第50話

 影が完全に静まった後、空気が異様に重くなり、異世界の冷気が部屋中に漂う。涼は辺りを見渡し、身構えた。影の中心にいたはずの斉木さんの姿は、すでにどこにもない。


「食べた、だと……?」

 

 涼の脳裏には先ほどの光景が焼き付いていた。バー全体を呑み込むような影、そしてそれに吸い込まれる斉木の歪んだ表情。それは恐怖というよりも、奇妙な安堵のようにも見えた。

 彼の言葉を打ち消すように、低く響く声が部屋中にこだました。


「『食べた』、か。まったくもって愚かな表現だな」


 声の主を探して振り返る涼の前に、一瞬のうちに影が凝縮し、黒いシルエットが人型を成す。そして、その中から現れたのは、かつての斉木さんだった―――但し、もはや「人間」とは呼べない姿だ。


 斉木さんの瞳は赤黒く染まり、口元は異様に裂け、牙のようなものが覗いている。腕には異形の触手が絡みつき、身体全体から禍々しいオーラが漂っていた。


「おいおい、涼。俺が『何を食べた』? 違うさ。俺は、やっと『目覚めた』んだよ」


 斉木さんは不気味な笑みを浮かべ、ゆっくりと涼に歩み寄る。


「…どういうことだ?」

 

 涼は拳を握り直しながら問いかけた。


「お前、何者なんだ?」


 斉木さん―――いや、それはもはや斉木という存在ではなかった―――は低い笑い声を漏らしながら答えた。


「俺はサーザス様の忠実な下僕さ。ここに潜り込んで、お前たちの動きを監視していただけのこと。だが、この体もそろそろ限界だった。だから影の力に忠誠を誓ったのさ、あの影は俺が新しい姿に生まれ変わるためのものだったんだよ」


「サーザス……?」


 涼はサーザスの手の上で踊らされていたのかもしれない。なら、斉木さんの家族とは何だったのか。何でこんな「知りたくもないことを知らなきゃいけないんだ」その名を耳にするだけで恨みや怒りしか生まれて来ない。


「お前がサーザスの手下だった、ってことか……!」


「察しがいいな、涼。だが、知ったところでお前にどうすることもできやしないさ」


 斉木の身体が再び闇に覆われ、巨大な怪物のような姿へと変貌を遂げていく。触手が床を這い、部屋中を埋め尽くす。


「残念だったな、ここがお前の墓場だ―――!」


「これは現実ではない。しかし、紛れもない事実だ。さぁ、お前はどうする?」


 タールは涼に問う。

 涼は歯を食いしばりながら後退した。だが心の奥底にわずかに燃える反抗の炎を消すことはなかった。


「ふざけるなよ……! 俺はお前みたいな奴に屈しちゃいけないんだ!」


 涼はポケットから取り出した手紙を握りしめた。それは、かつて斉木さんから受け取った涼へのプレゼントに誓いを立てた証だった。そして、その紙を右手のガントレットで握り潰した。


「サーザスの手下だろうがなんだろうが、俺は絶対に負けない―――!」


 俺の身に起こった変化は、斉木さんからもらった左手が原因か。だがな、「田中さんの力と恵の声」で何とか持ち直したんだ。やってやれないことなんて無い。


 光が闇を裂き、涼の拳に力が宿る―――幻想的な世界で知った真実に向き合うために。

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