婚約者にミィナが可愛いと語らないでください
こう
婚約者にミィナが可愛いと語らないでください
「ミィナはね、とても可愛いんだ」
突然聞こえた褒め言葉に、ミィナは咄嗟に回廊の陰に隠れた。
隠れて確認した先で、最近自分をよく構ってくれる先輩を発見した。ミィナが通りがかった回廊から見える中庭にある東屋で、一組の男女がお茶をしている。女性の顔は、よく見えない。
一人はドクトル・ガウ伯爵令息。ミィナの一つ年上の先輩で、彼とはテストの解答用紙が風に飛ばされ、必死に回収しようと木に登ったときに出会った。
艶やかな黒髪に、澄んだ黒い瞳。美しいと評判の伯爵令息だと気付いた瞬間、ミィナは枝から滑り落ちそうになった。無事だったが。
ミィナは男爵家の庶子というやつで、最近引き取られたばかりのほぼ庶民。令嬢としてあり得ない場面を目撃されて血の気が引いたが、彼は微笑んで受け流してくれた。誰にも告げ口されていない様子で、とても安堵している。
そんな彼は、ミィナを目にかけてくれている、と思う。
(挨拶してくれるし、ふと顔を上げれば目が合うし、優しく微笑んでいるし…まさかわたしに気があるのかしら!? って思っちゃうわ)
ドキドキしながら、まさかそんな、でももしかして…ともだもだしているミィナだったが、最近先輩については新事実を知ったばかりだ。
「君もそう思わないか、キャシー」
「さようですか」
(おぎゃああああああああ!?)
ミィナは腰を抜かしてその場に頽れた。
最近知った新事実。
それは、先輩にはしっかりきっちり立派な婚約者がいらっしゃる、ということ。
恐る恐る回廊の影から中庭を覗けば、先程よく見えていなかった相手がわかる。
銀の髪を靡かせて、青い瞳をうっそり細めた玲瓏な美女…キャシー・ニャウ伯爵令嬢だ。
(婚約者相手に何を言っているんですか先輩ぃいいいい!?)
下っ端男爵の庶子であるミィナは、由緒正しい伯爵令嬢に睨まれたら明日などないと生まれたばかりの子鹿のように足を震わせていた。
そんなミィナのことなど知らず、先輩の力説は続く。
「俺のミィナは本当に可愛い」
「さようですか」
(違います先輩のものじゃないです!)
ミィナは必死に心の中で反論したが口に出せるわけがない。
「ふわふわしていて、丸い目で、小さな身体で見上げてくる姿が堪らない」
「さようですか」
(身長差の所為です!)
確かに見上げるたび嬉しそうにしていたがそんなことを考えていたのか。
「俺を見つけると、俺を呼ぶのだ。覚えられたのか、近寄ると顔を上げて俺を見てくれる」
「さようですか」
(呼んだ覚えはありませんが!?)
しかし目が合う度に「もしかしてわたしに気があるのかも…」なんてときめいていたのは事実だ。
「いつでもこの膝に抱き上げて、片時も離さず過ごしたいといつも願っている」
「さようですか」
(いやあああわたし明日学校来られる!? 男爵のお父様プチって潰されない!? わたしなにもしていませんニャウ様ぁ!!)
膝に乗った事実は一切ない。流石にない。そこまで急接近していない。
「さようですか」しか言わないニャウ様の真顔が怖い。
ゆっくりカップを傾けて、音もなくソーサーに戻す。
一息ついた彼女は、軽く目を伏せた。
「ドクトル様…いい加減、わたくしも言わせていただきます」
「なんだ、どうかしたか?」
(なんできょとんとしてるの先輩嘘でしょ…)
婚約者とお茶を飲みながらする会話がミィナ可愛い。婚約者の移り気を語られて、平静で居られる令嬢などいるのか。貴族怖い。
ニャウ様は冷静だったが、やはり腹に据えかねていたようだ。
「あなた様ときたら、わたくしとお茶をしていてもミィナミィナと…そのように一人で鳴かれては、わたくしとの交流にもなりませんわ」
「…そんなに話していたか?」
「ええ、ずっと彼女の話ばかりしています」
「…それはすまない。どうしても愛しさが抑えきれず、つい…」
「仕方がありませんわ。ミィナはか弱く、小さく、庇護せねばならない存在…あなた様が夢中になる気持ちもわかります」
ドキリとした。声が震えて聞こえたからだ。
ミィナはどうしようか迷った。弁明すべきか。しかし盗み聞きの形になってしまっているのに、ただでさえ無礼な状態で、身分の低いミィナがあのお茶会に乗り込むことはできない。
オロオロしていれば、ニャウ様がキッと顔を上げた。
「ですからわたくしも…ドナの話をしますわ!」
「え?」
(え?)
嬉しくないが、このときミィナと先輩の心境は一致した。
ドナって誰?
「待て、キャシー。ドナとは…?」
「ドクトル様を見習って、わたくしも愛でることにしましたの。あなたと同じ黒髪の男の子です」
「なん、だと…!?」
(なん、だと…!?)
修羅場か。
まさかの修羅場なのか。
婚約者が別の人間を可愛がっている(意味深)から、自分も仕返しに別の相手を可愛がろう(意味深)と…!?
先程まで澄まし顔をしていたキャシーが、宣言した途端にうっとりと頬を染めて斜め上を見つめだした。完全にここにいない誰かを夢想している顔だ。
いけないあれは、恋い焦がれる乙女の顔。
「あの子はまだ小さくて、か弱くて、わたくしが守って上げなくてはならない存在です。ドクトル様が何故ミィナにあれほど入れ込んだのか、わたくしもドナを手に入れて理解しました」
「え、その」
「見窄らしかったのですけれど、洗えばとても綺麗な子で」
「あの」
(もしかして後腐れのないように平民を拾われました?)
ニャウ様は孤児院への寄付を欠かさない慈悲深き方なので、気に入った子を引き抜いたとしてもおかしくはない。
「撫でれば素直に身を寄せる、とても可愛いわたくしのドナ…」
「待って」
(おいくつ? その子おいくつ!?)
男の子、ということは年下だろうか。しかし男の子は、女がいくつでも女であるように、男だっていくつだろうが男なのだ。危険だ。
「最初はわたくしに怯えていたのですが今では膝に乗ってくれるほど慣れて」
「キャシーの膝に!? 俺のなのに!?」
(いきなりなに言ってんです先輩)
思っていたが、発言がかなり残念。
うっとりしていたニャウ様もスンッと表情をなくした。
「わたくしの膝は、ドクトル様の膝ではありません」
「俺も乗ったことがないのに!?」
「当然でしょう。あの子専用にしても良いくらいです」
「良くないが!?」
「あなた様はご自分の膝にミィナを乗せていればいいではないですか」
(乗りませんが?)
一度も乗った事実はない。先輩の妄想である。
「それとこれとは話が違う! 俺の膝にはミィナもキャシーも乗って欲しい!」
(乗りませんが!?)
ご自分の膝をぱしーんっと叩く先輩。真剣な顔なのにとっても残念だった。節操なしめ。
ニャウ様も呆れた顔をしていた。呆れた顔のまま、また視線を斜め上に向けた。そこに可愛いニャウ様のドナさんが描かれているのだろうか。
「なんだかとても逢いたくなってきました。もうお茶会をやめてお互い解散しませんか?」
「待ってくれ話し合おう」
「語り合いですか? 受けて立ちますわよ」
「すまない違うんだ。君をないがしろにしたわけではなく」
「よいのです。お互い婚約者以上に愛する存在がいるというだけのこと」
「あああすまない。本当に。君の話も聞くから」
「ええ、聞いてくださいまし。ドナのお話をたっぷりさせて頂きます」
「ミィナの話ばかりしてすまなかった…!」
「いいえお構いなく、お構いなく! わたくしもしたい話だけさせて頂きます!」
「ごごごごごごめんなさーーーーい!!」
「「!?」」
これは良くない流れと思って、ミィナはつい飛び出した。
転がるように飛び出して、早速石に躓いて本当に前転しながら二人のいる東屋に突っ込んだ。大慌てで手をついて、二人にぶつかる前に停止する。ゴツンと額を地面に打ち付けて、土下座の体勢で制止。
そこで一気に叫んだ。
「わたしと先輩は何もないんです本当ですごニャウ様が嫉妬する必要なんてなくてあのえっとお互い浮気はだめです修羅場はいけません話し合いましょうー!」
しょうー!
うー!
ぅー!
…。
ミィナの叫びが、静寂の中反響する。
(あ…あああ…飛び出しちゃった…! 我慢できず飛び出しちゃった…!)
つい。
なんだかとってもおかしな方向に会話が流れていると思って。
先輩との件は誤解だから何もないからニャウ様も若い燕(?)と遊ぶのは良くないです話し合ってくださいと訴えなくちゃと思って…!
(それにしたって考えなしだった…! ひえーどうしようごめんなさい男爵様わたしはそそっかしい娘ですー!)
しばしの静寂。
何か考えるような間があって、得心したようにニャウ様が呟いた。
「…あなた、ミィナ・ワンニャー男爵令嬢ね」
「にゃっす!」
緊張から、ミィナの声は綺麗に裏返った。なんだにゃっすって。
「頭をお上げ」
「わん…」
静かな声で命じられて、ミィナは恐る恐る頭を上げた。
戸惑った視線で見下ろす、高貴な二人と目が合った。
「…なにか勘違いなさっているようですが」
「ミィナとは、俺が飼っている猫の名前だよ」
「ぎょえっ!?」
ミィナは飛び上がって驚いた。
「お、同じ名前…?」
「そうなんだ。俺もびっくりした。しかもふわふわした髪とか、丸い目とか、雰囲気が似ているから、ついよく眺めて目で追ってしまって…うん、すまない。俺が悪いな。勘違いの元だ…」
言いながら理解したようで、先輩は苦笑しながら謝罪した。ミィナは呆然と、ニャウ様を見る。
「ど、どなさんは…?」
「ドナはわたくしが飼い始めた犬ですわ」
「ぎゅわっ!」
「犬だって!? 猫じゃないのか!」
「犬です」
「あばばばばばばば」
ミィナはブルブル震えた。小刻みに震えた。
つまり今までしていたのは飼い猫、飼い犬自慢。
先輩が可愛いと言っていたのも、膝に乗せたいと言っていたのも、人間のミィナではなく猫のミィナ。
ニャウ様が対抗して手に入れたのは若い燕(?)ではなく、飼い犬。
人間のミィナはまったく関係なかった。
ミィナはブルブル震えた。小刻みに震えた。
震えながら、もう一度額を地面に打ち付けた。
「大変申し訳ありませんでしたぁ!」
(わたしってば厚かましい上に自意識過剰な自惚れをぉおおお!)
いやーっ恥ずかしい! と赤面するミィナの隣に、すっと膝を折ったニャウ様が寄り添った。土下座しているミィナの肩に手を添えて、微笑みながら首を振る。
「いいのよワンニャー男爵令嬢。ドクトル様が紛らわしい言動をなさっていたのでしょう? そういう勘違いのお話、実際わたくしの耳に届いていましたもの」
「ぴぎゃー!?」
「えっ」
悲鳴を上げるミィナと、初耳ですと間抜けな顔をする美貌の令息。麗しい令嬢はため息をついた。
「ですがこの方がこういう方なの、わたくしちゃんと理解しておりましたので、誤解しておりませんわ。心労をお掛けしてごめんなさいね」
「にゃ、ニャウ様…!」
笑顔で慰めてくれるご令嬢に涙ぐむ。
「そんなことよりも」
「ほぁ?」
肩に添えられていた嫋やかな手が、がっしりとミィナの肩を掴んだ。
「ワンニャー男爵令嬢は、犬と猫どちらがお好き?」
「えっ」
とても麗しい笑顔だったが、目がマジだった。
その奥で、立ち上がった先輩もニャウ様の隣に来て膝を着きミィナに詰め寄る。
「猫だよな?」
「犬ですわよね?」
「あっこれ派閥争いだ!」
犬派と猫派で争わないでー!
また違った意味で切実なミィナの叫びが、学園の中庭に響いた。
その後、高貴な派閥争いに巻き込まれたミィナは「動物アレルギーなんです!」と訴えて二人に大層憐れまれ、事なきを得た。
ちなみにこの派閥争い。学園の貧富関係なく熾烈な争いを見せたが…教師が仔猫、仔犬の触れ合い広場を臨時開設したことにより、平和的に「みんなかわいい」と脳が溶けて終わった。
結論。可愛いものは、可愛い。
だからうっかり誰かに語ってしまっても仕方がない…が、頻度を考えなければ大変なことになるので、大変気を付けるべきである。
婚約者にミィナが可愛いと語らないでください こう @kaerunokou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます