第7話 儀式の章、再び

 収穫祭前日。


 生憎の雨模様だった。明け方暗いうちから降り出した雨は、しとしとと屋根を叩き続けている。

 昨日よりも少し早目の夕餉に、客間に現れたりんが、きょろきょろと部屋を見渡した。


「梔子様の姿がございませんが……」

「気にするな。あいつにはやることがある」

「左様でございますか。それにしても、皆様が収穫を終えていたのは幸いでございましたね。この様子ですと、明日の収穫祭は延期でございましょうか……」


 明後日には村を発つ予定のりんが溜息を吐く。


「雨も上がらないようですし、この後に皆様のお住まいを回ってみようかと思うのですが、よろしゅうございますか?」

「……こんな刻限に、雨の中をか」

「ご心配には及びません。悪路にも闇にも慣れております」

「いや、そんな心配はまったくしておらんが」


 素っ気ない言葉に、りんが小さく笑う。


「皆様が手仕事を終えられる刻限ならば、ご迷惑にならないのではないかと。拵えた薬の幾つかを今の内に売ってしまえば路銀に余裕ができますから、明日が悪天ならば、いっそ骨休めの日にあてようかと思っております。もし雨が上がって収穫祭が行われれば、今日の商売が呼び水になって更なる儲けが期待できましょう。何方にしても得になる、というわけでございます」

「……好きにしたらいいだろう」


 次丸が頷くと、りんが糸のような目を更に細めた。

 互いに食事を終え、次丸は、まだ幾分か明るさの残る薄闇に雨具で蓑虫のようになりながら屋敷を出ていくりんの背を見送った。


 次丸は既に明日のそらいた。次丸だけではない。明日の収穫祭は恙無く行われるだろうと、村の誰もが知っている。出掛けていくりんを止めなかったのは、何故そう言い切れるのかと問われるのが面倒だったのと、この雨が上がる為には屋敷に人気がない方が都合が良かったからだ。


 静まり返った屋敷の最奥にある部屋で、次丸が後ろ手に引き戸を閉めた。

 かつては次丸の父母が過ごしていた部屋だったが、今は人が寛ぐための設えなど見当たらない。殺風景な部屋の真ん中には水の張られた盥と灯明皿が置かれ、その前に、青い顔を俯かせた梔子が正座している。

 次丸は手にしていた鍵を梔子の傍に放ると、部屋の隅に顎をしゃくった。

 梔子はのろのろとそれを拾い、部屋の隅に置かれた行李の前に屈み込むと、震える手で行李に掛けられた鍵を外し、中から木箱を取り出した。燻され変色しきった木箱には、十字に鎖が掛けられている。


「今回は『陽呼びの儀』だ。覚えているな? 以前通りだ」


 僅かに躊躇い、梔子は頷いた。弾みで、木箱にかけられた鎖が、がしゃり、と音を立てる。その音に梔子は肩をすくませた。


(まただ。いやだ、いやだ。儀式が終わるといつも具合が悪くなる。こわい。でも、真夏に水呼びの儀をやらされるよりは、数倍ましだ。暑さの中で置炉をひたすら見てると、あっという間に気を失いそうになるもの)


 腰帯に挟んだ小刀に手を添え、先程と変わらぬ位置で梔子の一挙手一投足に目を光らせる次丸に、盥の前に戻った梔子は、腰を下ろしながらこっそりと溜息を吐いた。


(刃物など持ちださなくても、逃げ出したりしないのに……きっとわたしは、このために買われた道具なのだから)


 この儀式の意味も、箱の中身が何なのかも、梔子は知らない。ただ教わったまま木箱を水に沈め、青い顔でそれを見つめる。


「この程度の雨なら、じきに上がるだろう。それまで耐えろ」

「いえ、今すぐをお渡し下さいませ。そろそろお返し願いたいのです」


 隙間風のような声に、踵を返しかけていた次丸がぎょっとした顔を上げると、音もなく引き戸が開いた。

 そこに立つのは、蓑虫のような影。

 影が身に纏った雨具を床に落とし、ひょろりと細い脚を一歩踏み出すと、辺りに樟脳のにおいが広がった。灯明皿の明かりが、薄っすらと笑いが浮かぶ顔に陰影を揺らめかせる。

 梔子は咄嗟に盥からびしょ濡れの箱を取り出し、抱きかかえた。


「あんた、出掛けたんじゃ……おい、それ以上勝手に入って来るな!」


 次丸の怒声に困惑と僅かな恐怖が混じる。その頭に次々と疑問が浮かぶ。


(確かに出掛けた筈なのに。足音などしなかった。いつから見られていた。『それ』のことを知っているのか?)


 りんの目は次丸を無視し、ずっと梔子の腕の中に向けられている。りんの口角がきゅうっとつり上がった。


「梔子様には頭が下がります。己の命を皆の為に差し出すなど、並々ならぬお覚悟をお持ちでいらっしゃる。ですが、これ以上はお勧めできません。さ、それをお返しくださいませ」

(……え……いの、ち……? わたしの……?)


 梔子は寸の間目を泳がせ、すぐに青ざめた顔で次丸を振り仰いだ。


 次丸の顔が憤懣に赤く染まる。

 許せなかった。

 怯えを感じている己も。今更状況に気付いたらしい頭の鈍い小娘も。自分を見ようともしないりんの態度も。「返せ」という言葉も。

 全てが許しがたい。


「返すもなにも、中身を見もしないで何を言う! あれがお前の物だというのなら証拠を見せろ。中身が何なのか言ってみるがいい。梔子、それを持って隅に行っておれ」


 剣幕にびしょ濡れの箱を抱え身を固くした梔子に、次丸は舌打ちし、大股で歩み寄ると、その肩を乱暴に掴んだ。その拍子に、箱に巻かれた鎖が音を立てる。


 がしゃ、じゃりじゃり、じゃらり


 うっすらと笑みを浮かべたまま、りんはようやく次丸に視線を向けた。


「勿論、中身は存じておりますとも。尤も、厳密にはわたくしのものという訳でもないのですが……確かなのは、貴方様の物でも、梔子様の物でもないという事。然るべき処へ戻しますので、お渡し下さいませ」


 子供に言って聞かせるような口調に、次丸の頭に更に血が上る。


「なんなんだお前は! 何様のつもりだ!」


 梔子の肩から手を外し、次丸はりんをねめつけた。


「これは俺の物だ。俺だけじゃない、親父、爺さん、そのずっと前から家にあったものだ!」

「例えそれが事実でも、そのことが貴方様のものであるという証しにはならないかと存じます」


 再び次丸への興味を失ったように、りんの目が再び梔子の腕の中の木箱に向く。次丸も梔子も心底どうでもよい存在だと語る態度に怒りが爆発した。


(ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな! 村を支え続けてきたのは俺だ。その苦労も知らないで、どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって)


 次丸は衝動に任せ、こちらを微塵も気にしていないりんに全身でぶつかった。


 さくっ


 次丸がりんから身体を離す。

 梔子の目に、りんの胸から次丸の小刀が生えているのが映る。梔子が声にならない悲鳴を上げた。

 次丸は血走った目で吐き捨てる。


「人の物を横取りしようとするから、そんな目に遭う。旅暮らしのお前の死体なんぞ、そこらに埋めてしまえば誰にも気付かれやしない! いいな、梔子。解っているな? 命が惜しければ、どうするべきか……」


 次丸の怒声が途中で止まった。

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