エピローグ〈1〉

 朝だ。

 遮光カーテンの隙間から漏れた光が差し込んでいる。

自転車が走り去って行く音や近所の主婦達の挨拶を交わす声、通学する小中学生達の声も聞こえてくる。間違いなく朝だ。朝の音だ。しかも晴天。


「あぁー、イヤだイヤだ……」

「杏ッ! いい加減に起きなきゃ遅刻するわよ!」


 部屋のドアの向こうから、異世界レベルの空手使いである母さんの声が腹に響く。


「今、起きるよ……」


 俺はゆっくりとベッドから体を起こす。

 で、いつものように隣にはリイネが寝ている。


「ホント、コイツの夜中に俺のベッドに忍び込むクセはいつ治るんだ……」


 いつものように俺は、朝っぱらから頭を抱える。

 まあ、とりあえずこのよーちえんじを起こすか……


「リイネ起きろ。学校行く時間だぞ」


 そう俺に肩を叩かれると、リイネは、うっすらと目を開ける。そして、いつものように小さな子供みたいな伸びをして、両の手の平で目を擦り、寝癖で逆立った髪など気にすることも無く満面の笑顔を俺に見せた。


「アンちゃん、オハヨーなの」

「ああ。早く制服に着替えてこい」

「ハーイ!」


 手を上げて元気な返事をするリイネ。

 で、いつものようにリイネは、前開きのパジャマを上から脱ごうとし、俺もいつものように上からそれを押さえつけて阻止する。


「だからここで脱ぐな。自分の部屋に行って着替えろ」

「ハーイ!」


 また手を上げて元気な返事をして、リイネは隣の自分の部屋へと向かった。


「そろそろよーちえんくらいは、卒業してほしいんだけどなぁ……」


 俺は溜め息と共に、そんな言葉を呟く。

 でも、相変わらずの朝、相変わらずのリイネの様子に安心しているのも確かだった。

 ようやく日常が戻ってきた感じだ。


 あの天族との一戦から、すでに一週間が経とうとしていた。


 アドリーが消えた後、俺達は悲しむ間もなく町の復旧に追われた。町も人の記憶もそのままになんてしてしまったら、国を巻き込んでのパニックになるのは目に見えていた。事態が何処に向かうか分かった物じゃない。

 まず、戦いやモンスターが暴れた事によって滅茶苦茶になってしまった町だが、これは時間逆行リバースによって元に戻された。アドリーが居なくなってどうしようかと思ったが、シルヴィが買って出てくれたのだった。

 シルヴィは町全体に時間逆行リバースをかけ、壊れた建物や、人がモンスター化した際に破れた服、そして記憶まで、すべての時間を巻き戻した。

 実はシルヴィ、意外にも本来は回復魔法や時間魔法といった補助系魔法の方が得意らしく、今でこそ『魔剣使いの王』だが、天族が侵攻してくる以前、まだお姫様だった頃は才色兼備の姫君として諸国から引く手あまただったらしい。

 まあ、確かに美人かと問われれば、シルヴィはかなりの美人に入る部類だと思うし、高身長も相まってモデルのようでもある。その中身は、まあ、言わずもがなだが……

 そして、今回の騒動により死傷者が出なかったのは奇跡に近いが、それでも似たような被害はあった。天族の原罪喰いによる被害者達だ。それは一番の問題でもあった。しかし、それに対してはミースがすぐに「心配、ない」と言ってきたのだった。


「原罪、を天族に喰われた人間は、放っておけば魂まで麻痺、してしまい取り返しがつかなくなる、けど、喰われて間もない今、ならまだ間に合う」


 そう言ってミースが召喚した魔蟲は、欲誘蟲という蜂のような姿をした魔蟲だった。

 ミースはその欲誘蟲を大量に召喚して町中に放す。と、放された欲誘蟲達は、次々と原罪喰いの被害者達を刺していった。


「欲誘蟲は刺した人間、に抑制の出来ない欲望、を植え付けて狂わせる魔蟲、だけど、原罪の無い状態の人間になら、その毒は薬、になる」


 ミースの言う通り、欲誘蟲に刺された被害者達は次々と意識を取り戻していった。

 こうして町は元に戻ったのだが、ただ、モンスターが現れる前まで記憶を時間逆行リバースされた人々は何が起こったのかも分からず、その場に立ち尽くすばかり。

 明朝、それは集団昏倒事件として警察と消防が動く事となり、この園北市中の人達が病院で検査を受ける事となった。もちろん何があるわけでも無かったが、事態が落ち着くまで学校の方も休みとなった。

 ちなみに、シルヴィが破壊してしまったデビルズサーガの制作会社のオフィスだが、元に戻してしまったら、またゲートが開いてしまう為、申し訳ないとは思ったが、それだけはそのままにさせてもらった。

 翌日には、この園北市の集団昏倒事件とは別の事件として大きく取り上げられていた。

 ……まあ、あの会社は資産数千億円っていう日本屈指のゲーム会社だし、被害は大きいだろうが倒産とまではいかないだろう。

 たぶん……

 そんな一抹の不安は残ったが、とりあえず俺達は元の生活を取り戻す事が出来たのだった。


「ああもう! リイネ! 髪くらい洗面所で整えてこいよ! 制服のリボン、また縦になってるし!」

「りっちゃん、今日はまた一段と派手な寝癖ねえ。やだこれ、なかなか直らないわ」

「えへへへへ」

「えへへじゃねーよリイネ。母さん、早くして」

「分かってるから、ちょっと待ちなさい」

「二人とも、そろそろ出ないと学校遅れるぞー」

「父さん、そんなテレビ見ながら他人事みたいに言わないでよ!」

「はい、できあがり。りっちゃん、杏、行ってらっしゃい」

「ハーイ! お母さん、お父さん、行ってきますなの!」

「じゃあ、行ってきます。リイネ行くぞ」

「ハーイ!」

「二人とも気をつけてなー」


 こんな慌ただしい朝もまた元通り。

 ちなみに、父さんと母さんも、あの晩の事は一切覚えてはいない。

 また「空手の息吹が」とか言われて、シルヴィの時間逆行リバースを跳ね返しでもしていたらどうしようかと思ったが、さすがの母さんもそこだけは一般人と同じだったようで少しホッとした。

 そうして、俺とリイネは家を出て、学校へと向かう。

 いつもと変わらない、以前と同じ高校生活が――――


 ――――いや、一つだけ違うところが。それもかなり大きく。


「ダーリーーーーーン!」

「あっ、アドリーちゃんなの!」


 そう、コイツ……

 腰まで伸びた赤髪を揺らし、ルビーのように赤い瞳をキラキラと輝かせてこっちに走ってくるコイツ。しかも、事もあろうにうちの高校の制服を着てやがる。


「おはようダーリン。アタシも今日からJKよ」


 自称魔法少女、もとい、この魔王少女。あれだけお涙頂戴の別れをしておきながら、次の日にはあっさり復活しやがったのだ。

 再会した場所は、俺のベッドの上。復活したその日にコイツは、俺の寝込みを襲いに来た。

 つまり、夜這いをかけに来たのだ。


    ◆


「ダーリン……ダーリン……」


 耳元で囁くようなそんな声に、俺は夜中に目を覚ました。


「まいったな……アドリーの夢で夜中に目を覚ますなんて……もう頭切り替えなきゃいけないのに……」

「夢じゃないわよ、ダーリン」


 ふと横を振り返ると、アドリーが俺の横に寝ていた。


「アドリー! オマエなんで……!」

「復活したの。だから、早速ダーリンの童貞はじめてをもらいにきたのよ」

「いや、オマエ、ちょっ…!」


 抵抗する間もなく、俺はアドリーに上服ジャージを脱がされると、両手を押さえつけられ、両足は関節技のごとく絡め取られて身動きを取れなくさせられた。


「オマエ、ちょっ、やめろって…!」

「ダーリン、アタシね、ダーリンに抱きしめられた時、本当にドキドキしたの。あんなドキドキしたのなんて、初めてだった……」


 常夜灯だけが灯る薄暗い部屋の中、赤らめた顔で俺を見詰めるアドリーは、なんだか可愛く見えて……


「だから、今度はアタシがダーリンをドキドキさせる番……」

「ア……アドリー……」

「に・く・た・い・で❤」


 前言撤回。この痴女魔王……!


「んふふふ~、それじゃあダーリンの童貞はじめて、いただきまーすッ!」


 俺の両手足を固めたまま体を重ねてくるアドリー。コイツすでに素っ裸だし……


「ちょっ、ホント、やめ……」

「動かないで。すぐに気持ち良くしてあげるから……」


 アドリーの吐息が耳に……力が……抜ける……うあっ、首筋にキスされた……アドリーの唇とか、胸とか、柔らかいな……

 ――とか言ってる場合かッ!

 女子に手込めにされるとか、ありえねーだろ!

 と、その時だった。


「アンちゃん、一緒に寝るの……」


 いつもの如く俺のベッドに潜り込みに来たリイネが、眠そうな目をこすりながら自分の枕を抱えて部屋に入ってきた。と――


「アドリーちゃんなの!」


 途端、リイネは満面の笑みでアドリーに抱きついた。


「げっ、リイネ! まさかアンタまでダーリンに夜這いを!」

「んなわけねーだろ! とにかくオマエは出てけ!」

「そ、そうね。邪魔も入った事だし――と、その前に……」


 そうアドリーは立ち上がり……素っ裸のままのアドリーから俺は目を逸らし……魔法陣らしき黄色の光が仄かに光る。


「彼方より此方へ、我が手に――転位ムーヴ


 と、アドリーの素っ裸は一瞬であのリイネが作った赤いドレスに包まれた。

 アドリーは嬉しそうに回ってスカートをなびかせ、笑顔を俺に向けた。


「ありがとう、ダーリン。ちゃんと洗濯もされてるし、この服、大事にしまってくれていたんだね」

「そりゃあ……まあ……」

「毎晩のオカズにしてくれても良かったのに」

「そんな趣味はない!」

「まあいいわ。とりあえず今日のところはその童貞はじめて、まだ預けておくわね。でも、すぐにもらいに来るから覚悟してなさい、ダーリン」


 それを捨てゼリフに、アドリーは窓から飛翔魔法で去って行った。


「アドリーちゃん、行っちゃったの」

「ってか、二度と来んな」

「ところでアンちゃん、よばいってなに、なの?」

「リイネは知らなくていい……」

「でもアドリーちゃん、おかしいの。お洋服はオカズじゃないの。食べられないの」


 それはもっと知らなくていい……

 そして、俺は大きな溜め息を吐き、吸い込むと――


「ってかリイネ、オマエも出てけぇ!」

「ピャアッ! ごめんなさいなの!」


 リイネは変な声を上げて自分の部屋に戻り、俺はまた大きな溜め息を吐いた。

 明くる日、俺はすぐにミースに電話を入れて事情を説明し、アドリーをどうにかできないか相談した。が――


「そんなの、は知らない。自分、でどうにかすればいい……」 

「アドリーが来るとリイネの安眠まで妨害されるんだ」

「わかった、すぐにやる」


 リイネの名前を出した途端これだった……

 ミースがリイネに懐いたのは意外だった。それはもう異常なまでの懐き方で、ミースは西城と小倉に動画を流した事を半ベソかきながらリイネに謝っていた程だ。

 あの子供みたいな三白眼の瞳に涙を溜めるミースは、さらに子供みたいで、そんなミースよりさらに子供みたいなリイネは、何で謝られているのか分からないって顔ながらも一生懸命ミースの頭を撫でて慰めていた。

 それは、何だか小さい子供同士のやり取りみたいで、何も知らなければ、まあ微笑ましい光景ではあるが、リイネは十五歳、ミースに至ってはどうせ見た目通りの年齢ではないだろうし、それを考えるとなんだか奇妙な光景ではあった。

 それと、もう一つ意外だったのは――


「アドリーが復活したの、驚かないんだな?」

「そんなのはいつもの、こと。もう飽きた……」

「飽きたって……」

「アドリー、は狡猾で生き汚い。天族、は嫌いだけど、ペイルのあの言葉だけはわたし、も賛同する……」

「へ、へえー……」


 いかんともしがたい……

 そうして早速のようにミースがうちに張ってくれた結界は、アドリーに対してだけ反応する攻撃結界だった。アドリーが家の敷地に入ると、魔蟲が一斉攻撃を仕掛けてくるというものだ。

 さすがのアドリーも、これには泡を食ったようで、


「ちっきしょう、ミーの奴ね! こんな奴らアタシの炎で――ヤダ、これちょっと、空間蟲じゃない! いやーッ! 服の中入ってきた! もうッ、覚えてなさいよ!」


 と、退散していった。

 まあ何だか知らないが、エライ目に遭ったみたいだ……

 しかし、その次の日の事だ。リイネからありえない事実が告げられた。


「アンちゃん! 今アドリーちゃんからリイネの携帯に電話があったの! アドリーちゃん、リイネ達と同じ高校に通うって言ってたの!」


 この上も無いくらいの満面の笑みでそんな事を俺に告げるリイネ。

 俺は、十五年の人生で一番大きい溜め息を吐いた……

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