短篇『水沼桐子と密室未満』

眼鏡Q一郎

水沼桐子と密室未満

『水沼桐子と密室未満』


 がろろろろろ。

 赤と黒のツートンカラーのシトロエン2CVが三十階はあるだろう高級マンションの前で停まる。小柄なおかっぱ頭の女性が運転席からおりると、空まで届く建物を見上げてほおとため息をつく。前髪を右に流してスリーピンで留めた黒縁眼鏡の彼女は、パンツスーツにナイロンの黒いリュックサックを背負った姿でマンションに入っていく。背筋を伸ばして歩く姿は一見すると就職活動中の学生にしか見えないが、エントランスの先の守衛室で警察手帳を掲げた彼女に、初老の守衛は物珍しそうに眼鏡を押し上げる。

「首都警の方?」

「はい。あ、名刺渡しておきますね」

 彼女は自分の氏名と肩書の印刷された名刺を手渡したあと、初老の守衛の案内でエレベーターに乗り込む。ぐんとエレベーターが持ち上がる感覚が襲い、扉の上の文字盤とその上に並ぶ小さなランプが点滅するのが見える。22、23、24、ちんと音がしてエレベーターが震えて止まり、ゆっくりと扉が開く。彼女はエレベーターをおりるときょろきょろと左右を見回し、目的の部屋を見つけて歩き出す。2405室、本日の殺人現場がそこだ。

 廊下を歩いていき、扉の前で立ち止まる。ドアノブの下には三つの鍵穴が並んでいる。チャイムを鳴らすと足音が近付いてきて、扉ががちゃりと開く。中から顔をのぞかせたのは制服に身を包んだ中年女性で、彼女を見るなり怪訝そうに眉間にしわを寄せる。

「どちら様ですか?」

 彼女は警察手帳を取り出すとにっこり笑ってみせる。「首都警の方ですか?」あからさまに不審そうな表情を制服警官は浮かべる。まさか首都警からの助っ人がこんな子供のお使いみたいな刑事なんて。念のため彼女の背後をたしかめてみるが、どうやら彼女以外に訪ねてきた人物はいないらしい。「一人でこちらに?」「はい」「車で?」「はい」「免許の取れる年齢なの?」「仮免で一回落ちましたけど。あ、でも運転が下手というわけじゃありませんよ。練習したんでもうばっちりです」「あなた、本当に首都警の刑事さん?」「はい。あ、名刺渡しておきますね」

 首都警察捜査一課警部、水沼桐子。

 この子が首都警の警部、冗談でしょう? 世も末だと言わんばかりに首を振ると、女性警官は部屋の中に向かって、首都警の刑事が来られましたと声をかける。

 扉を閉じると用意されていたスリッパを履いて白手袋をはめる。サイズが合わないのかぱたぱたとスリッパの音を響かせながら彼女は玄関から伸びる広い廊下を歩いていく。突き当りの扉を開くと、その先の応接間らしき空間に分署の刑事の姿がある。

「32分署の本堂です」

刑事が挨拶すると、どうもご丁寧にと彼女は深々と頭を下げる。

「首都警の水沼です。本日はよろしくお願いいたします」

 彼女はそう言うと、リュックサックをイスの上におろし、早速現場を見回す。まるでカタログから切り抜いてきたようなデザイン家具が並んでいる。机の上にはテレビやエアコンのリモコンと携帯電話が、几帳面に並んで置かれている。正面には大きな窓があり、花柄の分厚いカーテンがかかっている。窓に向かって左手には大きな引き戸が開け放たれており、その先の部屋にも制服警官の姿が見える。

「現場は隣の寝室です。こちらにどうぞ」

 本堂の案内で寝室に入ると、壁には誰が何を描いたのかさっぱりわからない絵画が飾られ、キングサイズのベッドが置かれている。ベッドからは枕もシーツもすでに撤去され、残されているマットレスには大きな血痕が広がっている。どうやらここが事件現場らしい。

「ご足労感謝します」

「いえ、分署の事件の捜査協力もわたし達の大事な仕事ですから。早速ですが、捜査資料を拝見出来ますか?」

 本堂から分厚いファイルを手渡され、彼女はそれをぱらぱらとめくる。それに呼応するように本堂が事件の概要を説明する。

「被害者は尾上恵子、二十一歳。市内の私立大学経済学部の三回生です。この部屋に一人暮らしをしていました」大学生? こんな高級マンションに一人で住んでいたのかと彼女は改めて部屋を見回す。いいとこのお嬢様らしい。「大事な試験を無断で欠席し、携帯にも応答がないと心配した友人がマンションの管理人に連絡、管理人は保証人である母親の同意を得て合鍵で部屋に入り、この部屋で死亡している被害者を発見しました。二日前のことです。死因は頭部打撲による急性硬膜下出血および吐物誤嚥による窒息。部屋の空調がつけっぱなしだったため死亡推定時刻には幅がありますが、友人による最終生存確認から考えて、発見時には死後二日程度経過していたと考えられます」つまり殺害は四日前か。「凶器は現時点では断定出来ていませんが、頭部には細かいガラスの破片が付着していました」ガラスの破片。「被害者の実家はS県で、父親は貿易会社を経営し、一年の半分近くは海外で過ごしているようです。実家はかなり裕福でご覧の通りの生活ですが、部屋には荒らされた形跡はなく財布やアクセサリーの類も手つかずで残されていました。物盗りの線は薄いと考えられます」

 なるほど、と一度うなずくと彼女は本堂にたずねる。「交際関係は?」

「友人に話を聞きましたが、特定の交際相手はいなかったようです。大学やバイト先でも特にトラブルはありません。成績は優秀、サークル活動でも中心人物でした」

つまり、誰からも好かれるクラスの人気者、といったところだろう。彼女は何度かうなずいたあと、それで、と本堂の方を向く。「分署で十分対処出来そうに思えますが、首都警に捜査協力依頼を出した理由は何ですか?」

「実は問題が一つ発生しました」そう言うと本堂は言いにくそうに頭を掻く。「実は、被害者が発見された時、この部屋のすべての窓、玄関の扉には鍵がかかっており、そして玄関の鍵はこのベッドサイドテーブルの上に置かれていたんです」

 それってまさか。彼女は思わず本堂を見る。

「ええ、現場は密室でした」

 密室、殺人、事件。

 彼女は両目を見開いたまま喉の奥でその言葉を反芻する。まったく。ちょっと事件現場に顔を出してアドバイスを出すだけのつもりだったのに。ちらりと腕時計を見る。どうやら今日は間に合いそうにもない。仕方ない。今日はあきらめよう。

 彼女はそれからきゅっきゅっと二回唇を鳴らすと、本堂にたずねる。

「ベッドサイドテーブルにあったとかいう鍵を見ることは出来ますか?」

 ええ、と本堂が証拠品の入った箱を持ってくる。箱をベッドの上に下ろすと、彼女は捜査資料を置いて、マットレスに腰掛け箱の中を物色する。それから証拠品袋に入った鍵を手に取り、ふうん、と興味深そうに袋から鍵を取り出す。銀色に円形のくぼみが複数刻まれたディンプルキー。自分の家の鍵とよく似ている。

 それから彼女は鍵を手にしたまま、ゆっくりと部屋の中を歩き回る。

 鍵、鍵、玄関の鍵。玄関扉にあった三つの鍵穴。玄関以外で出入り出来そうなのは、隣の応接室の奥にあった大きな窓、あとこの部屋にも窓はある。台所に見えた換気扇、トイレやバスルームにも換気のための窓はあるだろう。

「ちなみに、第一発見者はどうやってこの部屋に入ったんです? 玄関の鍵がこじ開けられた様子はありませんでしたが」

「ですから管理人の合鍵で、」

「でも合鍵があるなら普通は密室とは誰も思いませんよね。何か特別な理由があるんですか?」

「流石ですね。実はこの部屋の鍵は、特殊な刻印がされた最新型のディンプルキーでして、登録が義務付けられており、複製を作った際にもすべて記録が残るそうです」

 へえ、と彼女は思う。自分の家の鍵と何がそんなに違うのだろうと、両手に二つの鍵を一つずつ持って見比べてみる。二本の鍵を見ながら彼女は本堂にたずねる。「それで、合鍵はいくつあるんです?」

 本堂が手帳をめくりながら答える。「この部屋の鍵は全部で三本存在しています。本人と家族に一本ずつ、そして最後の一本はマンションの管理会社が保管しています。遺体発見時に使用した鍵は、管理会社の金庫の中から取り出されたもので、事件より以前に金庫の中から鍵が持ち出された記録はありません。なお、死亡推定時刻から、被害者が発見時に殺害されたということもありません」

 つまり、第一発見者殺害犯説は却下、と。

「部屋に残されていた鍵からは、被害者本人の指紋しか検出されませんでした。本人が所持していた鍵と考えて間違いないでしょう。管理人が使用した鍵はすでに管理会社の金庫に戻されており、最後の一本も被害者の母親が実家で保管しており、電話で所在は確認済みです」

 つまり、玄関から犯人が出入りすることは不可能ということか。ふむふむと彼女はうなずく。「ちなみに玄関以外に侵入経路はありますか?」

「現場の窓はすべて施錠されていましたし、換気口を含め、人が出入り出来る隙間はありません」

 それにここは二十四階、そう簡単に外から侵入することは出来ないだろう。ああでも、「第一発見者が窓を閉めた可能性は?」一応確認しておこう。

本堂は分厚いファイルを取り出してきてぱらぱらとページをめくると彼女に手渡す。「マンションの利用規約では、緊急事態に際して管理会社保管の合鍵を使用する場合、必ず入室には複数の人間が立ち会うことになっています。今回の事件でも、第一発見者の管理人は、管理会社職員、警備員との三人で部屋に入っています。もちろん空いていた窓を閉めていませんし、ベッドサイドテーブルに鍵も置いていません。三人が互いにそれを証言しています」

なるほど、これでようやく納得した。「たしかに、ここは密室に見えますね」

それから彼女は唇を尖らせると後ろ手に手を組んだまま、しばらく考え込む。それから、ふと顔を上げると、そうだ、と本堂を見る。「ちなみに、部屋の残っていた鍵が本物であることってたしかめました?」

 虚を突かれたのか、えっと本堂は思わず彼女を見る。当たり前過ぎてそう言えば自分ではたしかめていない。ただ鑑識の話では、鍵には被害者の指紋しかなかったはずだ。

「一応、たしかめてもらえます?」

 そう言うと、彼女は本堂に鍵を手渡す。本堂から鍵を受け取った制服警官は足早に玄関に向かう。しばらくしてどたどたと足音を響かせて、必死の形相で警官が戻ってくる。

「大変です。鍵が合いません。これは、この部屋の鍵じゃありません」

 そんなことがあり得るのか。本堂がまさか、と声を上げると、彼女は、あ、ごめんなさい、ともう一本の鍵を手にする。「すいません。そっちはわたしの鍵でした。証拠品はこちらです」

「ちょっと、刑事さん、」思わず本堂が声を荒げて彼女を諫めるように見るが、彼女は平然とした顔で制服警官にもう一本の鍵を手渡す。「こっちでやってみて下さい」

 再び警官が鍵を手に玄関に向かうと、本堂は彼女に詰め寄る。胸板の厚いがっちりとした本堂は、自分の肩ほどもない小柄なおかっぱ頭の少女を見下ろす。「キーケースからわざわざ鍵を外して、偶然間違えたとは思えません。悪意はないと思いますが、もしからかっているのだとするといささか不謹慎です。ここは殺人事件の現場ですよ」

 本堂の言葉はもっともだが、彼女は真剣な表情で彼に言い返す。

「もちろんです。こちらは大真面目ですし、意味があるんです」

 本堂はそれ以上は何も言わず、腕組みをして黙り込む。ほどなくして警官が戻ってきてたしかにこの部屋の鍵です、と本堂に鍵を渡す。本堂は鍵を証拠品袋にしまうと、彼女には返さず、証拠品の箱の中にしまってしまう。

「とにかく、これでわかったと思います。ここは密室でした」

「はい。よくわかりました。ただ、ここが密室であることには同意出来ません」

 彼女の言葉にその場にいた全員がきょとんとして顔を見合わせる。

「あの、どういう意味ですか?」

 彼女はそれから、右手の人差し指を立てると、とんとんと自分の唇をノックする。しばらく考え込んだあと、彼女は本堂に向かって言う。

「そもそも犯人は何故、この部屋を殺人現場に選んだのでしょうか?」

 本堂は、ええっと聞き返す。何故この場所を犯行現場に選んだのか。それは考えもしなかった。

「被害者は大学生、授業にサークルにイベント、いくらでも屋外で殺害するタイミングはあるはずです。何故、被害者の部屋で殺したのでしょうか」

「邪魔が入らないように、ですか?」

「玄関の鍵は三重ロックに最新のディンプルキー、あの鍵を開けるにはプロの窃盗団でも時間がかかります。マンションのエントランスには警備員も常駐しています。かなり防犯意識が高いマンションです。犯行現場に選ぶにはリスクが高過ぎるとは思いませんか?」

「意図的に犯行現場に選んだんじゃない、ということですか?」

「計画的な犯行ではない、そう考えるのが自然です」

「いや、しかし、」本堂は首を振る。「犯人はここを密室にしています。だとしたら計画的の犯行のはずでは」

「その前提が間違っているんです」

「間違えるも何も、事実、死体は密室の中で見つかったではありませんか」

 密室の中で見つかった、か。彼女は思わず小さく笑う。

「それ、面白い表現ですね。密室は扉が開かれて初めてそれが密室だとわかります。開かれなければ死体が見つかることもないんです。開かれて初めて密室が完成するなんて、おかしいですよね。開かれたらもう、密室じゃありません」

 何が言いたいのかと制服警官達が顔を見合わせる。

「つまりですね、この現実世界には、密室殺人なんて存在しないんです」

 彼女はゆっくりと部屋の中を歩き回る。そして静かな口調で本堂に問いかける。

「仮に密室殺人が存在するなら、犯人はそもそも何故、現場を密室にする必要があるのでしょうか?」

「事故に見せかけたり、自殺に見せかけたり、ということじゃないですか?」

「その通りです。そもそも密室だから殺人が無罪になる、みたいな判決は存在していません。誰にも知られないように合鍵を作ったんだろう、よくわからないがどうにかして部屋に入ったんだろう、所詮密室は状況証拠の一つに過ぎず、殺人の物的証拠があれば密室なんて強引にいくらでも無視出来るんです。つまり、密室を作る目的は、他殺に見えないようにするということに尽きるんです。ですが、今回の事件では被害者は頭部打撲で死亡、現場に凶器も残されていません。どう考えても他殺なのに、犯人が密室を作る理由がありません。とするとこう考えるべきです。この部屋は密室ではなく、密室に見えているだけだと」

 彼女の言葉は熱を帯びてくる。

「この部屋が密室に見えている一番重要な因子は何かと言えば管理人の存在です。もし管理人が一人で被害者を発見していれば、窓が施錠されていた、鍵がベッドサイドテーブルにあった、そんな発言を誰が信じるんです? 見間違い、聞き間違い、勘違い、あるいは嘘をついているか。そう考えて誰も密室だなんて本気にはしません」

「それはそうでしょうが、実際は警備員や管理会社の人間と一緒に部屋に入っていますし、窓も鍵も三人で確認しています」

「たしかに利用規約では複数人で部屋に入ることになっていますが、部屋に入ったあとバラバラに行動されれば証言に証拠能力はありません。偶然、三人がずっと一緒に行動していたから成立しているんです。つまり、意図的に密室を作ったわけではないんです。そして、偶然密室に見えているだけ、と考えればあとは簡単です」

 それから彼女は本堂の持つ捜査資料を手に取るとぱらぱらとめくる。

「順を追って整理しましょう。まず犯人はどうやってこの部屋に入ったのか。マンションのセキュリティから考えて被害者の防犯意識は高い。押し入った形跡がないとすればもっとも自然な考え方は、」

「被害者が犯人を招き入れた?」

「捜査記録によると被害者は下着姿で発見されています。衣服はベッド脇に散乱、衣服に血液は付着していません。殺す前にわざわざ服を脱がせる理由がないなら、」

「犯行時、被害者は下着姿だった」

捜査資料には少女がうつぶせでベッドに倒れている写真がおさめられている。下着姿の少女。シーツに広がる血痕。だとすると、「だとすると、犯人と被害者はそういう関係にあったと考えられます。何らかの原因で揉めて思わずその場にあったもので撲殺した。そう考えるのが自然です」

「しかし、現場から凶器は見つかっていません。凶器を持ち込んだのならやはり計画的な犯行では、」

「ベッドサイドでなくなっているものだがあるじゃないですか」彼女は人差し指ですっと唇をなでる。「この部屋には時計がありません」

 それから彼女はベッドサイドを指差して言う。

「ベッドの近くにあるコンセントはあそこだけです。コンセントは二口。一つはサイドテーブルのランプにつながりもう一つは加湿器につながっています。隣の部屋に被害者の携帯電話は充電器と共に置かれています。つまり被害者はベッドには携帯を持ち込まない主義なのでしょう。とすると、サイドテーブルの上には電池式の時計があったと考えるのが自然です。被害者の頭にガラスの破片が残っていたのなら、ガラス製の重い時計が凶器というのは十分あり得ます。防犯意識の高い箱入り娘が気軽に不特定多数の男性を部屋に連れ込んだとは考えにくい。交際相手がいたはずです」

ですが、と本堂は三十分前と同じセリフを繰り返す。「ですが、友人の証言では特定の交際相手はいないと、」

「二十一歳の少女に隠し事がないと思いますか?」

「警部。あまりにも飛躍し過ぎではありませんか。推測だけでそこまで言い切るのは、」「一応根拠はありますよ」彼女はそう言うと、鍵が入っていた証拠品の箱の中からU字型のプラスチックの小さな物体を手に取る。「これなんだと思います?」本堂はわからないという顔をする。「これいびき止めなんです。鼻腔を広げていびきを止める安眠グッズ、本人の物か恋人の物かは知りませんけど、一人で寝るならいびきを気にする必要はありません。これを使うのは一緒に寝る相手がいるからです」

「わかりました。それでは恋人がいるとして、突発的な殺人だったして、それでどうやってここを密室にしたというのですか? 恋人はどうやってここから出て、あの扉に鍵をかけたのでしょうか」

 簡単じゃないですか、と彼女は笑う。「もちろん、この部屋の鍵でです」

「しかし、この部屋の鍵の複製が新たに作られた記録はありません」

「複製を作ったのではないとすると最初から持っていたことになります」

「鍵は三つしかないんです。本人と母親と管理会社、みんな確認出来ています」

「いいえ。三つの鍵の内、この部屋の扉が開くか実際に確かめたのは二つだけです」

まさか、そんな、「母親が持っている鍵、」本堂が思わずつぶやく。

「交際相手のことを友人に話していないのなら家族にも隠していた可能性が高い。合鍵を作れば記録が残りますし、親にもばれるかもしれません。そこで二十一歳の恋する女性はこう考える。滅多に自分を訪ねてくることのない親には偽物の鍵を渡し、恋人に本物の合鍵を渡そうと」

「しかし、この部屋を契約したのは被害者が十八歳の時です。契約書に母親のサインもありますし、鍵を受け取るところに母親も立ち会っていたはずです」

「もちろんその時は、母親は本物の合鍵を受け取ったと思います。きっと、恋人が出来たあと実家に戻った時にでも偽物の鍵とすり替えたのでしょう」

「しかし、今回の事件後、鍵の所在を実家には確認しています。鍵が変わっていれば気付くはずです」

「普段使いの鍵でなければ、似たような鍵だと見分けなんてつきませんよ」

「そんなに上手く行きますか?」

「だって皆さん、実際に間違えたでしょう?」

本堂ははっとして警官が玄関の鍵をたしかめたくだりを思い出す。

「先程はすいませんでした。実は、それがたしかめたかったんです」

 あの時点で、すでに彼女は鍵がすり替わっている可能性を疑っていたのか。本堂は、首都警から来た、このまるで十五歳の少女のような風貌の刑事を侮っていたことを痛感する。当の彼女は飄々とした様子で、そのまま駄目押しするようにつけ加える。

「マンションの利用規約には、住人が不在の場合、住人の許可がない限り、家族であってもエントランス自体を通過出来ないようにと書かれています。家族が部屋に来る時は、前もって本人に連絡を入れていたはずです。とすると実家の鍵は少なくともここ最近は一度も使われたことはないと思います。もちろん娘のことが心配で突然訪ねてくる可能性はありますし、家族ならあるいは警備員も通すかもしれませんが、まあ、そこから先は可能性の問題でしょうね。被害者だってそこまで深刻に考えていたとは思えません。母親に鍵がすり変わっていることがばれれば、そこで初めて恋人の存在を明かすつもりだったのかもしれませんし、あくまで恋人の存在を隠すなら鍵をなくして付け替えた、とでもどうとでも説明出来ます。その程度に軽く考えていた可能性は十分にありますし、密室殺人よりは、はるかに現実的な解釈です」

 それから彼女は腕時計を見ると、隣の部屋に置いてあったリュックサックを背負う。

「交際相手を探して下さい。あと、実家に連絡を入れて鍵を持ってきてもらって下さい」

「連絡します」

 本堂が慌てて携帯電話を取り出すと、彼女は深々と一礼し玄関に向かって踵を返す。

 部屋から出ると足早に廊下を行き、エレベーターで一階におりると急いで車に乗り込みエンジンをかける。まだ間に合う。早く大手前通りのパン屋さんに行かないと。焼き立てのメロンパンが売り切れちゃう。


20240608

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