第9話 樹木魚の章1

 かつて、空を泳ぐ奇妙なを捉え、その力に気付いた者が居た。水に沈めれば雲が晴れ、熱や煙で燻せば雨が降る。小さな村を覆う程度の力だが、それで十分、寧ろ好都合と考えた者が手にしたことが、すべての始まりだった。


 力には、命という代償が伴った。

 小動物では足りない。猪でも熊でも足りない。それが求めるのは、命のだった。


 折悪しく……その人物にとっては折好く、その年は雨の少ない年だった。

 周囲から抜きんでて、神と崇められる価値と快楽に抗える者は多くは無い。その人物も己の欲望に従った。

 まだ幼かった我が子を贄にして。


 この時から、次丸の運命は決まっていたのだろう。



 あの日、儀式を怖がる弟とこっそり入れ替わってくれた優しい兄は、翌朝には倉の中で冷たくなっていた。

 雨音と水の匂いが満ちた倉の中、兄の遺体の横で呆然とへたり込む次丸の胸倉を父親は掴み上げ、何度も、何度も殴りつけた。兄の遺体に縋りついた母は父を止めようともせず、次丸を充血した眼で睨み、口を滑らせかけた。

「何でお前が……!」


 ――生きてるの。


 母が飲み込んだ言葉に、次丸は気付いた。


(俺が儀式で死ぬはずだったんだ。父ちゃんも母ちゃんもその心算でいたんだ)


 それ以来、次丸は倉に近付くことも出来なくなった。

 父も母も、次代の村長になる兄には厳しかったが、次丸が何をしても叱ることは無かった。次丸は己の方がよほど大事にされていると思っていたし、多分、兄もそう考えていたのだろう。次丸の頭を撫でる兄は、時折寂しそうな顔をしていたから。

 兄が亡くなり暫くして、父は次丸に己の仕事を教え始めた。長としての仕事について。そしてもっと大事な、箱の中身について、儀式について。

 己が「いざという時の備え」であったと決定的な言葉を口にされても、次丸の心は何の痛みも覚えなかった。屹度、何も知らぬまま死んでしまった兄の魂と一緒に、己の心も樹木魚に飲み込まれてしまったのだと思った。


 兄の死から十年が経ち、所帯を持った次丸は、父の仕事を正式に引き継いだ。

 次丸の父も祖父もそのもっと前の代も、余程の事がない限り樹木魚を頼ることはしなかった。目立たず、それでいて己の一族の優位を保つ為に、先祖達は村を飢えから、一族を村から、儀式は最後の手段とすることで護って来たのだ。

 しかし、次丸はそれだけでは足りなかった。


 ――なあ、父さん母さん。こういうのは、最初が肝心なんだ。俺に力があると思えば、誰も問題なんて起こさない。村の為なら多少の犠牲は仕方が無いんだろう? だからさ、安心して死んでくれよ――


 些細な事で樹木魚を使わせる息子に許しを乞うていた父母も、そう次丸が嗤えば、結局は黙って従った。

 二人がかりだったお陰か、好天続きで大した力を使う必要が無かったからか、父母は幾年も儀式を乗り越えた。やがて村の誰も次丸の力を疑わなくなった頃、父母は漸く次丸の前から消えてくれた。


(ああ、せいせいした。これで俺以外、儀式を知る者は居ない。樹木魚これは俺だけのものだ)


 死んだも同然の身だ。ならばせめて、村を豊かに大きくするんだ――ただ一人、自分を心から慈しんでくれた兄の代わりに。



(そうだ。俺は兄貴の望みを叶えてやると決めたんだ。ここを、もっともっと立派な村にするんだ)


 自由を奪われ、呼吸すらままならない状態で、次丸は精一杯りんを睨んだ。


「俺、を、殺すのか」


 りんは、にい、と笑い、小さく頭を振った。


「殺めるなど、とんでもないことでございます。こう見えてわたくし、殺生を好みません。そもそも貴方様が樹木魚を乱用してくれたお蔭で、この近くまで辿り着けたのでございます。これを見つけるに至った恩人に手をかけるなど、出来よう筈がございません」


 りんは言葉を切り、耳をそばだてた。


「お気付きでございますか? 皆様が挙っておいでのようでございますよ。中ノ村だけではなく、先ノ村と奥ノ村の方もいらっしゃいます」


 りんの言う通りだった。最早隠すつもりもないのだろう、垣の向こうから、泥濘ぬかるみをべちゃべちゃと踏み鳴らす沢山の足音が聞こえてくる。


「どうやって貴方様に悟られない様に、先ノ村と奥ノ村が結託出来たのか不思議でございますか? 簡単な話でございます。中ノ村の皆様が、彼等の往来を貴方様に伝えなかっただけ……いえ、わたくしの企みではございません。わたくしは一助様から、今日この時、貴方様に一服盛ってでも家に居るよう仕向け、首尾を村に潜んだ皆様に報せて欲しい、と頼まれただけでございます。折角でございますから、薬よりも確実な手を打たせていただきました」

「なに……?」


 りんの顔に張り付いた笑いが深くなる。


「収穫祭の前日に、貴方様は儀式を行うと信じておりました。残念でございますが、貴方様が想っている程には、皆様は貴方様を想ってはいないようですね」

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