長後~藤沢

 自転車は住宅街を抜け、中途半端に工場群と商業施設が入り交じったエリアを越え、高圧線の鉄塔の並びに沿ってほぼ真南に向けて走り続けた。

 国道四六七号は小田急江ノ島線と併走するかたちで江ノ島に向かっていた。しかし国道から線路は見えなかった。

 どこかで新幹線の線路も越えたはずなのだが、全く記憶にない。

 小田急と新幹線が交差する辺りに、地元民以外にはあまり知られていなさそうな高座渋谷という駅があり、小田急はその後、長後駅を挟んで湘南台で相模鉄道と横浜市営地下鉄に接続している。しかしそれらも地下鉄であるがゆえに、地上からは気配も感じられなかった。

 湘南台文化センターのプラネタリウムのドームは道路から見えたので、あれはきっとプラネタリウムだなどといった話はしたはずだった。しかしそのあたりの会話はあまり印象に残っていない。

 そこはもう藤沢市だった。相模湾に面し、江ノ島を有する、私たちの目的地の市だ。湘南台の名もそこが湘南地区であることを雄弁に主張していた。

 もっとも藤沢市は南北に長く、湘南台は北側の台地に造られたニュータウンだ。江ノ島まではまだ少しある。ほんの少しだけれど……。


 旅の終わりが近づいていた。

 私たちはどこに辿り着くのだろうか。


 彼女が死を望んでいるとしたら、それだけは避けたかった。けれどマクドナルドを出てからの彼女は概ね当初と変わらない調子で、私はまた混乱していた。話といえば銀河政府の話ばかりで、真実を知る糸口さえ掴めなかった。

 夜通し走りつづけたせいで太ももが痛み始めていた。非日常的な状況のせいか目は冴えていたが、脳は夜明けまでに江ノ島に行かなければならないという奇妙な義務感に支配され、少し正常な感覚ではなかった気がする。

 彼女の突飛な話に対して、私はいつしか曖昧に頷くばかりになっていた気もする。


 いつの間にか私たちは会話もなくなり、ただ夜の道を走り続けていた。どこで会話が途絶えたのか、正確なことわからない。畑の間を抜けた後は似たような景色が繰り返され、全体的に記憶が曖昧になっている。

 自転車はやがて長い下り坂に差し掛かり、右手に森のような木々を見つつカーブを描き、国道一号の高架をくぐって市街地に出た。新聞を高く積み上げたバイクとすれ違う。

 家を出る前に調べた道によると、江ノ島に向けて四六七を進むには、この先の十字路で左折する必要があった。まっすぐ進むと別の道になってしまう。変な話だが、国がそう決めたなら仕方ない。

 間もなく頭上に現れた青い案内標識も、江ノ島は左方向だと示していた。周囲の建物は背が低く、コンビニや三階建ての塾などの比較的新しい建物に交じり、古めかしい店構えの、何を売っているのかもわからない商店が、シャッターを閉じて軒を連ねている。

 どことなく海の気配があった。


「……ここはどこですか?」

 標識に従い、交差点を曲がったところで彼女が尋ねた。荷台を掴んだまま眠っていたわけではないだろうが、不意に夢から醒めたような声だった。

「藤沢駅の近くだね」

「藤沢駅……」

 藤沢駅はJR東海道線と江ノ電、小田急が交わる大きな乗換駅だ。藤沢駅に到着した江ノ島行きの列車は、なぜか一旦元来た方向へとスイッチバックし、切り替えたポイントを越えて江ノ島方面へと向かう。

 そうした藤沢から相模湾までの地理関係が彼女の頭の中にあったのかは定かではない。とはいえ、相模湾までの行き方は調べたようなことを言っていたし、この時点で彼女はその後の行動を決めていたのかもしれない。


「江ノ島まであと六キロだって」

 右車線の上に見えた案内標識を読み取り、私は言った。八〇キロの旅程の九割以上が過ぎ去り、江ノ島まではあと三〇分もかからないだろう。案内標識の下を、古い型の軽自動車が通り過ぎていく。どこに向かっているのかなど知る由もないが、時計は四時を回り、街はゆっくりと目を覚まし始めていた。


「少し明るくなってきましたね」

「そうだね」

「もうすぐ夜明けですね……」

「うん……」


 私たちはほぼ真東に向かっていた。そして東の空は確かに明るくなり始めていた。夜明けの紫に染まる前の、薄明の青。

 なにかを言わなくてはならない気がした。

 しかし私には、それ以上何を言うべきなのかわからなかった。

 車の音が私たちを追い越していく。


 しばらく続いていた左右のマンションが途切れ、道の両側はまた二、三階建ての家屋が並ぶ住宅地になる。そこに時折、妙に古めかしい和風の大きな建物が交じる。

 道はゆっくりとカーブを描き、再び少しずつ南に向かい始める。

 新聞屋の建物の前には、また新聞を積んだバイクが停まっている。

 大きな交差点の前で道は広くなり、交差点を越えてまた狭くなる。

 右手にコンビニの明かりが見えたとき、彼女は言った。


「喉が渇きました。コンビニに寄りませんか?」

「そうだね……」


 ペットボトルはとっくに空になっていたし、言われてみれば私も喉が渇いていた。しかし自転車は左車線を走っており、右車線の奥には対向車も見えた。

「こっち側にもあるんじゃない? 駅も近いし」

 私は右に見えていたセブンイレブンをやり過ごし、自転車を漕ぎ続けた。

「そうですね……」

 彼女の声からは、感情は見えない。


 セブンイレブンを過ぎると街は住宅街から市街地に変わり始めた。背の高いマンションが増え始め、歯医者や、シャッターの前にまで中古家具を並べた店や、オフィスビルなどが見えてくる。

 しばらく進んだけれどコンビニは見つからなかった。交差点の歩道橋の向こうに巨大な建物が見えてきて、その歩道橋をくぐると、道は真南へカーブし、下り坂となった。市役所前と書かれた信号を越え、さらに黒とオレンジの縞が描かれた鉄道らしきガード下を通過する。位置的にはこれで藤沢駅より南に来たはずだった。

 TSUTAYAと東京電力の前を過ぎ、南藤沢の信号を越え、さらにビルの谷間を進むと、右手に見慣れた青い看板が見えた。ローソンだ。


「渡ろうか」

「はい」


 ローソンはまた右にあったけれど、対向車はない。私は後方にも車が来ていないことを確認し、スピードを落としてハンドルを切り、右車線を横切った。

 オフィスビルの一階のローソンに駐車場はなかったものの、ガラス張りの店の正面は歩道より少し奥まった場所にあり、自転車を停めるスペースはあった。私はそこに自転車を停め、サドルから降りると、彼女に声をかけた。

「降りて」

 思えば私に促されるまで、彼女は自転車を降りなかったのだ。彼女はきっと、最初から店に入らないつもりだった。私はそのことに気づかなかったけれど、彼女を乗せたままスタンドを立てるのは難しかったので、降りることを促した。

「あ、はい」

 彼女は慌ててお尻を滑らすように荷台から降りた。そして落ちそうになった防災頭巾をギリギリのところで支える。

「買ってきてくれませんか? 飲み物……」

 スタンドを立てているとき、彼女は言った。私から五〇センチも離れていないすぐ近くで、彼女は少し首を上げて私を見つめていた。その仕草に、やっぱり女の子って小さいなと改めて思う。

 私と目が合うと、彼女は困ったように目をそらした。視線を追うと、大きなビルの柱の周りに申し訳程度の花壇があった。

「少し疲れちゃいました」

 彼女は花壇に向かって歩いた。タイルで覆われた花壇は腰掛けるのにちょうど良さそうな高さで、彼女はそこに座った。生えていたのはツツジか何かの灌木で、花は咲いていなかった。彼女はタイルに直接座って、防災頭巾を抱くように持っていた。

「いいよ、そこで待ってて」

 私は快諾した。これが三つ目のミスだ。ずっと自転車に乗っていたのだから、疲れたからといってコンビニに入ることもできず座らなければならないなんて、そんなことがあるはずはなかったのだ。

「ありがとうございます」

 彼女はそこに座ったまま、表情を「軽い微笑み」に切り替えた。

 あるいはそれは、不器用な彼女なりの好意の表現だったのかもしれない。


 麦茶にするかスポーツドリンクにするか少し迷ったものの、それらを一本ずつ買って戻るのに、長い時間はかからなかった。


 コンビニを出ると彼女はいなかった。


 どこに行ったのだろうと訝しみながら自転車の近くまで来ると、荷台に置かれた防災頭巾が目に飛び込んできた。椅子に固定するためのゴムバンドに、六角形に折られたノートの切れ端がはさんであった。


 その瞬間、私は悟った。

 彼女はもういない。

 これでスリーアウト。

 ゲームセットだ。

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