白い純恋と勿忘草を

碧海 汐音

第1話 二人のスカートが揺れる

三限目に降った雨粒は窓に沢山貼りついていて、たまにそのどれかが伝い落ちる。その雨粒は陽光によって照らされ、光り輝いていると同時に教室の壁に影を落としている。そのこと以外にはいつもと何も変わらない。ふと見た時計の針は一時を指していた。多くの生徒が、食べ終わったお弁当箱の蓋を閉めている。その音が教室中で鳴っている。私も一つと残さず食べ終えた空のお弁当箱に蓋を閉めた。そしてそれを巾着に包み、机の横にかけた。そのついでに鞄の中から栞の挟まれた小説を取り出した。


押し花の栞が挟まれたページを開くと、窓に貼りついていた雨粒の影が今度は紙にも映し出された。ふと、その雨粒が気になり、窓の外を見る。小一時間の強い雨で運動場には水溜まりが出来ていた。いつも運動場に出てサッカーをしている生徒たちも、今日は教室の中で身を留めている。もしくは、廊下で楽しそうに話している。私は再び小説に目を落とし、前回読んだ個所の続きを指でなぞって探した。


教室には、友達同士で話す声、机で狭くなった通路を広げようと誰かに押されて動く机の音、引かれる椅子の音が重なって響いていた。そんな雑音に紛れて誰かが私を呼んだが、すぐにはその声に気づけなかった。その声がざわめく音を通り抜けて私の耳の中に入ってきたとき、その声の主はすぐ横に立っていた。


「……蘭」

はっとして右上を見た。むっとした表情の涼花が私を見下ろしていた。

「ごめん、気づかなかった」

私が話した瞬間に、むっとした表情は目に光を入れない悲しげな表情に変わっていた。

「うん」

一息分の沈黙が流れる。

「あのさ、これから外行かない?」

「え?でもさっき雨降ってたから外濡れてるよね?」

「濡れてないとこ。駄目?」

「まぁ……」


小説を鞄の中にしまおうと本を閉じたところで、涼花は半ば強引に私の手首を掴み、教室のドアに向かって机や椅子をよけながら駆け出した。そして二人の少女は教室を飛び出した。二人を包むその夏ならではの爽やかな空気。それは、二人の間だけに流れる、少し胸がざわつくような夏の空気だった。


かすかな風が吹く廊下に、二人の髪は靡いて、スカートは揺れた。

階段を駆け降り、手首を掴まれたままよろけながら片手で靴を履く。その勢いのまま外に飛び出し、運動場の端を走る涼花の後ろをついて行く。


走って行った方向でどこに行くのかが分かった。私と涼花でよく行っていた場所。学校の敷地内、プールの裏にある芝生だ。ほとんど誰も訪れない場所だった。私たちだけが知っている秘密の場所というわけではないが、わざわざ行きたがる生徒は少なかったのだろう。学校の中にあって誰も来ないので、長い休み時間にはそこに生えている大きな木の下に寝転びながら、よく二人で喋っていた。

最近、彼女は別の友達と行動することが増え、その場所に足を運ぶことはなくなっていた。


足が段々遅くなる。その空間でいつもいた場所を見た。芝生の上に生えている大きな木は沢山の葉がついているが、屋根代わりになるわけもなく、その下は濡れていた。どこに座ろうかと濡れていない場所を探す。芝生の少し奥に低い石の塀があるのを見つけた。その上に涼花が座り、私はその横にもう一人入れるくらいのスペースを開けて腰かけた。少しの沈黙が続く。


「次の授業ってなんだっけ?」

それが独り言なのか、私に話しかけているのかはわからなかった。

「数学じゃないことは確かだね」

「あぁ……うん、そうだね」

私のクラスに来て、私の横で名前を呼び、小説を仕舞う前に手首を掴んでここに連れてきたのは涼花だ。何か用事があって呼んでいる。私に伝えずらい内容なのか。何の目的で私をここに連れてきたのか分からなかった。

「なんか……こうやって話すの久しぶりだよね」

「そうだね。涼花ちゃん、最近別の子といるからタイミングとかも合わないしね」


涼花ちゃん――。涼花と出会ったのは幼稚園の頃で、確か幼稚園の頃はたまに喋るくらいだった。小学校に上がってからは、いつも二人で一緒にいた。ただクラスが一緒で席も近かったから、それだけの理由だ。だが中学校に上がるとあまり喋らなくなった。これにも特に理由は無い。強いて言うとすれば、クラスが離れたから、ただそれだけのことだ。私には彼女しか親しい友達はいなかったが、彼女には私以外にも親しい友達がいた。その子たちとクラスが一緒になったから距離が出来た。


今日は久しぶりに話しかけられ、少し戸惑った。ぎこちない会話が続き、再び沈黙が流れる。沈黙の間に、なんとか話題を探していると、予鈴が鳴った。


「あ、予鈴だ。そろそろ行こっか」

私は立ち上がって涼花の方を振り返って見た。

彼女の目は虚ろで、存在そのものが微かに揺れている。どこか名残惜しそうにゆっくりと立ち上がり、私の後ろをそっとついてきていた。


次の本鈴が鳴るまで残り五分。小走りで校舎へと向かう。玄関に着くと急いで靴を履き替え、階段を駆け上がった。廊下を走り、髪が乱れる。教室付近で速度を落とし、髪を整えながら後ろのドアから教室へと入った。ドアの近くにいた数人がこちらを見る。私は軽く目を合わせ、自分の席へと向かった。


机の中から次の科目の教科書とノートを取り出し、チャイムが鳴るまで教科書を見て時間を過ごした。それから数秒後、チャイムが鳴ると先生が学級委員に号令を促した。

「起立」

がらがらと椅子を引いて、机の下にしまう音が聞こえる。それが止んだのを確認すると学級委員が続けて「気を付け、礼」と言ったのを聞き、返事をする。

「お願いします」

今度は机の下から椅子を出し、席に着いた。


「じゃあ前回のところを開いてください。確か……」

いつもと変わらず授業が続く。五限目も六限目も特に変わったことは無く、そのまま掃除をして、帰りのホームルームが始まった。

「来週の月曜日はテストをするので、しっかり勉強してきてください。範囲は授業内で配ったプリントに書いてあるところです。じゃ、号令お願いします」

その言葉に学級委員の一人が号令をした。

「起立、気を付け、礼」

「ありがとうございました」


その言葉が言い終わる前に勢いよくドアに向かって走る男子生徒を先生が少し呆れた目で見ながら、卓上の荷物を整理していたのを見た。私は鞄を肩にかけ、教室を出た。廊下を渡っているときに涼花のいる教室を窓からのぞいたが、いつも通りの涼花がそこにいた。友達と一緒に帰るのか、楽しそうに喋りながらその友達が準備を終えるのを待っている。ちょうど終わったらしく、数メートル先にいつもいる友達と一緒に歩く涼花がいる。私はその後ろを距離を開けてついてゆき、駐輪場へと向かった。自分の自転車を押しながら校門を出た。校門を出て少し進んでから自転車に乗り、心地の良い風を打ち消すようにやってきた夏の太陽光に体力を奪われそうになりながら家へと帰宅した。


夏の暑さに加え、階段を一段上がることに体力がむしばまれていく。少し開いていた部屋のドアを開けて鞄を乱雑に置きながら、ワイシャツのボタンを一つずつ外す。シェルフの中から部屋着を一枚取り出して着替える。その一連の動作に加えて、流れるようにエアコンのスイッチを入れた。ベッドに腰かけ一息つき、時計を確認する。午後五時半前。窓の外の空はオレンジに青が混じりつつある。私は、鞄かけにかかっているキャンバスバッグを手に取った。学校鞄の中から小説を取り出し、キャンバスバッグの中に移し替える。机の上に置いていた携帯と財布を入れ、部屋を後にした。階段を降り、重い玄関のドアを開けて自転車に乗った。


気分転換に海に向かう。その道中でコンビニに寄り、炭酸水を買って自転車の籠の中に入れた。いくつかの交差点を渡る。海に近づくにつれ、潮の匂いが辺りに広がっていくのを感じた。自転車が停められそうな場所に自転車を止め、砂浜まで歩いて向かった。


黄昏時の海は空気が澄んでいて、壊れかけのガラス細工のように繊細だった。心の奥底にしまい込んだ感情を出してしまっても良いと思えるくらいに心地よい。私はその空気を吸い、砂浜に座ってキャンバスバッグの中から小説を取り出して読んだ。


砂浜は冷たかった。それに体温が奪われていく。それに比例するかのように、空気の色が徐々に暖色から寒色に移り変わるのが体で感じられた。ゆっくりと夕日は月に替わり、空は夜を起こしていた。文章を読んでいる最中、今日一日疲れたのか潮風が気持ちいいのかは分からないが、眠さに抗いながら少し目を凝らした。


バシャ――。バシャ――。波が砂浜に打ち付ける音とは少し違う音。誰かが海の中に入るような。進んでいくような。音の方向に目をやると、一人の少年が海の中に入って行くのを見た。

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