第三章 悪意の渦中〈4〉

 空がオレンジ色に染まり始めている。いつもより全然早い帰宅。いつもだったらリイネの部活が終わってからだから、その頃には夜のとばりが落ち始めて、帰り道にリイネが、


「おなかペコペコなの~」


なんて言葉を漏らすのだけど、今日だけは違った。

 学校を出て、商店街を抜け、近所の住宅街に入るまで、俺とリイネは口を開かなかった。

 俺は、ただ悔しくて、悔しくて……


「なあ、リイネ……」


 黙って俺の後ろを付いてくるリイネに、俺は振り向かず口を開く。


「明日、退部届出すつもりか……?」

「うん……部長さんも、みんなも怒らせちゃったの。全部リイネの責任なの……」


 そうなんだ。リイネはいつも自分のせいなんだ。いつもいつもいつも。なんてお人好しだって呆れるけど、今はもう、そんなリイネの態度に俺はただイラつきしか覚えなかった。


「リイネは悔しくないのかよ! こんな事になってさ!」


 俺は振り返ってそう声を上げた。

 でも、リイネはうつむき、困った笑顔を浮かべたまま。

 そんなリイネの態度に、俺は更にイラついた。


「なんでそんな顔していられんだよ!」

「………………」

「ツラくても悲しくても悔しくても、いつもそんな風に笑顔を浮かべて、全部自分の責任にして、リイネがそんなんじゃ俺だって守り切れないよッ!」


 俺は、再びリイネに背を向ける。


「もう、ウンザリだ……」


 それを捨て台詞のように、俺はリイネを置いて走り出した。背中にリイネが俺を呼び止める声を聞いた気がしたが、俺は構わず走り続けた。そのまま家に駆け込み、自室に駆け込み、そのままベッドに突っ伏した。


「杏! どうしたの! りっちゃんは!」


 俺の様子に気付いた母さんが、ドア越しからそんな声を掛けてきたが、俺はベッドに突っ伏したまま何も答えなかった。

 と、母さんは何か察したように黙って去って行った。

 それから俺を襲ってきたのは、どうしようもないくらいの自己嫌悪だった。


「俺は、なんて最悪なんだ……」


 血が出そうになるくらい、俺は拳を握った……



 俺とリイネが出会ったのは、五歳の頃だった。その頃の俺は心臓の持病の為、引き受けてくれる幼稚園も見つからず一人で遊んでばかりいた。そんな時、近所に住むリイネが俺に声を掛けてくれたのだ。突然のようにリイネは俺の所に駆けてきて、俺をかけっこに誘った。だが、俺が心臓の事を話すと、


「それだったら走らない遊びをすればいいの」


 と、サッカーボールの蹴り合いや、キャッチボールなど、あまり動かないで済む遊びを選んでくれた。俺は、初めて出来た友達に、ただただ嬉しかった。

 その内に親同士も付き合い始め、リイネの家とは家族ぐるみで付き合うようになっていった。リイネの家族は本当に幸せそうだった事を幼心ながら今も覚えている。

 幸せなんて一瞬で壊れる物だという事も……

 リイネの両親は幼なじみだったらしく、両親は同窓会に出席する為、リイネを連れて里帰りした。そして、リイネを父方の実家に預けて車で同窓会へと向かう途中、居眠り運転のトラックと正面衝突。両親は帰らぬ人となり、リイネはまるで降って湧いたかのような不幸に見舞われた。

 だが、リイネの本当の不幸はここからだった。

 親戚一同、祖父母ですらリイネを引き取る事を拒んだのだ。それは、リイネの様子にあった。


「リイネちゃん、両親が死んだのになんで笑ってるの……」

「突然の事に気が触れたんじゃ……」

「なんか気味悪い……」


 リイネの親戚達は通夜の席で口々にそう噂をして、最終的には誰が引き取るのかと言い合い、なすり合い、声を荒げ始めた。その様子は余りに醜く、子供だった俺ですら耳を塞ぎたくなるくらいだった。そんな時に立ち上がったのが母さんだった。

 母さんはリイネの親戚達の席へ行くと、よほど頭にきていたと見えて、目の前の長机を正拳突きで叩き折ると、全員を睨み付けながら言い放った。


「貴方達、それでも人間ですか? 貴方達がそういう態度なら、りっちゃんはうちで引き取ります。文句はありませんね?」


 リイネの親戚達は驚きながらも誰も異論を唱えなかった。いや、誰もが厄介払いが出来たと胸をなで下ろしていたのだろう。

 そして母さんはリイネを呼んで、


「お葬式が終わったら、りっちゃんはおばさんちで暮らす事になるけど、いい?」


 と、聞いた。リイネは何も言わず、笑顔のままコクリと頷いたのだった。

 それでも母さんがリイネを養子にせず、里親という形を取ったのは、


「才賀って名前はりっちゃんが両親から受け継いだ名前なんだから、それを奪うような事はしたくないのよ」


 そう話していた。

 リイネの両親の葬式が終わり、ようやく落ち着いた頃だ。俺は母さんとリイネが二人きりでリイネの部屋で話しているのを耳にした。


「りっちゃんは、どうしていつもそう笑顔なの? もっと、泣いたり、すねたり、怒ったりしてみてもいいのよ。遠慮なんてする必要は……」

「パパとママに言われたの。リイネは笑顔が一番カワイイねって。だからいつも笑顔でいてねって。笑顔でいる子は幸せになれるからって。だからリイネはいつでも笑っていようって決めたの。おそうしきの時も、泣かないって決めていたの。さびしくても、笑っていればパパとママがそばに居てくれる気がするの」

「りっちゃん……」


 母さんは、リイネの代わりのように涙ぐみながら、強くリイネを抱きしめていた。

 自分のことで泣くことは決してないリイネ。両親の死という耐えがたい痛みにすら涙を見せなかったリイネ。

 だが、そんなリイネの泣き顔を、俺はたった一度だけ見たことがある。

 原因は俺だった。

 俺が十歳の時にデビルズサーガをプレイしている最中に心臓病の発作で倒れた時だ。俺のそばで寝入っていたリイネは、目覚めると同時に俺の異変に気付き、すぐに母さんを呼んでくれた。病院のベッドで目が覚めた時、最初に飛び込んで来たのは、父さんと母さんの涙。そして、くしゃくしゃのリイネの泣き顔だった。


「怖かったの! リイネ怖かったの! ママとパパと、アンちゃんまでいなくなっちゃうかもと思ったら怖かったの!」


 どうしようもないくらいのひどい罪悪感が俺を襲った。

 それ以来、リイネも俺がゲームに近付いただけで酷く怯えるようになり、俺はゲームを捨てた。

 据え置き型からスマホゲーム、ガラケーすらゲームが出来てしまうからと遠ざけ、学校のリクリエーションすらもゲームと名が付けばその全てを拒絶した。

 当然、段々と友達とも話が合わなくなってきたし、変人扱いもされ、俺の周りからはリイネ以外の人間はいつの間にか居なくなった。気付けば俺は、必要以上の会話を学校の人間としなくなっていた。

 しかし、そんな事はどうだってよかった。

 リイネは二度と泣かせない!

 リイネに悲しい思いは絶対にさせない!

 何があってもリイネは必ず守る! 

 今も残る罪悪感に俺はそう誓った。そう誓ったのに……



「何やってんだ俺は……」


 と、その時、不意にドアがノックされた。でも、ドアが開けられる事はなく、そのままドア越しに声が聞こえた。リイネだった。


「あの……あのね、アンちゃん……ごめんなさいなの……」


 そんな言葉が聞こえた後、足音は離れてゆく。俺は、また拳を握った。


「何なんだよ。本当に何やってんだよ、俺はッ……! なにリイネに謝らせてんだ! 悪いのは俺じゃないか!」


 立ち上がり、すぐに部屋を出て、隣のリイネの部屋のドアをノックする。


「リイネ、入るぞ……」


 恐る恐るドアを開ける。と、目に飛び込んで来たのは――


「リイ……ネ……」


 真っ暗な部屋。開け放たれた窓。リイネを抱え窓の縁に立つ、黒い鎧兜の巨大な影……


「なッ……なんだオマエ!」


 顔まで覆った兜のせいで、人かどうかすら疑わしい。またデビルズサーガのモンスターか?


「才賀璃衣音は預かり受ける。返して欲しくば二丁目の工事現場まで来るがいい」


 巨大な黒い鎧兜はそれだけ言うと、夜に染まり始めた闇の中に消えてゆく。


「クソッ、アドリー! アドリーッ!」


 ――ダメだ。アイツ、肝心な時に出てこないで……!


 その時だ。俺はリイネの表情に気付いた。


「リイネ……?」


 消えてゆく瞬間、リイネは笑っていた。こんな時にまで――

 いや、違う。いつもの笑顔じゃない。なんだよ、あの寂しそうな笑顔。まるで、さよならを言うような笑顔。自分が居なくなればとか思ってんのか……


「ちっきしょうぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」


 俺はリイネの部屋を、家を飛び出す。


「二丁目の工事現場と言ったら多分、今マンションを建設しているあの場所だ……!」


 母さんのママチャリにまたがり、俺は無我夢中でペダルを回し続けた。

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