ぼでぃパフォーマーズ

月峰 赤

第1話 ハジメの音楽

 風呂上がりにすることの一つに、自分の体形を見るというものがある。

 湯気で曇った鏡を手で拭い、羽賀ハジメはその前に立つ。

 腰にバスタオルを巻いた上半身裸の男が仁王立ちしている。斜めに構えてみるが、その姿は至ってだらしなく、胸は垂れ、バスタオルの上から贅肉がはみ出している。

 それを少し持ち上げ、何度か摘まんでみる。肌の奥に脂肪特有の弾力が感じられ、引っ張ったり持ち上げたりするが、それが一向に無くなる気配はない。


 昔から体型が太っていて、ぶたまんじゅうと馬鹿にされていた。運動の成績も当然悪く、全力でやっても笑われるだけで、特に報われることは無い。

 それならと勉強を頑張ってみるが、これも上手く行かなかった。下の上という微妙な成績により、お前は一体何なら出来るんだとからかわれることもあった。


 頬も膨れ、鼻は低く、唇はとうがらしを100本は食べたかというように腫れ上がっている。

 自分でもどうしてこうなったのか分からない。けれどハジメ自身、自分を卑下するようなことは無かった。


 ハジメは、音楽が好きだった。これだけは、体型も頭の良さも関係無かったし、何より夢中になることが出来た。

 中学三年間は吹奏楽部に所属して、多くの楽器に触れた。管楽器、木管楽器、打楽器などを一通りやらせてもらった。

 コンクールメンバーに選ばれることは一度も無かったが、毎日楽器を演奏出来るだけで、ハジメは楽しかった。


 けれど、どの楽器を演奏してもハジメの心が満たされることは無かった。一つの楽器を演奏しては、違うという言葉が頭に浮かび、別の楽器に変えても、その気持ちは消えなかった。

 それは引退するときまで変わらず、どうすれば見つかるのか、ハジメにも分からなかった。


 脱衣所を出て自分の部屋がある2階に向かう。途中、弟のリョウの部屋にノックをして、風呂が開いたことを教える。中から微かに声が返ってくるのを確認して、自分の部屋に入った。


 部屋に入り、電気を点ける。開けていた窓から風が吹き、カーテンを揺らしていた。夜風が風呂上がりの体に気持ち良く、着替えるよりも先に窓に近づいていく。

 5月も中旬を迎え、少しずつ気温も高くなってきている。もう十分薄着の季節だなとハジメは思った。


 体の熱も冷めた頃、着替える為にクローゼットに向かおうとしたとき、1m前方の空間に小さな虫が飛んでいるのに気が付いた。

 おそらく、空いた窓から入ってきたのだろうと、机の上に置いてあったノートを手に取る。それを構えながら、自由に飛んでいる虫に狙いを定める。


「もろたぁ!」


 しかし振り下ろしたノートは大きく風を切るだけで、虫は何事も無かったかのように飛び回り、ドアの方に向かった。ハジメもそれを追いかけるが、急にハジメ目掛けて飛んできた。

 もう一度狙いを定め、ノートを振る。それが空振った拍子にノートは飛んでいき、ドアに当たってそのまま床に落ちた。

 接近した虫は顔の付近から胸の前をうろつき、そのまま腹の辺りに移動した。


 チャンスとばかりに右手を前に出すと、腹との間に虫を挟もうとした。そうして腹の上に止まろうとした所で、ハジメの手が勢いをつけて振り下ろされた。


 しかしそれはまたも空を切り、そのままの勢いで腹を強打した。

 乾いた破裂音が、部屋に響き渡る。

 その音はハジメの耳に、確かな余韻を残した。

 ハジメの意識は今の音にすっかり捕らわれてしまっていた。もう虫のことなどどうでも良かった。

 右手を振り上げ、腹に落とす。先程よりも鈍い音が出た。次は少し上の方を叩く。ポンという跳ねた音が聞こえ、昔吹奏楽部で叩いたパーカッションを思い出した。

 へその辺りはどうかと試してみる。ペチンという先程よりも高い音が鳴って、腹の肉が波打っていた。


「なるほど。上が低音。下が高音ということか」


 何度か下っ腹を叩いてみるが、まだそこが限界では無いように思えた。腰に巻いていたバスタオルを取ってみると、一層腹が突き出るようになる。

 垂れた腹を左手で持ち上げてみる。その重量感に、今まで感じたことのない期待感が生まれていた。思わず唾を飲むが、のどが渇いて上手く呑み込めなかった。


 息を整え、頭の中でカウントダウンを始める。右手を横に持っていき、何度か素振りをする。狙いはやや斜め前方からと決め、一気に叩き込む。

 その時、ドアがノックされ、ドアノブが回った。

「兄貴、母さんがメシだって……」


 猛烈な破裂音が轟く。打たれた腹はヒリヒリとして、次第に赤みが帯びてくる。手も痺れているが、ハジメはその音と、腹に伝わる感触に打ち震えていた。


「これだ……」


 思わず口に出していた。今までどの楽器を演奏しても得られなかった音が、ここにあった。自分が馬鹿にされ、仲間外れにされてきた原因の体。まさか自分の体形が、自分を救ってくれるなんて思いもしなかった。生まれて初めて、太った自分に感謝した。

 叫びたい気持ちに襲われた。溢れるばかりの嬉しさを、ハジメの体は持て余している。この幸福を、感謝を、情熱を表現する方法は、一つしか残っていない。


 左手を腹から外し、両手で腹を叩き始める。左手は指先を外側へ逸らし、指だけで細かくリズムを刻む。ポポンポポンと鳴る音に合わせ、右手も動かしていく。左手とは逆に右手は脱力させ、手首のしなりを使うことで最も垂れた場所を単発のリズムで合わせる。低音と高音が混ざり合い、小気味の良い音楽にハジメは自分の世界へと浸っていた。


 うっとりとして顔を上げたとき、ハジメは弟が立っていることに気が付いた。背の高いリョウはハジメを無表情に見下ろしていた。

 それを見て、ハジメは理解した。彼もまた、この音に心奪われたのだと。

 ハジメは机に向かい、椅子を弟に差し出した。


「座れよ。お前にも聞かせてやる」


 しかしリョウは憐れむような眼を向けただけで、静かに扉を閉めたのだった。


 取り残されたハジメの体を、窓から吹く風が撫でた。その冷たさに、思わず身を縮める。いつの間にか汗をかいていたらしく、放り出していたバスタオルで再び体を拭いた。

 クローゼットで着替えを探しながら、先程の興奮を思い出していた。だがその中で、もう一つ考えが頭を巡っていた。

 一緒に演奏が出来る仲間が欲しい。

 それが出来れば、もっと楽しくなるに違いない。

 ハジメは吹奏楽部のコンクールを思い出していた。ステージの袖で演奏しているのを眺めるだけだったが、本当は羨ましかった。

 優勝したいとか、全国大会に出たいとかそんな大それたことは考えていない。ただ、演奏がしたかった。音楽を楽しみたかった。一人だけで演奏する楽しさもあるが、やはり仲間と一緒に演奏することに、ずっと憧れがあった。


 今は高校1年生の5月。吹奏楽部には入らなかった。強豪校である吹奏楽部に、ハジメの居場所がないことは、部活見学で無理やり理解させられた。帰宅部でいても満たされない日々は、もう嫌だった。


 下着を身に着けると、それが下っ腹で見えなくなった。いつもの光景のはずだが、ハジメは何か頭に引っかかるものを感じていた。


 その正体が何なのか頭の中にぼんやりと浮かぶが、霧がかかったようにはっきりとしない。

 ドアが何度か音を立てる。食事が出来たと、母親が呼びに来ていた。

 頭の引っ掛かりが取れないまま、ハジメは着替えを急いでリビングへと向かった。


 すでに両親とリョウが席に着いていた。ハジメが「すまんのぉ」と謝って席に着く。

 正面に座る父親はテレビを見ていた。ハジメもそちらに目を向けると、画面では水着姿の女性が見事なストライドで障害物を乗り越えていた。

 それがパルクールと言う競技であることをハジメは知らなかったが、その姿から目が離せなかった。

 やがて何もない平らな場所に出る。女性はその場でジャンプをすると、勢いをつけて回転していた。

 そのときハジメの耳に聞こえた気がした。

 大きな胸が弾け、そこに音が生まれていることを。


 頭の中の霧が晴れていく。腹を叩く自分の横で、巨乳が縦横無尽に暴れている姿が現れる。肉体を使った音楽が、そこから生み出されていた。


 ハジメは思い切り立ち上がっていた。他の3人が何事かと目を向けるが、その理由を知っている物はただ一人としていなかった。

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