横浜青葉~横浜町田
本線はやがて高架になり、私たちのいる側道は地上を進んだ。交差点を越えると、本線のさらに上に大きく弧を描く道が見えた。
「横浜青葉インターだよ」
「川です!」
地上の道も低い橋になっていて、私たちは小さな流れを越えた。
「何川でしょうか?」
「うーん、どうだろう?」
道はグーグルマップで確認しておいたとはいえ、そこまでは調べていない。
本線のさらに上の高い高架から延びる巨大な金属の脚の隣を過ぎ、道は本線の真下に入り込んだ。遙か遠くにまた別の高架も見える。上りと下り、それぞれに入る道と出る道、少なくとも四本のルートがあるはずだ。
「壮観ですね」
「下から見るとすごいね」
高速道路の上から見る景色とは全く違う。橋を渡ったあとは建物もなく、周囲は鬱蒼とした木々ばかりで、巨大な人工物の異様さを際立たせた。それを壮観と評する彼女のセンスを好ましく思った。
真上の道が枝分かれし、夜の空が見えた。続いて私たちの進む道も二股に分かれた。案内は見当たらなかったが、方向的には直進で良いはずだ。
信号を越え、逆方向から枝分かれしてきた高架をくぐる。左側のフェンスの向こうをトラックが走っているのが見えた。そちらの道も大きくカーブしているらしく、トラックは遠ざかっていった。
道は上り坂になり、下ってきた右側の高架の湾曲したガードが近づいてきた。それから私たちの進む道が別の道を越える橋となり、橋を渡ると左側に高い擁壁が現れる。入れ替わりに右側のガードは途切れ、細いポールが並んだ向こうに本線が見えた。本線と合流しても上りは続き、私は再び汗まみれになった。
しばらく進むと周囲はまたマンションばかりになった。それに時折、大きなスーパーや郊外型の家電量販店、中古車屋などが交じる。都内に比べると高いビルはなかったが、どこまでも街が続いていた。
「都市圏としてはさ、東京って世界最大級らしいね」
「都市圏ですか?」
「うん。東京から横浜あたりって、街が途切れずにずっと繋がってるじゃん? アメリカで言えばニューヨークとシカゴとワシントンが繋がってるみたいなもんでしょ」
雑な譬えだが、彼女には伝わったようだ。
「確かにそうですね。広大な土地の中に街が点在するアメリカとは大きく異なります。インドや中国の都市部もそうですが、なぜアジア圏は人口密度が高いのでしょう?」
「なんでだろう? まあアメリカは、アフリカで生まれた人類が最後にたどり着いた場所だし、なんとなくわかるけど。でもヨーロッパはアジアより先なのにね」
「それだけ人類が住むのに適した気候だったのでしょうか?」
「かもね」
もしかしたらこういったことも研究している人がいて、どこかでは答えが示されているのかもしれない。しかし地理の授業で習った覚えはなかった。この頃は理系科目ばかり勉強していたから忘れたのかもしれないけれど。
「あとは、キリスト教の影響とか? 禁欲的だし」
「なるほど……。でもそもそも、繁殖行為に否定的な宗教が隆盛を誇るというのは不思議ですよね」
話している間に、左手にはちょっとした森のような茂みのようなものが見えたが、それも街の終わりではなく、すぐに巨大なドン・キホーテが現れる。
「キリスト教も繁殖自体を否定しているわけじゃないんじゃない? 繁殖を目的としない行為を禁止しているわけであって」
「それは知っていますが、おかしな話ですよ。繁殖というのは本来本能に基づくもので、それを切り分けるのが変というか、順序が逆なんです。それに、本能に逆らう戒律は不快なはずなのですが、なぜ不快なことを強いるものが多くの人に受け入れられたのでしょうね?」
「うーん、どうだろう……」
理屈をつけようと思えば、なんとでも言える気はした。避妊の技術がない時代に、社会の秩序を維持するのに必要だったとか。自ら考えることを放棄して戒律に身を委ねる方が楽だとか。
しかしそのとき私の頭に浮かんだのは、彼女はミッション系の学校出身なのではないか、ということだった。そのせいで逆にキリスト教に否定的になったのかもしれないし、それであれば四谷の女子校の前で話していたことも筋が通る。
とはいえ、それも憶測に過ぎない。結局最後まで事実はわからなかったのだから。
「なんだか少しふわふわします」
私の返答を待たず、彼女は話題を変えた。
「ビールのせいでしょうか?」
「あれしか飲んでないのに?」
私の方はと言えば、体感的には完全に素面だった。彼女の方が多めに飲んでいた気もするが、所詮は缶の半分の半分程度だ。だとすると、彼女は特に酒に弱い体質なのだろうか?
「慣れていませんから」
彼女は言い訳するように言った。
「まあそうだよね」
責めるつもりもなかったので、私は同意した。とはいえ、酒の強さは体質的なものなので、慣れの問題でもない気がした。
もしかしたら彼女は、これから彼女がしようとしていることへのエクスキューズとして伏線を張っていたのかもしれない。
それからしばらく、彼女はなんとなく上の空だった。話しかければ答えるが、以前の彼女のような聞き上手ではなくなっていて、会話は盛り上がらなかった。いつしか私も話すのをやめ、黙ったまま自転車を漕いでいた。
自転車は再び橋を越えた。橋の下には川を挟んで畑が広がっていた。マンションの明かりがないと薄暗く、なんの畑だかはわからない。ようやく街を抜けたかとも思ったが、畑は道の周りだけなのか、遠くに住宅街と街灯の明かりが見える。
しばらく進むと右側にマンションが見えてきて、さらに少しすると左側も街に戻った。それでもマンションだけでなく戸建てがかなり交じっているのが都心とは違う。駅が近いのか、ちらほらとスーパーやレストランなども見えたが、さすがにこの時間に開いている店はなかった。
歩道橋をくぐると道は上り坂になり、左手に擁壁が現れた。その上の茂みから、蔓性の植物が垂れ下がっている。右手に似たような建て売り住宅の群を見ながら坂を上りきると、遠くに団地が見え、左側は鬱蒼とした茂みになった。その後は下りだった。
彼女は何を考えていたのだろうか。
そして、私は何を考えていたのだろうか。
当時から横浜町田ICの周辺にラブホテルが多いことは知っていた。事前にグーグルマップを見たときに大体の位置も把握していた。あくまで、万一のためだ。彼女を連れ込もうという気はなかった。彼女がそのことを知っていたのかは、永遠にわからない。
私はたぶん、もっと長いスパンで彼女と仲良くなりたかったのだろう。
彼女の口から普通の地球人であることを聞き出し、連絡先を教えてもらう。
ショートメールかなにかで連絡を取りながら、受験が終わったら直接会って、デートを重ねる。
どこか海の見える場所で、浪人時代に初めて二人で出かけた思い出話でもしつつ、初めてのキスをする。
そしてそれは実現可能なことに思えた。少なくとも、彼女が宇宙に行ってしまうなどという話よりは、よほど現実的だと考えていた。
不意に左側の森が途切れ、コンビニが見えた。そして広い駐車場があり、フィールドアスレチックの看板があった。この森はアスレチックだったのだ。
「アスレチックだって」
私は言った。子供の頃どこかのアスレチックに行ったことはあるが、大学生ぐらいが行っても楽しめるものなのだろうか?
「珍しいですね」
彼女はそれだけ言って、黙った。
アスレチックの駐車場を越えると、今度は明かりの灯るガソリンスタンドを通り過ぎた。
辺りは静かだった。
時折私たちを追い越していく車の音も、そのときは聞こえなかった。
「……少し、疲れました」
不意に彼女はつぶやいた。
それは果たして誘いだったのだろうか?
時刻は深夜で、自転車は横浜町田インターに近づいており、彼女の言葉は女性が男性を誘う定番の台詞だった。
けれどそのときの私には確信が持てなかった。今だって確信しているわけではないけれど、今の自分ならもっと違う反応もできた。
なんにせよ彼女がそんなことに慣れているようには見えなかったし、言葉どおり疲れているだけなのかもしれない。そのときはそう思った。
「どこかに寄る?」
私はひとまずそう尋ねた。そこまでは大きなミスはなかったはずだ。その後がいけなかった。
「またファミレスとか、ラーメンとかでも……」
もしかしたら私は、彼女が否定することを期待していたのかもしれない。しかしそれを彼女に求めるのも酷な話だ。
「そうですね……」
彼女は曖昧に頷いた。
やはり彼女は疲れているだけなのだ。先走るのは良くない。
そのときの私は、そう思った。
今であれば……いや、今よりあと一〇歳若くても、もう少しマシな立ち回りができたはずだ。彼女が何を考えていたとしても、傷つけることも自分が恥をかくこともなく真意を窺うような、そういう大人のコミュニケーションができたはずだ。
そんなに難しいことでもない。冗談めかしてホテルに行くか聞くだけでも良かったのだ。明確な答えがなくても、明確な拒絶がなければ先に進めた。拒絶されたら冗談ということにして流せば済むことだった。さすがにそれだけで壊れるような関係ではなかったはずだ。
けれど私はそのとき一九歳で、しがない浪人生で、童貞だった。そんな高度な会話をできるわけがなかった。
「もう少し行けばなにかあるよ、きっと」
そんな愚にもつかないことを言って、無為に自転車を進めることしかできなかった。
道は森を抜けて、バイクショップと大きなリサイクルショップの間を抜けて、側道と本線の分岐点に差しかかった。本線を進むと横浜町田に行くことはできない。そのとき私が側道を選んだのは、どこかでその可能性を棄てきれなかったからなのだろう。
青信号の小さな交差点を抜けると、東京都という表示があった。神奈川に食い込んだ東京、町田市だ。横浜町田ICは文字通り横浜と町田の境目にある。
交差点を示す青い案内標識の向こうに、二四六の高架のさらに上を越える国道一六号が見えた。その交差点を左折すればICだった。
信号は赤で、歩道を挟んで自動車販売店の展示車が並ぶ前の停止線に、私は自転車を止めた。交差点の先では歩道の脇に木が繁っていて、その向こうにはまたマンションがあるようだった。
左手に目をやるが、マンションや車屋のビル、そして一六号の高架しか見えない。インターチェンジもラブホテルも見えない。
信号が青になったら、このまま直進すべきなのだろうか?
それとも、彼女はただ疲れていたのではなく、なにか期待しているのだろうか?
そんなことがあるはずないと思いつつ、ハンドルを握る手に汗が滲んだ。心拍数が上がっているのが自分でもわかった。
きっと信号はすぐに変わる。それまでに判断を下さなくてはならない。
不意に背中に彼女の肩が触れ、次の瞬間には首の辺りに髪が触れた。彼女は何も言わなかった。私は何も言えなかった。
信号はまだ変わらなかった。彼女は一瞬私から離れると、両手を私の腹の前に回した。手のひらで私に触れることはなく、右手で左の手首を、左手で右の手首を掴んだ。背中に二つの膨らみが、次いで頬が押し当てられた。
突然のことに、私は激しく混乱した。
彼女はやはり誘っているのだろうか? だとしたらなぜ? 高鳴っているのは彼女の心臓なのだろうか? 自分の心臓なのだろうか?
戸惑っている間に信号は青になった。
私は反射的にペダルを踏み込んだ。
交差点を渡った先で左折して歩道に入ることもできたはずだ。けれど私はそうしなかった。ただ前に進んだだけだった。
もしあのときハンドルを左に切っていたら、もっと別の未来が待っていたのだろうか。彼女の真実を知ることも、彼女と結ばれることもあり得たのだろうか。
しかし私は直進した。
それだけが確定した事実だった。
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