アルセイン子爵(18)
書類に目を通していると、扉がノックされた。執事のセロが確認に向かい、すぐに声を掛けてくる。
「子爵様、ヒルデ様がお見えです。いかがいたしましょう?」
「きっと、あの件でしょう。すぐにこちらへ通してください」
「かしこまりました」
返事とともに扉が静かに開き、久しぶりに見るヒルデさんが姿を現した。品のある足取りで机の前まで来ると、恭しく一礼する。
「リル子爵、時間を割いていただき感謝いたします」
「もう、そんなに堅苦しくしないでくださいよ。ヒルデさんと私の仲じゃないですか」
「ふふっ。でも一応はね。そうじゃないと、セロに目で叱られてしまうから」
肩をすくめる仕草が、らしくて思わず笑ってしまう。確かにセロは礼儀に厳しいところがあるから、こういう場面では特に目を光らせているのだろう。
私は席を離れ、横に置かれた応接のソファへと移動した。ヒルデさんも私に合わせて腰を下ろし、お互い向かい合わせになる。
「では、さっそく本題に入りましょうか。……あの仕事の件ですね?」
「あぁ、これを見てくれ」
ヒルデさんはマジックバッグに手を入れ、慎重に何かを引き出した。現れたのは掌では抱えきれないほどの、大きな糸の束。
銀そのものを細く伸ばして撚り合わせたような、淡い輝き。光を受ける角度によって白銀から青みがかった色へと移ろい、まるで月光を束ねて形にしたかのように静かに、しかし確かに存在を主張している。
一本一本の糸はとても細いのに、手に取っただけで分かるほどのしなやかさと強靭さを併せ持っていた。普通の糸とはまったく別物だ。
「これがジャイアントスパイダーの変異種の糸ですか。……本当に綺麗ですね」
「予想していた以上の品質だ。これもスパイダー保護地区がちゃんと機能しているお陰だな。ロイの奴が張り切って管理してくれているから、今のところ問題も出ていない」
アルセイン子爵領の周辺は、十数年もの間まともに手が入らず、魔物が増え放題の魔境と化していた。探索を進めた結果、その中でも特にスパイダー系の魔物が異常なほど多く生息していることが分かり、領としての対処が急務となった。
本来なら、まず討伐して数を減らすのが常道だ。だが、その決断を下す前に、思わぬ事実が判明した。
スパイダーの糸は、普通の糸よりはるかに丈夫で、高品質な布を作れる。
ただ、大量生産が難しく、今までは市場にほとんど出回っていなかった。希少で扱いも難しい、いわば惜しい素材の典型だ。
しかし、アルセイン子爵領の周辺には、千を優に超えるスパイダー系魔物が生息している。それはつまり、「糸の安定供給が可能になる唯一の土地」ということでもあった。
スパイダーの糸を特産品にする大きなチャンスだ。そう確信した私は、討伐ではなく保護と飼育を選んだ。危険が分かった上で、それでも資源として活かす道を取ったのだ。
スパイダーとの共存は難しいものだった。だけど、ヒルデさんとロイさんが率先して動いてくれたお陰で突破口が見え、スパイダー系の魔物と共存出来る体制が整った。
糸が安定的に採れると確認できた段階で、私はすぐに次の手を打った。採取した糸を加工し、布へと織り上げるための工場を新設し、生産体制を整えたのだ。
そして、ついに誕生した。他のどの領でも真似できない、スパイダーの糸から織られた高品質の布が。
しなやかで強靭、光を受ければ淡く煌めくその布地は、試作品の段階からすでに並外れた存在感を放っていた。
完成品を目にしたトリスタン様とジルゼム様は、すぐに価値を見抜いてくれた。二人は率先して買い取りを申し出て、広く流通させるために自領の商会とも連携してくれた。
こうして、三つの領が協力してスパイダー布の販路を一気に開拓し新たな特産品は、正式に世へと羽ばたいた。
スパイダー布は市場に出回り始めると、すぐに商人たちの興味をさらっていった。手に取ればすぐに分かる品質の高さが、口コミとなって各地へと伝搬していく。滑らかな手触りと丈夫さ、そして月光を宿したような柔らかな光沢は、どの布とも似つかぬ独特の存在感を放っていた。
最初は物珍しさから仕入れた商人たちも、その価値を理解するにつれ、扱いを「特別品」へと格上げしていった。試作品が各地の市に並ぶたび、人々は足を止め、興味深そうに布に触れ、驚きと感嘆の表情を浮かべた。
やがて、噂は街道を伝って遠方へと広がっていく。裕福な商家の夫人たちが注目し、工房の職人たちは布の扱いやすさと強度の高さに目を見張った。仕立て屋は新しい素材の到来に胸を躍らせ、特別な一着を作ろうと密かに意欲を燃やし始めた。
そのうち、貴族たちの耳にも自然と情報が流れ込むようになる。豪奢な衣装を求める貴婦人たちは、光沢の美しさと希少性に惹かれ、式典や夜会で身につける衣装の素材として関心を向けた。領地間での贈答品として選ばれる例も増え、スパイダー布の価値は一段と高まっていく。
市場での評価が上がるにつれ、工場は連日忙しく稼働し、織機の音が絶えることはなくなった。糸の需要増加に伴い、スパイダー保護地区の管理体制も強化され、周辺の村から働き手が集まり始めた。荒れていた土地に人が戻り、かつての閑散とした景色は、少しずつ活気と笑顔に満ちていく。
各地の商隊がアルセイン子爵領へと足を運び、新しい布の仕入れを求める光景も日常となった。旅立つ馬車には、丁寧に梱包された銀糸の布が積み込まれ、遠くの市場や貴族の屋敷へと運ばれていく。
気づけばスパイダー布は、単なる名産品の域を超え、領の象徴として受け入れられつつあった。荒れ果てた土地として忘れられていたアルセイン子爵領は、いまや「新しい価値を生み出す地」として、多くの人々の注目を集め始めている。
そして、今――新しい生地が生まれようとしている。
「町の復興から特産品まで、よくここまでこれたな」
糸を見ていると、ふとヒルデさんがそんなことを言った。
「最初は荒れ果てた町を見て、本当に復興など出来るのかと半ば疑っていた。だが……よくここまで成し遂げたものだ。ただ立て直すだけではない。新たな産業まで生み出し、町そのものを活気づけるなど、並の領主には到底できないことだ」
「私ひとりの力では無理でしたよ。領民が一人ひとり力を尽くしてくれたからです。それに、官吏たちが自分の役割をしっかり果たしてくれたおかげでもあります。私だけの成果ではありません」
謙遜気味に返すと、ヒルデさんはわずかに目を細めた。冷静で実務的な彼女には珍しい、柔らかな微笑だった。
ヒルデさんは一瞬だけ言葉を選び、やがて静かに口を開く。
「たしかに皆が努力した結果でもある。だが、その中心に立ち、正しい方向へ導いたのは紛れもなくリルだ。荒れた土地を前に、諦めず、恐れず、可能性を見つけて形にしたのは、リルの判断と働きかけがあったからだ」
ヒルデさんの声には、心からの敬意が滲んでいた。
「無茶をしたわけでも、強引に押し通したわけでもない。皆が安心してついていけるよう、見えないところでどれほど気を配っていたか……側で見ていれば分かるさ。リルがいなければ、この町が今の姿を取り戻すことはなかっただろう」
まるで、あの荒れ果てた大地を初めて歩いた日のことを思い返すように、ゆっくりと、確かめるような視線だった。
「成果を他人の手柄だと言えるのもリルらしいが……もう少し自分を誇っていい。君が選んだ道は、正しかった。その証拠が、今こうして町に息づいている」
その言葉に、胸の奥でじんわりと温かいものが広がっていく。
頑張ってきた日々が、初めて誰かに肯定されたような。小さな町を守りたいと願った自分の想いが、ちゃんと伝わっていたのだと気づかされるような。
「次はどうする? 復興は軌道に乗った。新しい産業も育ち始めている。ここから先は、リルが望む未来に向かって歩いていく番だ」
穏やかな声でそう告げると、ヒルデは優しい目で見つめてきた。優しい問いかけに、私は自然と微笑んだ。
「私の望む未来は領民のみんなが、不安に怯えることなく、当たり前の幸せを享受できる町です。子どもたちが笑って走り回れて、お年寄りが安心して暮らせて、働く人たちが胸を張って明日を迎えられる。そんな、誰にとっても帰りたいと思える場所にしたいんです。
そのために、私はみんなと協力して、この町をもっと発展させていきます。まだ足りないものも、出来ていないことも沢山ありますけど……一つずつ積み重ねて、誰もがここに住んでよかったと思える未来を目指していきたい。
それが、私の進む道です。そしてそのためなら、これからもいくらでも頑張れます」
◇ ◇ ◇
これにてアルセイン子爵は終わりです。
もしかしたら、また続きを書くかもしれませんが……。
ここまで読みくださってありがとうございます。
次の話は何を書くかまだ決めていませんが、感想欄を見ながら書く内容を決めていきたいと思います。
次もお楽しみに!
新連載を二つ開始しましたので、再度お知らせいたします。
お陰様で沢山のフォローと★をいただきました。
ありがとうございます!
ぜひ、読んでみてください。よろしくお願いします!
コミュ障クラフターの私、引き継いだ能力が異世界では規格外すぎて無自覚に無双してしまう件~地味に暮らしたいだけなのに、なぜか注目されて怖いんですが~
https://kakuyomu.jp/works/822139838522041299
死霊術師な転生幼女は最強です!~追放されたけど、英霊チートでお気楽無双ライフ~
転生難民少女は市民権を0から目指して働きます! 鳥助 @torisuke0829
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