学部 三年半 (1)シャワー浴びて来てよ

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は、様々な女子に援けられながら、中・高・浪~そして大学の生活を過ごしてきた。

 大学でも「応援」部に入った駿河は、現在二年目。

 珍しく女性の影が希薄な中でもプチ失恋継続中。

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 綾さんからの有り難い忠告も、建徳女史との一件を機会にどこかへ吹っ飛んで了った。

 そうは言っても、団活動と学問に只管打ち込んでいる以外は、特に普通の大学生と変わった生活をしているわけでもなく、浮き上がった存在にも、遊離した存在にもならず、まあごく平凡な運動系の学生という生活を送っていた。《恋愛》という二文字に全く縁が無くなっていることを除いては。


 再び真っ黒一色な生活となった二回目の七帝戦と其の後の夏合宿も無事に終わり、学業面でも大の苦手な有機化学が再試験になった他は無事に通過し、その後にやってくる筈の学部への進路振り分けでも、相当な高望みをしなければ、おそらくどこでも行けそうな成績は確保できた。


 世はなべて事もなく、淡々と過ごす毎日は、退屈でもなく、また忙しくもなかった。

 それまでのように、《恋愛》が無いことの代償として団活動や学問に打ち込むという《昇華》ではなく、夫々を純粋に全うしているという点では、精神的にも至極落ちついていた。

 それは《恋愛》というものに対して涸れてしまったというのではなく、偶々たまたま気になる娘が居なかったというだけのことなのかも知れなかったが。


 *     *     *


 立秋から、もう一月も過ぎようかという頃、練習に行くために普段のようにキャンパスのメイン・ストリートを歩いていると、後ろから軽く呼びかけられた。



「駿河っ!」

「コンチハッ。失礼します。」


 呼び捨ての声に「これは上級生に追いつかれた」と思い、立ち止まって反射的に挨拶した。


 真っ黒か紺の人影が視界に入ってこないことをいぶかしんでいると、斜め後ろから更に透き通った声がした。


「ちはっ!」


「コンチハ」ではなく、「ちはっ」を、此処で口にする女子は他大学の応援団体か、親しい運動部の下級生くらいしか居ないが、下級生なら当然呼び捨てで呼び止めてきたりはしない。

 今日は、他大学からの出張セレモニーもないよなあ、と思い起こしてみる。

 心の準備が全くない状態で、しかも女性から呼び捨て=ほぼ上級生、に呼び止められると、当然のことながら、緊張する。

 更に対象を把握できないとなると、情けなくも二重に驚き、ぎくしゃくしている身体で声の主の方を振り向いてみる。


 其処には蜩の鳴き声許りが響く中、熾火を吹いているかのように真っ赤な夕焼けをまとった日輪を逆光に、影の如く照らし出された一人の女性が立って居た。


 煉瓦建築の多いキャンパスが、何もかもセピア色に見える此様こんな時間、薄暮の中に立っていたのは、透き通った肌が薄桃色に映えているベーデだった。


(足…足はあるな。幽霊じゃないな…。)


 黄昏時の精神的な動揺で、居る筈のないものでも現れたかのような心配が、咄嗟とっさに脳裡をかすめた。

 死霊ではなくとも生霊とか、怨霊とか、兎に角そういう強い思念めいたものが実体化されたというか、はたまた此処のところすっかり彼女のことを忘れて了っていたので、良心の呵責に堪え兼ねた脳が実体化したというか、何にせよ其の瞬間に少しばかり後ろめたい気分になった自分が居た。


「うぇ…。」

「失礼ねッ! 『うぇ』とは何よ。」

「…お前…、此処ここで何してんだ?」

「ご挨拶ね。わざわざ逢いに来たんじゃないの。」

「…俺にか?」

「貴男に、で悪かったわね。で、慶應の彼女は? どう、続いているの?」

「今、それを聞くか…いや、まあ、もう古い話だし…。」

「あぁら、強気な言葉を吐くようになった割には、優柔不断と、最終的な詰めの甘さは相変わらずなのね。」

「あのな、三年半の時を越えて、わざわざそれを指摘しに来た訳か? 随分とご丁寧なこった…。」


 高校三年になる直前に彼女が海外に渡ってから、実に三年半ぶりの生身での再会だというのに、会話の内容が相変わらずであることに、自分でも苦笑した。


「三年も経てば少しは成長してるかと思ったんだけど、これじゃあ…誰かさんの折角の決心も無駄かもねぇ…。」

「はぁ? 先刻からごちゃごちゃ何を言ってんだ?」

鳥渡ちょっと動揺すると周囲が見えなくなるのも相変わらずね。よく周りを見て御覧なさいよ。」


 確かに驚き一辺倒で周囲まで注意が回っていない。彼女に言われるが儘、素直に周囲を見渡してみる。

 他の人間と言われれば、練習に急ぐ自転車姿の同期生が視界に入って少し焦る。そのほかに誰かと思って見ると、彼女の少し後ろにもう一人、女性らしき人影がある。目を凝らして其方をよくよく見遣ると、


「こらっ、そーんなひんがら目をして睨むんじゃないの!」

「此処のところエネルギー消費に比べて供給が足りなくてな、…慢性的な栄養不足で、夜目が利かないんだ。特にこういう黄昏たそがれ時ってやつは…。」

「これは愈々本当に駄目なようよ。ねぇ、此様こんな盆暗ぼんくら放って此のまま帰りましょうよ?」


 呆れ果てたようなベーデの言葉に促されて、ぼんやりと見えていた人影がゆっくりと近付いて来た。


「Lange nicht gesehen. Herr Suruga?」(おひさしぶりですね、駿河さん)

「グェ…!。うわ、エリーまで一体何してんのさ?」

非道ひどいデスネ。『グェ!』じゃナイデスよ。駿河サン、連絡呉れたデショウ? 大学合格シタって。」

「したよ、したけどさ…、それぁ去年だよ? それから一年以上も経って。また何の連絡もなしに…急に来るねぇ。そうか、これは夢だな。道理でセピア色な訳だ…。あ痛!」


 ベーデが手にしていた扇子でパシリと頭を叩かれる。


「相変わらずの馬鹿ねっ。何なら頬を抓りあげて差し上げましょうか? 一体全体、先刻から貴男、私達に急に来られると何か都合の悪いことでもあるの?」


 自分こそ相変わらずの台詞を言う。


「いやいや、其様そんなことぁ、ないけど…何よ? 旅行?」

「まだ女二人旅なんかする歳じゃないわよ。」


 時間の狭間をモノともしないベーデの勢いは、僕を無理矢理三年半の昔に引き戻すかの如く、我が眼に、我が耳に襲いかかってきた。

 こちらも尋ねたいことは山ほどある筈なのに、一挙に引き戻された記憶の渦は、喉から唇にかけて溢れかえり、少しも言葉になって出て来ようとしない。


 彼女等は僕に会う心算つもりで此処まで遣って来たのだろうからそれなりの準備というものも出来ているかも知れないが,僕は全くそんな準備なんてものは出来ていないのだから、初心者とベテラン以上の心理的な差違がある。


「駿河ァ! 遅れるぞォ!」


 通りの向こうを走る同期生の声が、もう一段階僕を現実の世界に引き戻した。


「悪い、これから練習なんだ。今日、もし時間があれば出直して呉れるかな。それとも大学記念館一階のレストランで食事でもして待っていて。」

「じゃあ、出直して来マス。ネ? 亜惟。」

「練習は何時に終わるの?」

「七時四十五分解散。」

「じゃあ、其の頃、記念館で待ってるわ。レストランは何時まで開いてるの?」

「十時まで。」

「私たちも待ってるから一緒に食事しましょうよ。練習が終わったら、ちゃんとシャワー浴びて来てよ。」

「えぇ?」

「エチケットでしょ。何言ってるの。」

「其様な時間ないぞ…。」

「じゃあ、せめてデオドラントしてきて。」

「はいはい。」

「はい、は一回よ!」

「分かったって。じゃ、後でまた、エリー。」

「ハイ。駿河サン。」

「私には?」

「有り難う。いつだって感謝してる。ベーデ。」

「よろしい。…ああ、良い、良い。其の格好で抱き付かなくて良いから。」


 *     *     *


(何しに来たんだろうな?)

(連絡しなかったことを怒りに来たのかな?)

(どちらか結婚したとか?)

(え? 二人とも結婚しちゃったとか?)

(俺の知っている奴が相手だったらどうしよう…。)

(お祝いとかどうしたらいいのかな…。)

「駿河ァ! コォノ馬鹿野郎!」


 勝手な妄想に気が散りがちで怒鳴され続けた練習も終わり、大学生協で下着とワイシャツを買い換え、学生服の上下にデオドラント・スプレーをせ返るほど振りまいてから一目散にレストランに駆けつけた。

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