二子玉川~馬絹
橋を渡りきった交差点に、右折方向が二四六だという案内標識が出ていた。表示に従い右折すると、そこは多摩川の堤の上を走る道路だった。
私たちのいる左車線のみが一車線で、独立した歩道はなく、道の端が申し訳程度に白線で区切られている。大人が一人歩くのもやっとの幅で、その隅は車や人が落ちないようコンクリートの低い壁があり、脇に薄く溜まった土から生い茂る夏草が歩道をさらに狭くしていた。その向こうは三メートルほど低くなっていて、二階建ての家や三階建てのアパートが並んでいる。
やはり東京とは違うなと思いながら対岸に目をやるが、薄暗い河川敷と二四六らしい高架を流れていく車のライトしか見えない。ハンドルに気をつけながら首を捻ると、どうにか斜め後ろに二子玉川のビル群が見えた。
「それで、戸田公園に引っ越してどうなったんですか?」
「え? そうだなぁ……」
彼女は私の過去に話を戻した。私は再び話し始めた。
車の通りは少なく、声を張り上げなくても会話はできた。歩道と車道を隔てる白線の上辺りを進む自転車を、時折自動車が追い越していく。
しばらく進むと右車線が一車線になり、入れ替わるように左車線が二車線になった。左折は厚木方面という案内も出ていた。
「二四六に戻れそうですね」
「うん」
予定通りのルートに戻れそうで、私は少しホッとした。高架と斜めに交わる交差点を左折すると、すぐに高架は低くなってきて、私たちは二四六の本線と合流した。
「少し飛ばすよ」
「はい、お願いします」
広い通りに出た開放感で、私はペダルを漕ぐ足に力を込め、スピードを上げた。
道は片側二車線で空いていて、真っ直ぐで見通しも効いた。もう車を気にする必要もなかった。私たちは左車線を悠々と走った。時折右車線から車が追い抜いていく。
大きな駐車場のあるカー洋品店、バイクショップ、反対側にはガソリンスタンド、トイザらスにベビーザらス、インテリアショップ。いかにも郊外の幹線道路沿いといった景色の中に、時折マンションや古い町工場、新しい戸建てが交じる。
「楽しいですね。こうやって景色を見るの」
「うん。普通の景色だけど……」
本当に何の変哲もない郊外の景色だけれど、初めての道を夜走るのは、それだけでワクワクした。しかも、後ろには素敵な女の子が乗っている。確かなことはわからないけれど、彼女もきっと同じ気持ちだったのではないだろうか?
「……それで、その友達とはそれっきりだったんですか?」
「まあ、そうだね。連絡取ろうとすればできるんだろうけど……」
私はいろいろな話をした。
引っ越す前の親友と、引っ越した後の新しい友人。
家族のこと。
新しい学校で好きになった女の子。
正確にはどこでなんの話をしたかまで憶えていないけれど、その辺りの話は、たぶん多摩川を越えてからだったはずだ。
本線と側道が分かれると、側道を進んだ。もう本線でも大丈夫そうだったけれど、本線は高架になっていて、上るのが大変そうだったからだ。交差点で信号が変わるのを待ち、その先で本線と合流すると、左右を擁壁に挟まれた切り通しになり、その上では紺碧の空に黒い木々が枝を広げていた。
彼女は思ったより聞き上手だった。
「実に興味深い話です」
なんでもないような私の話に、意外なほど食いついてきた。
「地球人はそのような考え方をするのですね」
「うーん、地球人といってもいろいろあると思うけど。年齢、性別、住んでる国、時代によっても考え方は変わっていくし、遺伝的な資質や、その人がどんな人生を送ってきたかでも変わるんじゃない?」
緩いカーブを抜けると切り通しが終わり、視界が開けた。信号の先は再び高架になっていたが、上り坂ではなく、むしろ高架を避ける側道が下りになっている。
本線も道は空いているし、高架の脇には歩道もあり、いざとなったらそっちに待避することもできそうだ。信号は青で、あまり考える時間もなく、私は直進を選んだ。
「……確かに個体差、地域差、時代の差もあるとは思います。とはいえネット上に溢れているデータやエピソードと組み合わせることで、哺乳類から進化した人類という種のある種の特徴を抽出することが可能です。そのためには歴史や物語にはならないあなたのような一般的なサンプルの話が重要なのです」
もっともらしい話ではあった。けれど彼女の設定の大前提が荒唐無稽なのだから、ただの照れ隠しだと考えていいんじゃないだろうか? 彼女が純粋に私に興味を持ってくれていたと思いたかった。
高架は大地から離れていき、低いマンションの屋上に据えられたホテルの看板が見えた。
「ラブホでしょうか?」
恥じらう様子もなく、そんなことを聞いてくる。
「どうだろう?」
アジアンリゾート風を謳うコジャレたホテルのようだが、近郊でリゾート感を求めるのはそういう用途かもしれない。もちろんそれだけが目的ではないのかもしれないが、そうした利用者もいるはずだ。
「ちょっと行ってみたいですね」
そんなことを言われ、ドキリとした。
「あくまでレポートのため、この国の恋人たちの生態を知るためです」
「面白いかもね」
そう言うのが精一杯だった。いったい彼女はなんのためにそのような発言をしたのだろうか? そのときの私にはわからなかった。
会話は途切れ、右車線から追い抜いていく車の音だけがやけに大きく響いた。高架の左右は隙間のないアルミのフェンスで目隠しされていて、地上は見えない。時折、高架より高いマンションのベランダだけが通り過ぎていく。やけに植物が置かれているのは、近すぎる高架との間に意識的な距離を置くためだろうか?
「話を戻しましょう」
車の音が途切れ、彼女は少し小声で言った。
「それで、第一志望の公立に落ちて、第二志望の私立高校に行ったのですね?」
「うん、まあ最初からそっちは厳しいってわかってたし、両親の希望もあったし」
私は再び自分の話を続けた。
やがて高架は終わり、地上の道になった。
そこからしばらくの道は、印象が薄い。車の免許を取ってから何度か二四六を走ったことはあるが、こんな道だったのかと不思議な感じがする。
もちろん昼と夜でも印象は違うし、走る速度によって見える景色は違う。その意味では、自動車で短時間で通り過ぎていく窓越しの景色より、自転車の方が様々なものが見えたはずなのだけれど。
とにかく、周囲はひたすらマンションばかりだった。都内の単身者やカップル向けのマンションとは違う、家族向けのマンションだ。明かりのついている部屋も、消えている部屋もあった。気の遠くなりそうな無数の人々の生活の中を、自転車は駆け抜けていった。
サイゼリヤを出てからかなり時間も経ち、若干の疲労もあったが、相模湾はまだ遠かった。それに、深夜の幹線道路を二人乗りで走る高揚感が勝っていた。信号待ちの間に水分を補給し、ペットボトルが空になると自販機で買い直した。
私の話は高校時代に入り、具体的な進展もない子供じみた三角関係の話を経て、大学に落ちたところまで来た。
二〇〇八年、現在。
私は予備校の夏期講習で知り合った人工生命体を名乗る女の子と、相模湾を目指している。
「家ではいつも何してるんですか?」
「勉強だよ。浪人生だし」
「ずっとじゃないでしょう? ストレス溜まりませんか?」
車が自転車を追い越すたび、エンジン音に負けないように彼女は声を張り上げた。道は線路を越える陸橋となり、低いガードの向こうで線路はトンネルに吸い込まれている。
「まあ、動画観たりとか。ニコニコ動画、知ってる?」
「知ってます! ニーコニコ動画っ♪」
彼女は小声で時報のメロディーを口ずさんだ。一番最初に思ったとおり、彼女がニコニコ動画を知っていて嬉しくなった。
「すごいなニコ動。宇宙規模じゃん」
「初音ミクも知ってますよ」
「やっぱそうなんだ」
「再生ランキング上位の曲は大体チェックしました。日本の若者と会話するときに必要そうでしたから」
急に設定を思い出したように、彼女は弁明する。けれどきっと、彼女は少しオタクなだけの普通の女の子だった。今でこそそうした女の子も珍しくはないが、当時私の周りでは少なかったから、もっと話したくなった。
「好きな曲は?」
「言っても分からないかもしれませんよ」
「分かるかもしれないじゃん」
「それじゃあ……」
彼女が言った曲を私は知らなかった。どうも、彼女は私よりニコニコ動画や初音ミクに詳しいらしい。
「あなたは? 好きな曲」
私が挙げた曲を彼女は知っていた。
「それ、私も好きです。歌詞がいいですよね」
彼女は言った。
「曲もいいよ」
私は言った。
じつのところ、曲の良し悪しというのがなんなのか、私は今でもよくわからない。気持ちの良いコード進行というのはある程度決まっていて、さらに流行という要素もある。最近流行っている新しい音と、忘れていた懐かしい音。そうした組み合わせのバランスが、曲を良いと思わせたり、悪いと思わせたりするのかもしれない。
いずれにせよ、あの頃を思い出すとき必ず耳の奥に響いているのは、初音ミクの歌声だ。
「ボーカロイドは感情がないのがいいですよね。私は造られた存在なので感情が希薄ですから、人間の歌は重すぎて。歌手だけが高ぶっていって、取り残された気がするんです。作り物同士、ボーカロイドと親和性があるのかもしれませんね」
彼女は淡々と語った。
「それ、なんかわかるかも」
自分にも、自分を取り巻く世界にも大きな事件がなく、大きな喜びも悲しみもなかったあの頃。いつだって私たちに寄り添ってくれたのは、感情のない歌だったのだ。
立体交差の下をくぐると左手にはコンクリートの擁壁が続いていた。その擁壁を押し広げるように下っていく側道が現れ、本線を進むと再び高架のようだった。私は迷うことなく高架へと進んだ。自転車を追い越していく車の音に混じって、かすかな鼻歌が聞こえた。アスファルトを走るタイヤの音にかき消され、曲まではわからなかった。
「それも初音ミク?」
「はい。dorikoの『ぶちぬけ!2008!』です」
「あ、知ってる!」
タイトルどおり、二〇〇八年のヒットナンバーだった。曲名に年を入れたのは、流行歌として消費されることへの覚悟だったのか、それとも、この二〇〇八年の空気を何らかのかたちで遺したかったのか。
「ちゃんと歌ってよ」
「いいですよ」
私の要望を、彼女は了承した。鼻歌を歌っていた時点で、私にそう言ってほしかったのかもしれない。そのとき私は彼女と話が合ったことに昂揚していて、彼女もそうだったのではないだろうか?
とにかく、彼女は歌った。少し照れつつも、車の音にかき消されないようにしっかりと。高架の左右は防音用であろうプラスチックの壁に覆われていて、それが歌声に心地よいリヴァーブをかけた。
光る夢を追いかけてく僕の邪魔をする
あれや これやら
まとめて ぶ~ち~ぬ~け~ ぶちぬいてけ
あるがままの自分でいよう
なんか理想と違う毎日を過ごすなら
一度リセット ゼロまで
ぶ~ち~ぬ~け~ ぶちぬいてけ
そこからまた始めればいい
さあ その手を握りしめ
宿る力は ユニバース
自由にフリーダム
ぶーちーぬーけー 2008年
歌が途切れると、デジタルで再現されたオルガンのフレーズを私が合いの手のように口ずさんだ。
彼女は楽しげに歌い続けた。
青い空をどこまでも自由に飛べるはず
雨降り雲は 僕らが ぶちぬけ ぶちぬいてけ
七色の光に 「おはよう」
さあ その手を振り上げて
モエル心は レボリューション
飛び出せ フライング
ぶーちーぬーけー 2008年
それがこの旅のクライマックスで、西暦二〇〇八年のクライマックスで、言うならば私の青春のクライマックスだった。私たちは確かに二〇〇八年をぶちぬいた。
長い間、私は夏が来る度にあの曲を聴いては、彼女のことを思い出していた。女々しいと嗤いたければ嗤うがいい。それは差別だと私は言い返そう。
しかし今となってはその記憶も薄れつつある。今年の夏は今の今までそんなことも忘れていた。青春の記憶は遙か彼方にあった。
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