30.パン屋の売り子(1)

 今日からパン屋の売り子が始まる。新しいブラウスと青いスカートを穿くと、気持ちが高揚していく。新しい仕事にチャレンジする楽しみと不安でテンションが上がったり下がったりする、前世でいつか感じた感情だ。


 新しい服で集落の朝の配給にいくと、みんなが声をかけてくれる。この格好を見て新しい仕事にチャレンジする私を励ましと共に応援してくれた。すると不安が消えて、期待で胸が膨らんだ。


「頑張れよ、リル」

「良かったね、リルちゃん」


 声をかけてくれる同じ難民たちに深々とお辞儀をして感謝を伝える。私は集落のみんなのお陰でようやくここまでこれたんだ、って強く実感した。


 いつも通りに朝の配給を食べ、後片付けをして、集落を出て行く。その時には胸を張って歩けるほどの自信があった、難民としての負い目はなかった。ここにいるみんなとギルドの人たちとカルーのお陰だ。


 私はようやく真っすぐ前を見て歩いて行けた。


 町に着き、門番に挨拶をしながら冒険者証を確認してもらう。いつもとは違う服装の私を見て門番の表情が一層柔らかくなった。


「いってらっしゃい」


 何かを察したように私の背中を押してくれた。難民だと卑下していた自分が恥ずかしくなるくらいに、周りの優しさが身に染みる。町の住人ではないけれど、町の住人として認められたような気持ちになった。


 門で止まって、深呼吸をする。新しい自分の始まりに高鳴った胸を落ち着かせる。ここからの一歩は目標への第一歩だ。ニヤけそうになる頬に力を込めて、第一歩を強く踏み出した。


 ◇


 大通りを進み、途中で普通の通りを進む。朝の早い時間は人影がほとんどなく閑散としている。そんな通りを進んでいくとパンの焼ける匂いが漂ってきた。香ばしい匂いになぜか胸がワクワクする。


 少し早く歩いて進むと、右前方にパン屋の看板が見えた。ここが新しい職場だ。ドアは開け放たれていて、そこから匂いが漏れ出している。


「ふー」


 なんだかちょっと緊張してきた。落ち着け、慌てるな、しっかり。心の中で自分を励まして前に進む。パン屋の扉はすぐ目の前だ。


 私は開けられた扉をノックして声を上げる。


「おはようございます、リルです」


 15畳ほどの店内に声が響き渡った。しばらくは何も反応がなくて、少しだけ不安になってしまう。扉のところで待っていると、店の奥から主人のレトムさんが現れた。


「おはよう。思ったよりも早くこれたな。今日からよろしく頼む」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 軽く挨拶をかわす。するとレトムさんが近寄ってきて刺繍が施された白いエプロンを手渡してきた。


「まずはこれをつけてもらおうか」

「はい」


 エプロンを受け取り、紐を肩に通して、腰ひもを背中でギュッと結ぶ。それからカウンターの裏側に誘導されて、カウンター裏にあった箱を指差される。


「この箱はお金を入れる箱だ。お客から受け取ったお金を入れたり、おつりをここから出したりする」


 これがレジの役をこなすんだね。箱の上に乗っかった蓋を取ると、その中には色々な硬貨が入っていた。見た感じあんまり管理がしっかりされていないみたいだ。まぁ、前世と比べない方がいいよね。


「朝、昼、夕で出すパンに種類がある。まずは朝は丸パンの販売のみだ。みんな朝食のために急いで買いに来るから、できるだけ急いで対応してくれ」

「丸パンのみで急いで対応ですね、分かりました」

「計算は間違いないように気をつけろ。丸パン一個100ルタだ。釣りの間違いがないように正確に早く渡すようにしてくれ」

「一個100ルタ、釣り銭は気をつけながら早く、ですね」

「パンは今から出すからちょっと待ってろ。そうだ、お客は皿か籠を持って現れるからその中にパンを入れてやってくれ。トングを使ってな」

「お客さんが持ってきた皿か籠にトングを使ってパンを入れる、分かりました」


 一通りの説明を受けたが、難しいことはなさそうだ。一種類のパンのみの販売だし、料金もキリのいい100ルタだからよっぽどのことがない限り失敗しなさそうだ。問題はどれだけ忙しいか。


 朝の時間はとにかく忙しい。それは前世でも今でも変わらないはずだ。どれだけ効率よくさばいていけるのかが朝の時間の勝負所だろう。始めからクライマックスが迫ってきそうだ。


「これがパン100個だ。そろそろもう50個焼ける。その後、また100個焼いてそれで朝のパンは終了だ」


 大きな籠が2個、お店の中央にある台に載せられた。どうやらここでパンを配ったりするらしい。


「すごい数ですね」

「朝は戦争だ。とにかく落ち着いて仕事をしてくれ、そろそろ来るはずだ。俺はパンの用意をするから奥にいるぞ」

「はい、分かりました」


 レトムさんは奥の部屋に引っ込んだ。一人でお客の対応するらしく、ちょっとだけ心細くなった。ダメダメ、こんなところで気弱くなっちゃ。両頬をパチンと軽く叩いて気合を入れる。


 改めて籠の中のパンを見る。直径15cmくらいの丸く茶色いパンだ。焼きたてなのか近づくだけで熱気を感じられる。香ばしい匂いにお腹が減っていないのにもかかわらずお腹が鳴りそうだった。


 静かな朝の時間。外からパタパタと走る足音が聞こえて来て、その音は段々と大きくなってくる。きっとパンを買いに来たお客だ。


 トングを手に持って、初めてのお客を待つ準備をした。


「おっちゃん、おはよう! パン24個頂戴……って誰だ?」


 十代前半の男の子が走って現れた。店の中に入ってくるなり、私の姿を見て不思議そうに首を傾げた。


「はじめまして、今日から働き始めましたリルっていいます。よろしくお願いします」

「そうなんだ、よろしく! 俺は宿屋の息子だ」

「パンが24個ですね。背負っている籠をもらってもいいですか?」

「あぁ、よろしく頼む」


 挨拶を交わすと、すぐに仕事に移る。少年から背負い籠を受け取ると、パンを次々と入れていく。落とさないように、でも素早く。あっという間に籠の中はパンで一杯になった。次はお会計だ。


「全部で2400ルタになります」

「おう。えーっと、これで」


 男の子からお金を受け取る。手の中には銀貨が2枚と小銀貨が4枚あった、ピッタリだ。


「丁度お預かりします。お買い上げありがとうございました」

「うん、これからよろしくな。じゃ、急ぐからいくわ」

「いってらっしゃい」


 少年は背負い籠を背負って手を上げて走り去っていく。初めてのお客はせわしなかったが、問題なく終わることができた。ちょっとだけ緊張でドキドキしたが、失敗しなくて良かったと思う。


 一息ついていると、また走る足音が聞こえてきた。今度は二人いるみたいだ。


「いぇーい、俺が一番!」

「くそっ、負けた!」


 元気のいい10才前後の少年が二人現れた。どうやら二人で競争しながらここまでやってきたようだ。二人で軽くどつき合いながら店の中へと入ってくる。と、こちらを見て驚いた表情をした。


「……知らない人がいる!」

「本当だ! 誰だ、誰だ!?」

「今日から働きにきました、リルっていいます。よろしくお願いします」

「「へー」」


 自己紹介をすると少年二人は生返事をした。だが、すぐにハッと思い出し籠を差し出す。


「俺、パン3つくれ」

「俺はパン4つちょうだい」

「はい、お待ちください」


 そう言ってトングでパンを取ろうとした時、また慌ただしく入ってくる足音が聞こえた。


「お腹減ったー、パン4つくれー」


 また少年が入って来た。早く対応しないと。


「おっちゃーーん、パン3つ頂戴」


 またまた少年が入って来た。止まらない来客は朝の戦争の合図になった。

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