色をブルーに変えてやるぞ。僕は一瞬目をつぶり、助走をつけて軸足を固定し高々と足を降り上げ、思い切りボールを蹴った。

 蹴ったつもりだった。

 僕はボールの中心を蹴ったつもりだったがはじっこに当り右のフェンスに向かって飛んで行った。僕の左の軸足は滑り、バランスを崩してかっこ悪く転び、ジーパンが土で汚れた。誰も僕を笑う奴はいなかったけれど、誰かが僕を笑っているように思えた。辺りはたまに車が通る以外はひっそりと静かだった。

 結局、僕はその後何度も思いきり蹴ってみたが全部当りそこね、シャドウキーパーは呆れてベンチに引っ込んだ。

 僕は肩を落として家に帰った。

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