第1話 儀式の章

 もう何日も雨が降っていない。


 一年で最も暑い時期である。太陽はまるで狂人の笑顔の様に周囲を照り焦がし、水気の無い白茶けた地面は所々がひび割れ、めくれかけている。村のどの田畑も、そろそろ限界だった。

 夜になっても、昼の茹だるような暑さに比べれば多少ましではあるとは言え、空気はまだまだ熱を孕んでいる。そのどろり重苦しい空気に、鄙びた田舎には不釣り合いに堅牢な倉が仄白く浮かんでいる。


 倉の奥では、抱えた膝に顔を埋めた幼子が一人。灯明皿の明かりが、小さな影をゆらゆらと壁に映す。


 倉の中は所狭しと様々な物が置かれていたが、巧妙に開けられている空気取りのお陰か、埃っぽさは殆どない。入り口すぐから積み上げられた荷は、よく見れば間に大人がやっと通れるほどの隙間があり、幾重にも折れ曲がった路地の様に奥へと続いている。

 隙間を進む程に空気はひんやりと冷気を帯び、別世界への通い路を思わせる。その終点、入り口から死角になるところに、大人が大の字に寝られる程の空間があった。


 倉の外とは別世界の様に冷たい気に満ちている空間で、幼子は座り込んでいた。目の前には、水を張った手桶と小さな置炉が用意され、置炉の少し上、ちょうど幼子の二の腕程離れた高さに、酷く煤けた箱が揺れている。


 天井から下がる鉤に掛かった箱を一晩熱し続けるのが、幼子に課せられた勤めだ。


 幼子が今にも泣き出しそうな顔を上げた。眠るときはいつも兄と一緒の部屋で眠り、一人で夜を過ごすのは初めてのことである。父にこの勤めを命じられた時は、どうにか断れないかと母の顔をのぞき込んだりしてみたが、これはお前にしか出来ない名誉な事なんだ、村の皆が助かるんだ、と言われてしまえば、ついに否とは言えなかった。

 やり遂げればきっと村の皆も喜ぶ。父も母も褒めてくれる。何より、いずれ父の後を継ぐ兄の手助けにもなるに違いない……その思いを拠り所に、暗闇に耐える決意をしたのだが。


 倉の中は想像以上に恐ろしく、幼子はこの役目を引き受けたことを後悔していたが、今更逃げることも出来ない。入り口には外から鍵をかけられ、その鍵は父が肌身離さず持っている。朝になり鍵が外されるまで、此処から出る事は叶わない。


 質量を持った闇に呑まれる錯覚に、小さな身体がぶるりと震える。いつもならすぐに思い浮かべることの出来る、「憧れの『楽陽京らくようきょう』で暮らす」という空想にも、今に限って上手く逃げ込めない。

 ぶんぶんと首を振り、気を紛らわせようと桶に張った水を覗き込んだその時。


 がしゃ


 突然の音に、幼子はびくんと首を竦めた。音の出所は、天井から下がる箱の辺りだ。聞き間違いと自分を騙すにはあまりにもはっきりと聞こえ、恐ろしさに、幼子はとうとうべそをかきだした。


「大丈夫か? 泣いてるのか?」


 背後からのふいの声に、幼子は文字通り飛び上がった。恐る恐る振り返ると、幼子とよく似た面立ちの子供が荷の影から顔を覗かせる。


「兄ちゃん! あれ? 鍵は……」

「予備の鍵で開けた。前に、父さんが竈の裏に隠してるところを見たんだ」


 兄は右手を開き、掌に乗せた鍵を弟に見せた。幼子は兄に抱き着き、顔をその肩に押し付けた。汗で湿気ている兄の服に、幼子の涙がじわりと広がる。

 兄は優しく弟の背をさすりながら辺りを見回し、弟が落ち着くの見計らって、ここで何をするのか尋ねた。

 弟の話を聞き終え、兄は首をひねった。


「その箱を置炉で燻して、朝まで見張るだけ? そんなの、誰がやっても良さそうなのになあ。よし、俺が代わるから、お前は母屋に戻っておいで。夜具を頭から被っていれば、もし父さんか母さんが急に部屋を見に来ても、屹度入れ替わってるって気付かれないだろう。暑くても、ちょっと我慢するんだよ」

「だめだよ兄ちゃん、これは俺の仕事だもん。俺、兄ちゃんの役に立ちたいよ。それに、あの箱変だよ! もしかしたら、お化けが入ってるのかもしれないよ」


 慌てる幼子に、兄は頷いた。


「なら、やっぱり俺がやる。俺はお前の兄ちゃんだぞ? お前より大人なんだから、弟に怖いの押し付けたら駄目だ」

「大人っても、俺と一つしか違わないじゃないか」

「それでも、俺の方がお前より大きいもの。それに、お前はいつも俺を手伝ってくれるじゃないか。さ、もうお行き。早くしないと、父さん達に気付かれる。夜明け前に入れ替わらなくちゃいけないんだ、寝坊するなよ?」


 兄は微笑み、唇を尖らせる弟の頭を優しく撫で、小さな手に倉の鍵を握らせた。 

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