つい先週のこと 第四巻 大学・大学院編「帝國大學」

雪森十三夜

進学か、二浪か 無理して嫌うこともない

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は漸く大学に合格した身。

 充実しきっていた中・高の学生生活の反動で大学受験には失敗。意志薄弱ながらも同士「ソウシ」のおかげで何とか浪人生活も耐え抜いた駿河。

 ここから、再び充実した学園生活が戻ってくるのか否か。

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 実は進学を決める前、一高に恩師を訪ねていた。


 三年時担任の山名先生は経済学と文学を修めるために帝国大学を二つ出ている。最終的には文学の世界で生きていて、生徒の生き方にも可能な限り口を挟まない無言の教育姿勢を貫く人だった。予備校の推薦入学を取ったときの約束「旧帝国大学には合格して貰わないと」というのも、教師という職責上、単純に仕方のないことを代弁しただけで、先生から僕に対する個人的な意図などは無かった。勿論、僕が第一志望である京都大学に合格出来ればと願う担任としての思いはあっただろうけれど、それ以上のものもなかった。報告もあっさりと終わり、普段の通り「ああ、良かった。良かった。」の一言二言で終わった。要は「一度、予備校から帝大に合格してしまえば、あとは「其処には行きたくないから、二浪する」と言ったところで、それは本人の自由。後輩に影響を及ぼす危険性のある年季奉公は終わった。」ということだった。


 安埜先生は応援部の顧問であることに加えて、出来の悪い物理学の弟子として大分お世話になった。口を開けば「…どうして諸君は…」そして「…どうして駿河は…」の三年間だった。物理Ⅱの講義も度重なる欠席で何度も補講のお世話になった。一浪の末での合格の報告に、目を細めながらも「そうか生物系に進むか…。」と物理学から離れたことを少し残念そうにされていた。


 加賀先生は地学が専攻だが、物理学、生物学の双方でもお世話になっていた。帝国大学では地学と生物学の双方を修め、後に科学雑誌の編集長となった著名な科学者と同期だった。浪人時代の最後に最終的な受験校を決定する際にも、物理・地学系と生物学系の双方に造詣が深いので親身になって考えて下さった。


「志望をそう簡単に変えられるものでしょうか?」

「ええ、人は変えることも変わることも出来ます。」

「しかし、これまで培ってきた人格の形成過程を考えると、そうそう簡単に変わるとも思えませんが。」

「こればかりは生きてみないと実感出来ないことでしょうが、二十歳を越えても、四十歳を越えても、其の年齢に応じて、幾らでも人は変わるものですよ。」

「そうでしょうか?」

「ええ、そうです。だから山名先生も私も、大学に長く居たのです。」

「それは、矢張り進路に迷いを感じられたからなのではないですか?」

「此様なことを言って了っては身も蓋も無いですが、大多数の人間は、置かれた環境に順応し、才能を伸ばすことが出来ます。」

「大学など何処に行っても一緒だということですか?」

「適性がない場所では困りますが、適性を持っている可能性が広いのなら、結構なことじゃありませんか。」

「隗より始めよ、ですか。」

「専攻が全く異なるということではなく、また積極的に忌避する理由もないのなら、無理して嫌うこともない、ということですよ。」

「はぁ。まだどうにも釈然としません。」

「幸い、先細りの進路ではないのですから。寧ろ、恵まれていると、素直に喜ぶべきです。」

「二浪してまで京都大学に拘るよりもですか?」

「私は、君が何処の大学にも受からないか、社会通年に照らしても今回の合格が不本意な結果ならば、『若いうちの一年くらいは』と言うでしょうが、今年の結果を受け容れないのなら、世間並みに『勿体ない時間を…』と思うでしょう。」

「それこそ、お言葉通り社会通念的な考え方ではありませんか?」

「一高や大学での生活が長くなると、社会と自分を切り離して考える癖が付いて了って不可ません。」

「不可ないのですか?」

「人格と教養を紡ぐ若いうちなら《通える夢は崑崙の高嶺の此方ゴビの原》でも結構ですが、もう大学生なのですから社会と関わりを持って生きるべきです。此処から先は世間一般が大多数なのですよ。」

「長いものには巻かれろと仰有いますか。」

「必ずしもそうではありません。社会人として生きていく先を見通す選択を迫られている場合にはそうせよ、ということです。」

「では高等学校までの理想論は何処にどう仕舞ったら良いのでしょうか?」

「人として生きる本質としては、間違いなくこれまでの人格形成が役立つでしょう。否、そうでなければなりません。これが逆になると、それは大変迷惑です。」

「二枚舌ですか?」

「違います。人としての基本を置くべき場所の違いです。社会は一人では生きて行けません。妥協や多数意見や実態も大事です。一方、人間としての人格は成る丈、高邁な理想でなければ文化が進歩しません。文明は技術に倫理が伴ってこそ発展するのです。社会と人が、夫々理想と現実に基本を置いていたらどうなりますか。それは生き難い世の中ですよ。」

「はあ。ぼんやり分かったような気がします。」

「そう、其の《ぼんやり》が大事なんです。最初から切れ味よく分かって了う判断など、其の方が勘違いが多いものです。」


 結局其の後、先生の言葉通り、二浪はせずに、一高でも予備校でも「ああ良かった良かった」と手を叩いてくれる先に進学をすることで腹を決めた。

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