声のありか

Hoshimi Akari 星廻 蒼灯

声のありか

「ええ。はい。かしこまりました。では見積もりの方が出来ましたらこちらからまたご連絡させていただきます」

 通話を切って携帯を持った手を下ろし、勘弁してくれ……と俺はため息をついた。

 4月の夕暮れ。まだ日は沈みきっていなくて街は明るかったが、これからまた会社に戻ったら帰路につく頃にはもう真っ暗だろう。

 いっそ携帯で会社に連絡して用件だけ伝えようか、とも思ったが、資料はデスクに置いてあるし、それを上司にわざわざ取り出させて電話越しに説明していたらいい顔はされないだろう。話が上手いこと伝わらずにかえって手間取ることにもなりかねない。

 今日は早く帰れると思ったのにな——。

 きびすを返し、会社まで10分の道のりをまた辿ってゆく。

 道中、憂さ晴らしをするような気持ちでもっと別のいい仕事はないか、と考えた。営業の仕事自体にそれほど不満はない。俺には合ってるな、と思う。ただいかんせん、取り扱う業務自体にそれほどの情熱を感じられない。入社したての頃はそんなことは思わなかった。なんだかんだ自分で希望して就活をした業種ではあったし、新社会人だからこその気合いもあって、俺はこの3年間と少し、我ながら実に真面目に働いてきたと思う。

 道の脇にあるペットショップにふと目が留まる。

 たぶん、ずっと昔からある店舗なんだろう。外装は雨風にさらされて色褪せ、窓ガラスは少し曇って見える。まあ、どこの街にでもあるような普通の店舗だった。人が入っているのを見かけたりはするから、経営は問題なくできてるんだろう。

 学生時代、その関係の仕事も一度は考えたことがあった。だけど色々と調べて色々と考えた結果、俺には無理だと思ってやめた。これからもたぶん関わることはない。あの店にも、3年間通勤のたびに見かけてはいるけど、一度も足を踏み入れたりしたことはなかった。考えたってしょうがないことだ。

 あの店と自分の人生について結びつけて考えるたび、俺は自己嫌悪に襲われる。「やりがい」なんてものにすがるために、思い出を利用しているようなそんな感覚がする。縋ったってそこには何もないことが分かっているのに。

 俺は空っぽな人間なのかもしれない。

 楽しい思い出の中にはいつでも誰かとの関わりがあって、だから、そこにいた誰かがいなくなった後にはいつも、空虚な自分が残ってる。いったい自分が何を望んで、何を目指して生きていたのかが分からなくなる。 ——そんなことを考えていると、あいつの顔が思い浮かぶ。

「誰かと一緒に始めると、その相手がいなくなったときにやめたくなるかもしれないだろ」

 一人で楽器を買った理由を問い詰めたときに、あいつはたしかそんなふうに答えた。たしかに今ならその気持ちも理解できるような気がした。あいつは俺とちがって、一人でいる状態を自分のデフォルトだと思っていた。だからあんな考え方をしていたというわけだ。けれど他人と関わっていたからこそ出来たこともたくさんあったのだと、あいつは結局後で気づいて認めていたが。

 俺たちは初めの状態が逆だったから、気づく順番も逆だったんだろう。

 しかし気づいたからといって、何をどう変えたらいいのか今の俺には分からなかった。

 あいつならどうするだろう……と、想像してみた。けど、あいつは自分一人で自分の心を生かすための手段をすでにいくつも持っていた。ついに大学にも行かず、どこでどう生きてくのか俺たちに教えもせずに消えていったあいつから、今さら俺が教わることなんて何もない。連絡をすれば、もしかすると会うこともできるかもしれない。しかし自分から去っていったあいつに、どんな言葉をかければいいのかは分からない。いつだってそうだ。あいつは一人で誰にも言わずに勝手な決意をして人前から去っていく。あいつがこの世界に繫ぎ留められていたのは、学校という居場所があったからだ。それとも今は、自分の力で人と関わって世間を渡り歩いてゆくすべを身につけているんだろうか。

 歩きながら、俺はまた一つため息をついた。

 こうやって他人のことに考えが流れていって、だからいつまでたっても自分の望みというやつが見つけられないのかもしれない。

 会社のビルまで辿りつき、エレベーターのボタンを押して5階へと上がる。オフィスに入って上司に声をかけ、取引先からの電話の内容を伝えて自分のデスクで簡単な事務手続きを済ませた。見積もりが出来しだい連絡を返すと電話口では言っていたけれど、今日伝えようと明日の午前中に伝えようと変わりはない。先方だってもう帰っているだろうと思い、俺は自分用のメモだけ机に残してまた会社のビルを後にした。

 今どきの普通の会社がどうなのかは知らないが、俺の勤めている会社は勤務時間外の社員同士での交流はそう多くない。若い社員が多くて飲み会だとかの文化がはびこっていないのもそうだし、退勤時間や勤務場所がばらけがちなせいもあった。だから学生時代の友だち付き合いのようなものもないし、友人に会うとしたらそれはもっぱら高校や大学時代のやつらと週末にときどき会う程度のものだった。それも、社会人になって2年、3年と経つうちに少しずつ間遠まどおになってきている。趣味でも持った方がいいのかもな……とたびたび思う。思うが、疲れて帰って、少しゲームをしたり動画を見たりするうちに一日はあっという間に終わっていて、何かを始めようなんて気を起こすタイミングも見当たらない。月日が経つごとに、自分がどんどん空虚になっていくような感覚だけがあった。

 陽の完全に沈んだ帰り道を再び歩きながら、自分がそのペットショップの扉を引いて中に入っていたことに、俺はぼんやりと店内を眺めまわしてから初めて気がついた。

 髪の間から、冷たい水滴がいくつも流れ落ちて、服が雨で濡れていることにもようやく気づいた。ガラス戸の外では本降りの雨音も聞こえる。意識して入って来たわけじゃなかった。

 ……そうだ。

 さっき歩いている途中で急に大雨が降ってきて、近くに見えたこの店の扉を開けてつい入ってしまっていたんだ。

 半ば呆然と、俺はカバンを持つ手を腰まで持ち上げて考えた。

 そうだ。こういうことは昔にもよくあった。ドッグフードを買いに行く途中で雨に降られて、避難するように店へと駆け込んだことは。ペットショップがすぐ近くにあって、雨が降ってきたから、ついあの頃と同じ要領で入ってしまったんだろう。

 後ろを振り返ってガラス扉の外を見てみたが、勢いのつき始めた雨はすぐには止みそうになかった。

 折り畳みの傘は——カバンの底に入れてあるはずだ。傘をさせば、外に出てすぐ帰ることはできる。

 二重のガラス戸の内側で、店内をぼんやり見つめたまま、俺はじっと黙って考えた。内側の自動ドアが開いた時に来店を告げる鐘の音が鳴ったけれど、店の人は奥で何か作業でもしているのか、姿は見えない。心臓の鼓動が聞こえる。雨垂あまだれだけじゃない、冷たい自分の汗が額の上を伝っているような感覚がした。

 だが——。

 こんな無意識の偶然でもなかったら、俺がペットショップに足を踏み入れることなんて二度とないかもしれない。

 〝雨は宣託だな〟

 そんなことを、いつだったか俺自身が口にして言ったことがあったのを思い出した。

 べつに、今この状況についてそんな風には思わない。この店に入ったからといって、それで俺に何かが起こるわけじゃない。もちろん動物を買うつもりなんて毛頭なかった。

 それでも気がつくと、俺はそれほど広くはない店の中に進んで、以前よく買っていたドッグフードと同じものが置いてある棚はないか……と探してしまっていた。

 ドッグフードはすぐに見つかった。ちょうど肩の位置の高さに置かれていたそれを、俺はぼーっと眺めてしまった。実家の近所のスーパーではどこにも売ってなくて、だけどあいつが一番気に入っていたから、いつも自転車で少し遠くまで出かけて買ってきていたドッグフードだった。



 なんで買って帰ってしまったのか、吊り革につかまって電車に揺られながら、そして一人暮らしをしているアパートへの道のりを歩きながら俺はぼんやりと考えていた。

 誰も食べるやつはいない。友達で犬を飼ってるやつはいなかっただろうかと思い巡らせたが、心当たりはなかった。開封しなければ長く保ちはするだろうから、処分の心配をする必要はないのかもしれない。それでも、全く無駄な買い物をしたことに変わりない。なんだって俺は、こんなものを買ったりしたんだ。

 ——あの棚の前に立ったとき、俺はその場に座り込んで休んでしまいたくなった。

 まだ実家にいた頃、あいつが生きていた間、俺はよくそうしていた。疲れて家に帰ったらあいつが近くに来てくれて、俺はソファに腰かけて、あいつが横で寝そべっている。そんな思い出が頭によぎって、なんとなく、このドッグフードを買えばあのときの情景が再現されるんじゃないか——なんて気分になってしまったんだ。そんなわけはないのに。

 安いアパートの2階に上がり、鍵をさして部屋の扉を開ける。

 部屋の電気はついていないから、壁にあるスイッチを押して自分で明かりをつける。もちろん中には誰もいないし、誰も近付いてはこない。「ただいま」と言う習慣も忘れて久しい。

 実家と違って、廊下の電灯の光はどこか少しだけ寒々しかった。

 それでも左手に持ったドッグフードを入れた袋の重みが昔を思い出させたのか、俺は、あいつが駆け寄ってくる姿と、その足音の透明な幻を見たような気がした。それは記憶が見せた幻にすぎなかったが、俺は久しぶりに、心の重しがふっとやわらぐような感覚を覚えて、口元をゆるめた。

「ただいまー」

 誰の姿もない細い廊下でそう言って、靴を脱ぎ、リビングに向かう。

 いっそ幽霊でもいいから姿を現してくれればいいのになあと思いながら、鞄とドッグフードの入った袋をテーブルの上に置いた。背広を脱ぎ、ソファに腰かけたが、あいつの姿はやはりどこにも見当たらなかった。

 ワンッ

 と、そう吠える声が聞こえて、俺は自分の耳を疑い、びくっと跳ね上がるように周囲を見回した。それから近所の家が犬を飼っていることを思い出し、レースのカーテンがかかった狭いリビングの窓の外のほうを見た。

 少しして立ち上がり、レースとガラスの扉を横に開いて夜の住宅街を見下ろしてみるが、通りの向かいにある一軒家の庭に、その犬がいるかどうかは見分けられなかった。

おどかすなよなぁ……」

 独り言をつぶやいてリビングを見返すも、ドッグフードの入った袋が倒れてるとか、そんな怪現象は起きていない。そんな想像をしていまっている自分を笑いながら、俺はガラス扉とカーテンをしめた。


 ワン


 …………。今度はよりはっきり、部屋の中から聞こえた。

「まじか」

 ソファの近くに、歩み寄る。このソファは実家にあったものじゃない。引っ越しして一年くらい経った頃に、似たような色形をしたソファを自分で買ったものだ。

「おーい……」

 呼びかけてから、俺はあいつの名前を呼んでみた。けれどしんと静まり返った室内に、もうあいつの吠える声は聞こえなかった。

 それはその日一晩待っても同じことだった。

 変わったことがあったとすれば、ドッグフードを袋から出して、皿にいつもの量をうつしてみたときに、あいつの匂いがかすかに鼻先をかすめたような気がしたことくらいだった。けれど匂いがするなんてあたりまえだ。これは、あいつが一番気に入っていたドッグフードだったんだから。


     *


 翌日、金曜日の会社に出社し、一日を終えて帰宅すると、俺は開封してしまったこのドッグフードをどうしたもんか、と考えた。

 皿に盛りつけたまま朝家を出たけれど、もちろんそれが減っていたりなんてする様子はない。そして、試しにもう一度名前を呼んでみても、あいつが返事や反応を寄越してくれることはなかった。

 土曜、日曜と一人で考えたすえに、俺は、あいつが俺の、昔の思い出に浸って何もできずにいる姿を見たいわけはないよな、という、なんだかぼんやりとした結論に至った。ぼんやりしているが、それは確かなことだとも思った。

 いつだってそうだった。あいつは俺のそばにいて、俺が未来を見つめる勇気を持てるよう、助けてくれていた。そして俺はあいつが歳をとって弱っていったとき、これからは俺が代わりに、おまえの見にいけなかった世界を見せてやる、と、そう約束したんだということを思い出した。

 ——俺はそれを、ただの一方的な宣言でしかなかったんじゃないか、とずっと疑っていた。

 なにせあいつは言葉をしゃべれなくて、俺はあいつの様子を見てみ取ることでしか、会話はできなかったのだから。


「……だけど、もっかい信じてみてもいいのかな」


 あいつからの返事はない。

 昼の日差しが床を照らすアパートの一室で、けれどその言葉への返事は、俺が自分の胸に問いかければきっと分かることなんだろう、と思った。

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