午前三時のマクドナルド
大和駅は神奈川県のほぼ中央に位置する。町田から私たちの来た道と併走してきた小田急江ノ島線と、横浜から西に延びる相鉄線が交わる、首都圏基準で言えば中規模の乗換駅だ。
サービスエリアで有名な隣の海老名市に比べ、大和市の全国的な知名度は低いが、東名高速らしいガードの下をくぐると、少し街らしくなってきた。
カーディーラーや中古ゲームショップは閉まっていたが、ガソリンスタンドは開いていて、周囲に光を放っている。
さらに進むとチェーンのカツ丼屋が見えてきたが、あいにく二四時間営業ではなかった。
「閉まってたね」
「そうですね」
「まあ、店が出てきたってことは開いてる店もあるよ」
そんな話をしているうちに、コンビニの向こうにサイゼリヤの看板が見えてきた。どうやら開いているらしい。
「またサイゼリヤだよ。これも運命ってやつ?」
「さすがにその運命は遠慮したいですね」
「まあそうだよね」
私も一晩に二回サイゼリヤに行くのは避けたかった。
「もう少し行ってみようか」
駅はまだ過ぎていないはずだ。当時は二四時間営業の店も多かったし、他にもなにかあるだろうと思った。それに、いざ自転車を降りると思うと、背中に押し当てられた二つの膨らみが名残惜しかった。
最終的に私たちが休憩場所に選んだのはマクドナルドだった。私はドライブスルーの脇に自転車を停め、彼女はくっついた磁石を引き剥がすように私から離れた。
「マクドナルドのピエロですが、本当の名前はドナルドではなくロナルド・マクドナルドらしいですね」
自転車を降りた彼女は、オレンジ色の明かりに照らされた駐車場の脇で、そんなどうでもいいことを言いながら左右に腰を捻った。
「マクはアイルランド語で誰々の息子という意味で、日本語で言えばドナルドの息子ロナルドということになります」
「よく知ってるね、そんなこと」
「現代日本で若者たちと話すうえでは必須の知識ですから、そういう話はインプットされているんです」
それは絶対に違う気がする……。
しかし彼女が思ったより元気そうで、私は少し安心とした。横浜町田から離れてしばらくのテンションはなんだったのだろうか。
――もちろん、ホテルに行けなかったからなのだろう。大人になった私はそう言うことができる。彼女がどのような種類の欲望を抱いていたのかは断言できないものの、何らかの期待があり、小さな勇気があり、裏切りがあり、失望があった。
けれどそのときの私にとっては、言葉少なになった彼女の方が不思議で、饒舌な彼女の方を彼女らしく感じた。
「とにかく入ろうか」
私は自転車に鍵をかけ、ドライブスルーではない正面の入り口に向かった。
「そうですね」
彼女の口調からは、なんの感情も読み取れなかった。
私はビッグマックセットを、彼女はフィレオフィッシュセットを注文し、国道の見える席に陣取った。夜食にしてはしっかりしたものを頼んでしまったが、自転車を漕いでいたせいか空腹感はあった。
時計は午前三時少し前だったと思う。都心ならまだしも、郊外の店舗だ。さすがにその時間の店内は空いていて、客は他に一組しかいなかった。キャミソールの女とアロハシャツの男は、どちらも金髪でクロックスを履いていた。夫婦なのか恋人同士なのか、なぜこんな時間にマクドナルドにいるのかもわからない。席が離れているせいで声も聞こえない。なんにしても私たちには関係のない話だった。
「揚げたてではないようですね」
ポテトを摘まんだ彼女は、そう言ってそれを口に運んだ。
「……だね」
時間の経ったポテトは、自身の湿気によってふにゃふにゃになっていた。
「でも、その方がかえって美味しかったりしない?」
「私はあまり食べたことがないので……」
そして会話は途切れた。
四六七からドライブスルーに車が入っていく。この時間は店内よりドライブスルーが売り上げの中心なのだろう。彼女は私の視線を追って車を眺め、またポテトを口に運んだ。
何を話そうかと考えながら私もポテトを食べていると、彼女が不意に尋ねた。
「……相模湾まであとどれくらいでしょうか?」
「一時間半ぐらいかな」
あまり確信はなかった。しかし、ここで三〇分ほど休んだら、それぐらいで行かないと夜が明けてしまう。
「まあ三分の二……四分の三ぐらいは来たんじゃない?」
旅の終わりが近づいてきていた。これが最後の休憩かもしれない。そして、私たちが江ノ島にたどり着いたとき、いったい何が起きるのだろうか? 彼女は本当のことを話してくれるだろうか? 連絡先は交換できるだろうか?
難しいかもしれない。そんな気がした。
当時の私も薄々気づいていた。自分が横浜町田で選択肢を間違えたことに。
あのときホテルに向かっていれば、今頃ベッドの上で抱き合って、彼女は自分のことを話していたかもしれない。上手くやる自信はなかったが、いつかはやるべきことだし、絶好の機会でもあった。それになにより、そうしていればこんなことにはならなかった。
しかし今、以前よりも彼女を遠く感じる。真実は遠ざかっている。
「……探査船はどの辺にあるの?」
もっと核心に迫る質問をしたかったが、話の流れもあった。私は改めて探査船の場所を尋ねた。
「相模湾です。今はそれ以上言えません」
「本当に宇宙に行っちゃうの?」
私は軽く切り込んでみた。
「そうですね。以前にも言ったとおり、地球上に私の居場所はありません。家族もなく、戸籍もなく、友人すらいません」
「オレがいるじゃん」
「…………」
彼女は黙り込んだ。私の言葉が響いたのか、それはわからなかった。
「オレも一緒に行けないかな?」
なぜあのとき、私はそんなことを言ったのだろうか。けれどなぜか、そのときの私は彼女を引き止めるのではなく、そんな提案をした。
その方が彼女の心に響くと思ったのか。あるいは心のどこかで、地球を捨てて彼女と見知らぬ世界に飛び出したいと思っていたのか……。
「そういうわけにはいきません。現地人のアブダクションは絶対的な禁止事項です……」
彼女は困った様子だった。設定を演じているのではなく、本当に葛藤しているようだった。
「でも、宇宙に行ってなにするの? 友達もいないし、他に地球人もいないんでしょ? 寂しくない?」
「……ですが、探査船のAIと話すことはできます。今回得られたデータを元に、AIは地球人として振る舞うことも可能です。複数の仮想人格を使い分けることも可能です」
「仮想人格……」
それは本当に人格と言えるのだろうか。私にはわからなかった。
「でも、銀河政府にとってはある意味、レポートを出し終わったらもう用済みなんじゃないの? ずっと養ってくれるわけ?」
「それは大丈夫です。任務を終えれば銀河政府から市民権が与えられます。この辺境の惑星で過ごすより、安全で快適な生活が約束されています」
「…………」
「宇宙規模で見れば、有機生命体の一生など一瞬です。その間私を養うことなど、コストと呼べるほどのものでもありません」
「でも、退屈じゃない?」
「いえ……。地球を離れたらまず木星の衛星に偽装された探査ステーションに向かいます。そこから星間船に乗り換えてまずはこいぬ座方面に向かいます」
「こいぬ座?」
「ここだけの話、こいぬ座アルファ星プロキオンには大規模な拠点があるんですよ。有機生命体もいます。ルテイン星も近いですし、ルテインbの原始生物も見てみたいです。見るものはたくさんあります」
途方もない話だった。
もちろん途方もない話なのは最初からだ。しかし私はこれまで、銀河政府に関して深く掘り下げるのを避けてきた。もともとそれに関しては彼女の創作だと思っていたし、下手に突っ込んで彼女がボロを出しても面白くないと考えたからだ。
けれど案外、彼女は聞いてほしかったのかもしれない。
最初に話したときは出任せだったとしても、その後の夜や市ケ谷で私を待っている間に設定を考えていたのかもしれない。あるいはもともとSF小説でも書いていて、自分の中に設定があったのかもしれない。
「でも、光速は超えられないんだよね? プロキオンまで何年かかるの?」
「地球の時間にして一五年程度ですね」
「一五年……」
そのときの私には、一五年先に自分が何をしているかなんて、まるで予想もできなかった。
「それまでは……AIの仮想人格と話して過ごすってわけか」
「話すと言っても仮想空間でなんでもできますから。データのあるあらゆる銀河系の星で遊んだり、男性とデートすることもできます。地球にも来れます。もちろん本当に来るわけではないので、あなたが私に会うことはできませんが」
「でも、一五年も経ったら三〇代だろ……。普通だったら結婚とかも……」
果たして自分にそのようなときが来るのだろうか。二〇歳前の、高校を卒業して一年も経っていなかった私がイメージできなかったことは責められないだろう。
「光速に近づけば時の流れは遅くなりますから、私はそんなに歳は取りません。ただ女性の場合、母体が出産に耐える必要がありますから、繁殖可能な時期が短いのは確かです。しかしそうした相手を望むのであれば、星間船の設備で男性を造ればいいんですよ。アダムの肋骨からイブを造ったように。なにしろ私自身が地球人のゲノムデータから生成されたものなのですから」
「…………」
「なんならデータを元にあなた自身を再現することもできるんですよ、こっちは。ただ、人の一生は短く、宇宙は広大です。私が実際に足を運ぶことができる星系は、プロキオンとあと二つぐらいが限度でしょうね」
彼女はいったい何を話しているのだろうか。確信に満ちた口振りは、ともすると全てが真実だと錯覚しそうになる。しかしそんなことはないはずだ。
例えば、彼女が本当に探査船内で造られた存在なら、そんなに慌てて地球のレポートをまとめる必要などない。五億年も待ったのだから、レポートの作成に一〇年ぐらいかけたって誤差の範囲だ。彼女一人でやる必要もない。何体も人工生命体を造ればいい。
「まあプロキオンに着いた後どうするかは、そのときに考えようと思ってます。宇宙規模で見ても、ほとんどの有機生命体は生まれた星系から出ることなく一生を終えます。あなたたちもそうでしょう? 誰もが地球を出ることなく死んでいく。それを不満に思う者すらほとんどいません。プロキオンの銀河政府拠点は活動規模でいえば地球の数百倍です。知的生物の数では及びませんが、娯楽も知的交流も……」
「それよりさ」
私は彼女の話を遮った。
「そろそろ本当の話をしない?」
さっきは一緒に宇宙に行きたいと言っておきながら身勝手なものだが、私は話についていけなくなってきた。彼女の考えた設定、それも彼女の内面やこれまでの人生に基づいて生み出された個性ではあるのかもしれない。しかし私が知りたいのは違った。
彼女がどこで生まれ、どんな幼少期や青春時代を過ごしたのか。
どんな悩みや問題を抱えているのか。
どんな夢や憧れを持っているのか。
そうしたことを直接的な言葉で聞きたかった。
彼女のことを、知りたかった。
「…………」
彼女は俯いて黙り込み、次に私を見て、再び目を伏せると、トレーに広げられたポテトに手を伸ばした。
「だって仕方ないじゃないですか」
なにかを探すようにして選んだ一本のポテトを持ち上げ、彼女は言った。なにが仕方ないとは言わなかった。少し声が震えていたように思う。
時間をかけて選んだポテトを、彼女は口に運ぶことなくトレーに戻した。そして冷静な口調で言った。
「すみません。尿意を催しました」
そして彼女は不意に立ち上がると、手洗いに向かってしまった。
私は呆然としてその後ろ姿を見送るしかなかった。
思えばこれがこの夜二つ目のミスだったのだろう。確かにどこかで本当の話をする必要はあった。けれど、タイミングも切り出し方も、なにもかも間違っていた。
とはいえ、だったらどうすれば良かったのかと問われても、私は答えることができない。そもそも最初に選択肢を間違えた時点で、ハッピーエンドへのフラグは絶たれていた気がする。その意味で今度のはミスとも言えないのかもしれないが、もう少し何らかのやり方があったのではないか?
もちろんそのときの私がそこまで考えていたわけではない。ただ、急に切り込みすぎたのはまずかったと思った。そしてやはり、あの交差点で左に折れるべきだったのではないかという疑念が膨らみ始めていた。
そうしていれば、先ほどまで背中に押し当てられていた乳房が、今は手の中にあったかもしれない。プロキオンやルテイン星のことではなく、私が本当に聞きたかった話が聞けていたかもしれない。
一方で、本当にそんなことがあり得たのかという疑問もあった。
知り合って間もない女の子がそんなことを求めてくるだろうか?
それともそれは彼女が抱えている複雑な事情からの逃避だったのだろうか?
あるいはやはり言葉通り疲れていて、寄りかかりたかっただけなのか?
今から関係を改善することはできないか?
私はハンバーガーにもポテトにも手をつけず、それらを見つめたまま考え続けていた。
手洗いから戻ってきた彼女は言った。
「やはり人類はダメですね。失敗作です」
「え? 急になに……」
「ずっと迷ってたんですよ。レポートの結論をどうするか。人類をどうすべきなのか」
私は彼女の顔を見つめた。化粧を直してきたのだろうか? ほのかな赤みが差した頬。つややかな唇。不意に彼女が欲しくてたまらなくなった。あのときハンドルを左に切れば、全てが手に入ったかもしれないのに。私はなぜ肝心なときに臆してしまったのだろうか……。
「どうするの?」
私は尋ねた。
「決めました。人類は滅ぶべきです。哺乳類からの進化では、銀河政府の求める基準に到達することはないでしょう。私はそれをレポートの結論にしたいと思います」
彼女は私の向かいの席に座り、まっすぐに私を見つめた。
「……そうするとどうなるの?」
「私のレポートは光の速さでゆっくりと銀河に拡散されます。地球人類が滅ぶべき生命体だと知った各拠点は、様々なかたちで地球に干渉するでしょう」
「侵略されるとか?」
「侵略ぅ? まったく地球人の考えることは野蛮ですね。そんな原始的なことはしませんよ。資源は無人の星系にいくらでもあるのですから」
「それなら干渉って……」
「淘汰圧を高めるんです。私の見立てどおり人類の知性が不充分であれば、人類は自然淘汰されて滅亡するでしょう。あるいは恐竜が鳥になったように別のものに進化して生き延びるかもしれませんが、それは何万年も先のことでしょうね」
話しながら彼女はフィレオフィッシュの包み紙を開けた。
「あなたも食べた方がいいですよ。夜明けまでの時間は限られています」
「あ、うん……」
促され、私がのろのろとビッグマックを手に取る間にも、彼女は包み紙を半分開いたフィレオフィッシュにかぶりついている。私も仕方なくビッグマックを食べ始めた。
それにしても、人類滅亡とは……。
いったいなぜこんなことになってしまったのだろう?
ビッグマックを食べながら、私は考える。
もしかしたら、私の二つのミスに対する意趣返しだったりするのだろうか?
私は彼女の勇気をスルーし、さらにはこれまでの関係の前提であった設定を捨てようとした。彼女がなにかやり返したくなったとしても仕方ない。とはいえ、私がそれを信じてない以上、私にダメージを与えることにはならない。
別の考え方をするなら、彼女は設定を守り抜くために有無を言わせず畳み掛けてきたのかもしれない。そしてそれは、私がなにを言おうと真実を明かすつもりはないという表明だったのかもしれない。
もっとも魅力的な推論は、彼女が私を試しているという可能性だった。
人類が滅ぶべきではないと、地球の人間社会が生きるに値すると認めさせることができれば、彼女は私を認め、心を開いてくれるかもしれない。しかしそれはあまりに希望的な観測だ。
そこまで考えて不意に思い当たる。
――人類が滅ぶべきというのは、人間社会は生きるに値しないということだ。
それは最悪の結論だった。
生きるべきか、死ぬべきか。どこかの古典作品のフレーズではないが、彼女はずっと考えていたその問いに答えを出してしまったのではないか……?
「そんなに……結論を急がない方がいいんじゃない?」
私は口の中のハンバーガーを飲み込むと、なんとかそう言った。紙コップからプラスチックストローで爽健美茶を一口飲み、私は続けた。
「人類にだっていいところはあるし……」
「……例えば?」
彼女は残り少なくなったフィレオフィッシュをトレーに置くと、口の中のものを飲み込み、私を見つめた。
「人類が失敗作でないとすれば、なぜ戦争はなくならないのですか? なぜ差別はなくならないのですか? なぜ共産主義の理想を実現できなかったのですか?」
「それは……。でも、利他的な行動を取ることもあるでしょ。他人の心を思いやって……」
話のスケールが大きすぎて、咄嗟に言えたのはその程度だった。
「そうしたこともある、程度でしょう」
「でもオレはキミのために何かしたいから。それじゃダメかな?」
「…………」
「オレになにかできることはない?」
彼女は俯いて黙り込んだ。トレーに広げられたポテトはすでに残り少なくなっていた。
「もう少し人類を観察するわけにはいかない? 一年とか、一〇年とか」
彼女はまだ黙っていた。
もう一押し、なにか言うべき言葉があったかもしれない。けれどそれ以上はなにも思いつかなかった。口を開いたのは、彼女の方が先だった。
「そういうわけには、いきません……」
彼女は顔を上げた。
「それより、あまりゆっくりしている時間はありません。夜明けに間に合わなくなります」
やはり、どうあっても設定を変える気はないらしい。私はため息をつき、再びハンバーガーに齧りついた。
それからしばらく、私たちは黙ったまま食事を続けたはずだ。金髪のカップルはいつの間にかいなくなっていて、店内には私たちだけだった。
食べ終わると、私は彼女に断ってトイレに行った。あまり尿意はなかったが、サイゼリヤを出てから一度も行っていなかったし、この先で休憩するかもわからない。
用を済ませ手を洗い、鏡を見た。
童貞の顔だ、と私は思った。なんの人生経験もない、子供の顔だ。とはいえ、高校を出たばかりで実際なんの人生経験もないのだから仕方ない。自分の成長のために女を抱くのが正しいとも思えなかったし、一度や二度そんな経験をしたからといってすぐに大人の顔になるわけでもないだろう。
私は水で顔を洗い、ペーパータオルで拭いた。これまで気づいていなかったが、自転車を漕ぎ続けてかなり汗をかいたせいか、ペーパータオルが皮脂で滑る感覚があった。
それにしても、私はこれからどうするべきなのだろうか?
横浜町田での判断が間違いだったことは、もはや確信に変わりつつあった。しかし今さらそれを言っても仕方ない。先ほどの彼女の反応を見る限り、今から戻っても手遅れだろう。機を逸したのだ。
そして彼女の真実を聞き出すというミッションにも私は失敗した。彼女は態度を硬化させ、取り付く島もない。
そのうえ彼女が命を絶とうとしている可能性も、再び浮上してきた。はたして考え過ぎだろうか? そもそもなぜ彼女は、人類は滅ぶべきだと言い出したのだろうか?
もはやなに一つわからなかった。私は自分の思考力が急速に失われていくのを感じた。とはいえ、ここでこれ以上彼女と揉めるのは避けたいし、万が一にも彼女が死ぬようなことがあってはならない。
となれば、私に選択肢はなかった。
このまま江ノ島を目指すしかない。
その道中で彼女がなにかを思い直してくれるといいのだが、それでどうなるのかも、そのためにどうするべきなのかもわからない。
そうしている間にも、夜明けは徐々に迫っていた。いつまでも鏡の中のガキの顔を見ていても仕方ない。とにかく、行くしかない。
私は決意を固め、トイレを出た。
席に戻ると、彼女はノートに何かを書いていた。初めて話したときと同じ、あのノートだろう。
「お待たせ」
私は何事もなかったように明るく声をかけた。本当に明るく聞こえたかはわからないが、彼女は一瞬顔を上げ、それから慌てた様子でノートに少し続きを書き、パタンとそれを閉じた。
「なにを書いてたの?」
私は何気ない振りで椅子に座りながら尋ねた。
「レポートの続きです」
彼女は言いながらそれを黒いリュックにしまった。
一瞬、力ずくでノートを奪い、書かれていることを確かめたい衝動に駆られた。もちろん、できるはずがなかった。
「それでは行きましょう。もうあまり時間がありません」
彼女は立ち上がると、店の出口に向かって歩き出した。
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