学部 三年半 (4)昨晩から見ている夢の続き

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は、様々な女子に援けられながら、中・高・浪~そして大学の生活を過ごしてきた。

 勉学と応援部に明け暮れる駿河の前に、三年半ぶりに一時帰国のベーデと、日本再留学のエリーが現れた。

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「駿河っ、駿河っ!」

「…コンチハッ、お早う御座居ます…」

「大変だ、ドイツ語から電話。」

「ハイッ、有り難う御座居ます。」


 朝の五時半。まだ、鳥くらいしか起きていない寮の静寂を電話の呼び出し音が破った。通常なら下級生が取り次いで呉れるのが、昨日は宴会があったようで、上級生がとって了った。


「Ja、 Hier mich」(はい、かわりました)

「Morgen、 Go!」(おはよう、轟))

「Morgen...Elly?」(おはよう、エリー?)

「Heute ist fein. (良い天気よ)

 Nehmen wir ein Frühstück. (朝食を済ませたら))

 Machen wir einen Spaziergang.(散歩しない?)」

「Ja、 Das ist gute Idee.」(ああ、そりゃいい。)

「Sind Sie schläfrig?」(まだ、眠い?)

「Nein. Nein.....Sie sind Frühaufsteher.」(いや、君は早起きだな)

「Bin ich Düsenverzögerung?」(時差ぼけかしら?)

「Nein、 Ich stand jetzt auf.」(いや、僕も起きるところだった。)

「じゃあホテルで待ってマス。お顔洗って来て下サイ。」

「Ja、 Ja. Wiedersehen.」(うん、わかった、じゃあとで)


 電話を切って振り向くと、寝ている筈の顔が一斉に壁の陰に隠れた。


「駿河、お前ドイツ語の先生と親しいのか?」

「ハイッ、左様で御座居ます。」

「此様なに休日の朝早くから、急用か? 再試か?」

「いえ、朝食を戴けるというので、行って参ります。」

「そうか、エッセンか、気を付けてな。」

「ハイ、有り難う御座居ます。」


 *     *     *


 ホテルを訪れると、ラウンジにエリーと、フラウ・アストリーが揃っていた。昨晩大学のレストランで彼女達を見つけられなかったことを覚えているのか、エリーは「此方此方こっちこっち」と遠慮がちに小さく手を振っている。


 今日ばかりは手を振らずとも、僕自身が気をつけている所為と彼女たちの髪の色、そして東洋人とはどこか違った衣服の鮮やかさで、すぐに居場所が知れた。


「Morgen Herr Suruga!」(おはよう、駿河さん)


「Morgen、 Haben Sie genügendes Schlafen、 letzt Nacht?」

(おはよう、昨晩はよく眠れた?)


「Wir alle schliefen gut、 danke so viel.」

(ええ、おかげさまで、二人ともぐっすり。)


「アストリーさんは、此処の生活には慣れそうですか?」

「ハイ。迚も暮らしやすそうで安心シマシタ。」

「日本でも治安の悪いところはありますから、気を付けて下さい。」

「エエ、大使館から注意するところは聞きました。有り難う御座居ます。」

「それは、良かった。」


 彼女は、軽く会釈をすると席を離れた。


「あれ? 彼女はもう朝食済んだの?」

「イエ、彼女は別の場所で食べマス。駿河に挨拶するために居マシタ。」

「ふーん。一緒に食事したら良いのに。」

「私と駿河の食事デスから。」

「あぁそう。そういうものかい。」


 こういう小さな動きの謎の一つ一つが文化や環境の違いなのだろう。彼女は何を驚くでもなく,極自然に振る舞っている。


「駿河は、入学してからずっとドミトリー?」

「Ja. 正確に言えば、入学して少し経ってからだけど。」

「今度、遊びに行っても良いデスか?」

「ん~。」

「都合良くないデスか?」

「男子学生には良い処だけれど、あまり綺麗なところじゃないし。正直いってがさつなところだから。」

「ガサツ?」


 彼女はフライドエッグを音もなく上手に切り分けながら聞いている。僕には到底出来ない技だ。


「バーバリーなんだ。」

「ヴァヴァリア? Bayern?」

「あ、違う、えっと。Bavariaじゃなくて、barbary」

「Burberry?」

「あれ、通じないな。バーバリズムのバーバリー。」

「Ja、 それならbarbaryデハなくて、barbarousと言わなくテハ駄目デス。」

「そうそう、其のバーバリー。」

「良いデスカ、形容詞はbarbarousですよ。発音も違いマスし、よく大学合格しマシタね。」


 一夜明けると、すっかり一高こうこう時代のように僕を責め立て始める。


「兎に角、其のバーバラスだってば。」

「Ah、男の人の聖域ネ。世の中何処にでもありマス。お母さんや奥さんたちに『片付けなさい! 何度言ったら分かるんデスカ!』って言われなくて済む処。」

「其様なところだな。」

「では、止しておきマショウ。」

「其の方が良いと思う。」


 少しだけつまらなさそうにして、また何かを考えている。この娘は以前から、思考している最中は微かに小鼻や耳が動く癖がある。


「私、明日から少しだけ大学に行ってみマス。」

「そう、講義登録とかは?」

「これからデス。Österreichの大学で学んだもので省略出来るところまで聞いてありマス。これから半年は、ほんの少しの授業だけで良いようデス。」

「良かったね。日本語で講義だから、空いてる時間に文章の訓練とかするの?」

「そうデスね。留学生対象の講義がありマス。駿河は、今日、一日空いていマスか?」

「大丈夫だよ。」


「じゃ、これから散歩と、講義を選択するのを手伝って下サイ。」

「お安いご用で。一日って夕方まで?」

「エエ、夕食までに戻れば良いデス。」

「じゃあ、もう出ようか。」

「鳥渡待っていて下サイね。支度をして来マス。」


 *     *     *


 一人だけでラウンジに残って居ると、今まで眼の前に居た彼女が幻のように思われ出した。まだ昨晩から見ている夢の続きなのではないか、というくらいに記憶が曖昧で、片付けられない儘で卓上に残っている食器を目にしても、鮮やかな模様とは反対にぼんやりとした印象しか出てこなかった。


「お待たせしマシた。」


 食器が片付けられて、丁度其の痕跡が無くなったところに彼女が戻ってきた。

 朝食時のブロウした髪にふわりとしたワンピースのイメージとは正反対で、ブロンドの髪をカメオの髪留めできっちりまとめ、ピシッと折れ目の入った黒のパンツに黄色い綿のブラウス姿。肩には小さなランドセルのような革の背負い鞄を掛けて、機嫌良さそうに立っている。


「へぇ、そういう格好も出来るんだ?」

「何か可笑しいデスか?」


 眼をぱちくりとさせて首を傾げている様は、一高こうこう時代と変わらない。


「制服のスーツとドレスばっかりが目に焼き付いちゃってるからさ。」

「もう制服は着られマセンヨ。」


 目を細めて笑って居る彼女は、見送りのドアマンに軽く挨拶を返して、残暑から初秋にかけて最後の耀きを見せる太陽の下に出た。

 この三年半の間に少し背が伸びたのか、並んで歩いていると、殆ど真横に彼女の顔を感じることが出来た。


「普段の生活は比較的自由なんだ? 門限とか、服装とか、もう厳しくないの?」

一高こうこうの時は制約が多過ぎマシた。何をとってみても、自分の考えが正しいかどうか判断出来なかったデスからね。皆にも色々迷惑をかけマシた。」

「離校式の国歌とか?」

「Ah…。矢っ張り、其の後問題になったんデスね…。」

「いいや。大丈夫だったよ。」

「今思えば恥ずかしいデス。お祖父様には褒められマシたが、父には迚も叱られマシた。」


「今は? 制約は可成り多いの?」

「少し成長した分、自由も増えマシた。自分で責任をとれるだけ自由も増えマス。」

「当たり前の話だけれど、何か耳が痛いな。」

「自由や権利について、日本の人は、水や安心と同じように無関心デスからね。」

「そうだなぁ。」


 大学の構内に入り、日を遮る緑の木蔭を見つけると、彼女はそれまで細めていた目を漸く自然に開いて周囲を見渡した。

 少しだけ深呼吸をして、心持ち満足そうな顔をして見渡している。また何かを思い附いたのか、小鼻がヒクヒクと動いたのがわかった。


「何? どうかしたかい?」

「エ。何故其様そんなことを聞きマスか?」

「何か思い附いたように見えたからさ。」

「ンー…。地図では見マシタ。少しゴチャッとしてマスネ。」


 私立大学や他の国立大学と比べれば、充分に広いと思う我が大学でも、欧州の人間にしてみると《狭い》と感じるらしい。敷地は狭くはなくても、建物が密集しているというイメージが強いというのは、他の留学生もよく口にしていた。


「それは失礼しました。」

「駿河は、大学の自治に関係してイマス?」

「いいや。」

「デハ謝らなくても良いデス。」

「あ,そう。」


 こういう表現も、冗談なのか、そうではないのか、まだ間合いをとれないもどかしさのなかで、以前の感覚を取り戻そうと努力をしつつ、彼女の案内を続けた。

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