第24話 絶体絶命

 フランス革命は不幸な偶然があまりに重なりすぎていて、後世の創作ではないかと思わず疑いたくなるような数々の事件が存在する。

 1785年に発生した首飾り事件もそのひとつである。

 王妃マリーアントワネットは歴史の潮流も見えず自分の置かれた立場も理解できない愚かな女ではあったが、それは王族としては許容できる水準のものでしかなかったし、巷間に伝えられるほど国王に対する政治的影響力など微塵ももっていなかった。

 にもかかわらず彼女が国民の目の敵になったのはルイ・フィリップたちの宣伝工作やハンス=フェルゼンに代表される彼女自身の脇の甘さもあるであろうが、やはりブルボン王家が、抱えていた負債がたまたま彼女をひとつの象徴として噴出しただけと見るのが妥当であろう。

 いかなオーギュストといえども歴史の潮流と、積み上げられた代々の負債までは完全に解決することは至難の業であった。


「軍の掌握は進んでいる?カルノー」

 シャルロットは人妻だけが持つ妖艶な微笑みを浮かべながらコクリ葡萄水を飲んで喉を鳴らした。

 その仕草が艶やかな色気と同時にシャルロットの少女のような可愛らしさを演出していて思わずカルノーは息を呑む。

 いったいこの人はどこまで美しくなるのだろうか。

 初めて会ったときには確かに極上のビスクドールのような美しい少女だった。

 しかしオーギュストの妻となり、王妃になって、立場の階段をあがっていくごとにシャルロットの美しさ、あるいは身体中から発散される生気とでも表現するべきだろうか。

 そうした思わず平伏したくなるような圧力が増していくばかりだとカルノーは思う。

 そして目を見張るばかりの圧倒的な美しさも。

「実戦部隊については問題ありません。貴族士官についてもロシャンボー伯が取り込みを進めておりますので」

 フランス革命において王国軍はほとんど何らの役にも立たなかった。

 むしろ進んで革命に協力するものが、特に下士官の実力ある下級貴族や平民の間から続出したのである。

 後に不敗のダヴーと称される不世出の戦術家、アウエルシュタット公ルイ・ニコラ・ダヴーなどもその一人だ。

 硬直した身分制度のなかで能力を持ちながら出世することもできない下士官たち、そしてまともに給与すら支給されない末端兵の間では王室に対する怨嗟の声が満ちていた。

 これで戦力として当てにする方がどうかしている。

「それでは信頼のおける兵を一個大隊………いえ、一個中隊いつでも動けるように待機させておきなさい」

 シャルロットの要請にカルノーは愕然とした。

 何の理由もなしに即応兵力が必要となるわけがない。

 それはすなわち武力が必要な事態が間近に迫っているということを意味していた。

「承りました。それでいつどこで必要になるか伺っても?」

 天を仰いで嘆息しつつシャルロットは答える。

 それがわかっているならば待機などという生ぬるい真似をしなくて済むものを。

 気だるげに額にかかった金髪をかき上げる仕草が何とも言えず堂に入っていて美しかった。

「出来れば無駄に終わってほしいものですが………近々不平貴族の間で動きがあるでしょう。デオンとも渡りをつけておきなさい」

 シャルロットが危惧しているようにフランス王国を取り巻く環境は悪化の一途をたどっていた。

 アメリカ大陸から飛び込んできたボストン陥落の報は啓蒙派知識人を狂喜させ、これが新たな時代の先駆となることを予感させていた。

 当然ラ・ファイエットをはじめとする啓蒙貴族からはアメリカ独立戦争参戦の要請の圧力が増すことになる。

 自由と独立を合言葉にパリでは啓蒙貴族とブルジョワ系の知識人が手を組んでサロン活動を活発化させていた。

 しかし現時点において全面的な参戦という選択肢はありえない。

 なぜならオーギュストは史実とは違いフランス海軍の再建に予算を割いていないからである。

 内乱に対する抑止力としてオーギュストは陸軍の再編と掌握を最優先にしなくてはならなかったからだ。

 意外に知られていないことだが、史実におけるルイ16世は失われたフランスの対外影響力と植民地政策、貿易の拡大には海軍力の拡充による海洋覇権の確立が絶対に必要であると信じていた。

 少ない国費をやりくりしてフランス海軍は急速に整備され1778年には実に52隻もの主力戦艦を所有するにいたっている。

 アメリカの独立戦争のひとつの終末点となったチェサピーク湾の海戦はこのフランス海軍の充実抜きに語ることはできないであろう。

 史実におけるルイ16世の判断はイギリスと覇権を争う国家首長としては決して間違っていないし、むしろ卓見であるとさえ言える。

 ただ問題は国内の複雑にからみあった自らの足元を甘くみたということだ。

 オーギュストは史実と同じ轍を踏むつもりはなかった。

 国内の諸問題を解決せずしてイギリスと全面で争うなど自殺行為以外の何物でもない。

 だからといって放置するわけにもいかないことも確かではあったが。

 時を同じくして貴族たちの間ではこのアメリカ独立戦争を奇貨として失われた植民地を奪い返そう。

 アメリカに恩を売り、新たな輸出販路を獲得しようとするブルジョワ貴族と、この機会に人民の政治参加を成し遂げようという啓蒙派貴族が急速に力をつけるとともに、そうした新たな思想集団を既得権益への侵略者とみなしてこれを排除しようとする守旧派貴族の対立が激化していた。

 都合の悪いことに、その両派閥ともが、最終的には国王が自分たちの味方であることを疑っていなかった。

 しかしオーギュストの理想はそのいずれでもない。

 オーギュストは身分制度の固定と不公平な税制は改革しなければならないが、貴族は貴族として制度的には後世に残していくべきだと考えていた。

 ジャポネでは明治維新に際して廃仏毀釈という文化破壊が大々的に行われたと言うが、しばしば歴史の節目において古いことが罪悪であるとされる場合がある。

 しかし失われてみてそれがいかに重要なものであったか、ということに気づくことがほとんどだ。

 いったん失った伝統というものは一朝一夕に取り戻せるものではない。

 たった十年の断絶を取り戻すのに百年の月日を必要とする。それが伝統の力と言うものなのである。

 最終的にはイギリスに近い立憲君主政体と古き良きジャポネのような民族的統一性………若き日に憧れた銃士隊の合言葉、一は全のために、全は一のためにを実現する。

 それがオーギュストの見果てぬ夢だ。

「しかしいい加減まともに現実を見てほしいものだが……………」

 夢のような未来を求めているのは自分の方だということは百も承知だが、それでもまだ貴族たちよりは現実を見据えている自覚がある。

 今さら第三身分への課税をあげろとか、官僚組織に入り込んだ平民を排除しろなどということは時代に逆行する愚かな行為であるし、歴史と伝統さらには文化の担い手でもある貴族を全面的に排除し、人民による政治体制を築き上げるというのもまた同様に非現実的な話であった。

 それをまがりなりにも達成するためにはナポレオンのような奇跡的な幸運と天才的な軍事的才能に依存せざるをえず、それが最終的にどんな終焉を迎えたかを考えればフランス革命は無駄な遠回りをした寄り道と表現できなくもないのである。

 オーギュストの目の前に巨大な大理石の門が現れる。

 今日のパーティーの主催者であるシャルル・ド・ロアン公の軍人らしい重厚な邸宅であった。

「ルイ・フィリップ殿のお約束は間違いないのであろうな?」

「神に誓って」

 同族であるロアン枢機卿が重々しく頷くのを見てもシャルルの胸は一向に晴れなかった。

 そもそも軍人であるロアン家は国王に対する忠誠によって大臣職を歴任してきた名門である。

 いくら不満があるとはいえ国王を暗殺しようとするのに動揺がないはずがなかった。

「現国王亡き後はフィリップ公を摂政に。そしてロアン家による陸軍大臣の世襲を保証するとのお言葉でございます」

「う、うむ……………」

 だからといってこのまま引き返すことが出来ないのも事実である。

 国王による陸軍の掌握はもはや抜き差しならぬところまで進んでおり、このままでは自分の陸軍に対する影響力は永久に失われ、息子に大臣職を譲り渡すことも叶わなくなってしまうであろう。

 あるいは平民が考えるだけでも吐き気がするが大臣に就任するということさえあるかもしれぬ。

 成りあがりのテュルゴーにさえ伯爵位を与えたことから考えてもそれは十分ありうる事態と言わなければならなかった。

 ――冗談ではない。

 あのカールマルテル以来、王朝は変われど王室を支えてきた貴族という種族は平民とは異なる存在なのだ。

 無定見でパンさえあれば満足する平民に国家の大事がわかろうはずがないではないか。

 シャルルに言わせればこんなことは自明の理なのだが、残念なことに世の推移は彼の予想を完全に裏切ろうとしていた。


 ―――――ああ、陛下よ。我が主よ。私が貴方を裏切るのではない。貴方が私を、貴族を裏切ったのだ――――!


 覚悟を決めた様子のシャルルを小ずるいロアン枢機卿の瞳が覗いていた。

 フィリップが摂政に就任した暁にはフランス王国宰相の地位をいただけのはこの私だ――――。

 たかが一使者にすぎぬサンジェルマンの言葉を信じ切ってやまない野心の塊のような男は、ただ極彩色の未来に思いを馳せてその言葉が偽りである可能性を無意識のうちに排除していた。

 史実では替え玉の女を本物の王妃であると信じた粗忽者であったロアンだが、その本質はあまり変わっていないというべきなのか。

 国王暗殺が成功したならばシャルルとロアンは真っ先に口封じに暗殺犯として処分してしまうつもりでフィリップが準備していることなど彼の脳裏にはわずかたりとも思い浮かびさえしないのであった。


「国王陛下のお付き!」


 老執事が恭しく主人であるシャルルに一礼して報告する。

 それと同時にシャルルとロアンは互いに目配せをして決断の時が来たことを確認した。

 すでにして賽は投げられたのだ。

 シャルルは屋敷に配置した兵士たに高々と右手をあげて手はず通りに配置につかせた。

 どうやら国王の護衛はわずか数名、近侍の者を含めても十名程度にすぎない。

 完全武装の一個中隊を相手に生き残ることは不可能なはずであった。

 ――――――大丈夫、逃げ道は全て封鎖している。

 屋敷を取り巻く門は国王の到着と同時に封鎖され十人以上の屈強の兵士が守備する手はずになっている。

 もはや国王は袋のネズミ。万にひとつも逃げられはしない。

 逃げられるはずがないのだ――――。



 門をくぐった瞬間にオーギュストは屋敷を取り巻く異常な空気に気づいた。

 幼いころから慣れ親しんだ悪意が圧力となって覆いかぶさってくるような、そんな感覚であった。

 まさか軍事の名門ともあろうものがここまであからさまに刃を突きつけてくるとは予想外というほかはなかった。

 青ざめた顔でオーギュストの前に進み出るシャルルにオーギュストは困ったように眉を顰めて首を振った。

「これはどういうことかな?ロアン公?」

「私はもう貴方にはついていけない!い、いや、これはフランスを守るための義挙なのだ!」

 恐れる気配もなく堂々と暗殺者を詰問する国王にひるんだシャルルは悲鳴をあげるように叫んだ。

 心のどこかで早まったのではないか、という思いがある。

 やはりオーギュストは主義主張をたがえたといえどもまぎれもなく王であった。

 そんなシャルルの葛藤にも構わずホールに整列していた兵士たちが国王を包囲しようと動き出す。

 屋敷の各門を封鎖し、国王を完全に捕捉する兵士の動きはさすがに軍事の名門ロアン家の兵というべき鋭さであった。

「…………ここまで手はずを整えているとはまだまだ余の諜報も甘い、というところかな?」

 貴族たちの間で実力行使が検討されているという情報は掴んでいた。

 それを陰で煽動しているのがフィリップであるということも。

 しかしロアン公が手兵を動員して国王の殺害を図ることまでは予測できなかった。

 少なくとも昨日までロアン家では国王を歓迎するための準備が本番さながらに進められていたはずなのだ。

 それにしても国王のこの余裕はどうだ?

 シャルルは困惑を隠せずにいた。

 殺気をみなぎらせた屈強の兵士に取り囲まれながらも国王の威厳はいささかも損なわれない。

 むしろこちらが気押されて思わず平伏したくなりそうはほどだ。

 そんなシャルルの動揺にロアンはいらだったようにシャルルの袖口を掴んで催促した。

「この後に及んで何を迷っておられます?さあ!早くご命令を!」

「そうか、お前の入れ智恵か。枢機卿………身に過ぎた野心はほどほどにしないと身を滅ぼすぞ?」

「滅ぶのは貴様だ!平民に媚びを売る犬め!」

 ロアンという男の野心を甘く見積もっていたことをオーギュストは認めないわけにはいかなかった。

 人は分不相応であるほどに時に考えられない愚かな行動に出る生き物なのだ。

「馬鹿は馬鹿なりに頭が回るが、逆に信じられないほど愚かな決断もするということだ。これは検討が必要だな」

「………猛省して今後に生かす所存でございます」

 まったく予想外の方向から告げられた言葉にシャルルが驚愕するまもなく轟然と銃声が轟いた。

 短銃から発せられた弾丸は過たずシャルルの帽子を貫き、宙を舞った帽子が死灰と化したホールにパサリと落ちる。


「次に動いたら今度は心臓に当てさせてもらうよ?」


 上品に笑う愛嬌に満ちた中年のメイドが、両手に短銃を構えてシャルルの心臓を狙っていた。






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