ソード・エッジ/ブレス・アズール 紺碧の剣士と八柱の聖霊
大根入道
第一章 旅立ち
夕暮れの中の始まり
ここから遥か遠く、遥か昔に生きた、一人の男の記憶。
俺の前世。
神話や歌に語られる英雄や姦雄などではない。
地球と言う星の日本という国に生まれた、凡庸で意味の無い存在だった者だ。
その男は三十八歳まで生きた。
非正規の仕事である肉体労働をこなし、心身を消耗しながら、俯き、未来を諦めながら生きていた。
朧げに人好きだった頃の記憶は残っているが、学校という閉じた空間で過ごす内に歪み、人を恐れ嫌うようになっていった。
―― 人は決して相容れない、信用できない、理解できない。
その想いが男の中に刻み込まれた。
―― 人間は人間の輪の中でこそ、人間として生きる事ができる。
そこから外れた人間は堕ちて行く。
特別な価値を、秀でた才能や技能、或いは他者を屈服させる圧倒的な力を持つ者だけが輪を超えて、上へと行けるのだ。
しかし男に、そんなものは無かった。
躓いたが最後、後は堕ちて行くだけだった。
―― 働いて、寝て、働いて、寝て。
―― 得難き微睡の中で空虚に耽る。
実家に住んでいたからこそ辛うじて生きていけた男は、ある日遂に、その人生を父親に否定された。
最後の望みと賭けた資格の試験が終わり、『不合格』と書かれた通知はがきを、呆然と机の上に置いた。
父は蔑んだ眼で、男の努力に溜息を吐き、「だからお前は駄目なんだ」と言った。
―― それで心が、完全に折れてしまった。
……。
家は追い出された。
そしてまた、辛い日々を繰り返して。
また少しだけ、無駄に足掻いて。
最後と思い、試験の会場へと向かう途中で。
ふと、綺麗な海の景色に気付いた。
島々に囲まれた海峡に掛かる橋。
通りゆく船。
遠くに見える小さな島。
古い時代の家々が立ち並ぶ、坂の町から見たその景色。
観光客達も楽しそうに、俺と一緒に、箱庭のような風景を眺めている。
その光景に心が震えた。
一心に歩いて、橋の上に辿り着いく。
風と潮の匂いに身を委ね、目を閉じる。
目を開ければ、空と海に満ちる、美しい色がある。
それが欲しいと思い、それと一つになりたいと思った。
飛んだ。
溢れる潮の匂いの中で、男の記憶は途切れた。
……。
……。
……。
* * *
* * *
……。
……。
……。
「…………うわ、寝落ちしてた」
目を瞑る前は青かった空は、茜色に染まっていた。
唾の味が苦い。
多分、前世の夢を見ていたんだろう。
「バカバカしい。俺はヨハンだ」
言い聞かせるよう呟いて、横に置いていた剣を掴んで立ち上がる。
鉄よりも重い金属を使って造られた、大人が使う為の練習用の剣。
十歳の身体よりも長いそれの柄を両手で握り、遠く、真っ直ぐに伸びる杉の木に沿うようにして振り上げ、振り下ろす。
その数が百を超え、千を超える。
(力が欲しい!!)
何度も願った想いを心の中で繰り返す。
手の豆が潰れた痛みや、身体の筋肉が上げる悲鳴も、歯を食いしばって無視をする。
どんなに鍛えても一流は見えず、二流も遥か、三流にさえ遠い。
だが、抱える欠陥が、その全てを無意味にする。
誰もが魔力を持ち魔法を使うこの世界で、俺の魔力の量は絶望的なまでに少ない。
小さな魔法させ発動出来ない。
怠惰に生きる子爵の息子、肥満体のクソ野郎が使う魔法でさえ、魔法的抵抗力の乏しいこの体では、一つ当たるだけで大怪我を負ってしまう。
だが何よりも屈辱なのは剣の試合だ。
少し鍛えた程度の奴に、強化魔法を使われるだけで、圧倒されてしまう。
どんなに素の力を鍛え技を高めても、剣と魔法の両方を手にしただけの奴に負けてしまう。
だから。
魔法の使えない俺は。
ずっと敗者のまま。
「ラァッ」
渾身の力で振り下ろした剣を、その切先が紙一重だけ地面から離れた場所で、止めた。
「ハァ、ハァ……」
流れ落ちて来る汗が目に入る。
剣を千回振り切る事ができても、クソガキが放つクソみたいな魔法にさえ抗えない。
「全部斬る。斬ってやる」
もう一度剣を振り被る。
『全く、魔法の使えない奴ってのは哀れでしかないな~』
―― 口に血の味の記憶が広がる。
「ッ」
ドンッと音を立て、剣の切先が地面にめり込んだ。
悪夢を叩く様に、逃れるように、ただ無様に柄を握り締めた。
「いたっ、ヨハンッ」
「……エリゼ」
空地の入口から、長い亜麻色の髪を揺らした少女が駆け寄って来る。
「ヨハンッ、ヨハンッ!」
強く抱き締められる。
「怪我は大丈夫なの? どこか痛い所は?」
「病院で治療魔法を受けて治ったよ。痛む所は、もう全然無いから」
全力で抱き着いて来るその子供らしい本気が、無性に嬉しかった。
「ヨハンが魔法で吹き飛ばされて、私心配で、とっても心配で! ウワ―――ン!!」
朽葉色の瞳を涙に濡らし、泣き出してしまったエリゼの頭を撫でる。
魔力の無い俺を、誰もが馬鹿にした。
力の無い事は、とても惨めだった。
前世も今世も、弱いままの自分が嫌いだった。
いや、見たくはなかったのだ。
悪意は弱さを傷付けて、そして心の中に入って来る。
なまじ前世を覚え、大人の感性で悪意がよく分かる分、やり過ごす事が難しい。
―― 人の世界は、普通の
だからエリゼの善意が身に染みる。
「ありがとうエリゼ」
「私は何もしてないよ。だけどヨハンが泣いている。やっぱり痛い所があるの?」
「いや、いいや」
エリゼに心配を掛けたくない。
でも涙が止まらない。
―― 力が欲しい。
それが絶望だとしても、願わずにはいられない。
「すみません」
知らない人の声が聞こえた。
「ちょっと迷ってしまいまして。すみませんが、道を教えていただけないでしょうか?」
空地の入口に、一人の男が立っていた。
黒い髪と、紅い瞳に眼鏡を掛けた、どこか茫洋たる気配を纏った魔人。
青年のような容姿をしているが、魔人はエルフ以上の不老長寿を持つ種族であり、外見からその年齢を測ることが難しい。
年齢を重ねた魔人の強さは、人間のそれを大きく超えると聞く。
しかし何よりも、彼が腰に差している物に、強い異常を感じた。
宝飾の類は一切ない、ただ白いだけの剣。
しかしここまで強い潮の匂いを嗅いだ事は無かった。
白い剣を注視する俺に、魔人の男が首を傾げる。
「彼はこいつを恐れている? ただの子供が、
魔人の男の姿が消え、それは一瞬で俺の目の前に現れた。
(こいつはやば過ぎる!!)
逃がすのも間に合わないと悟り、エリゼを守る為に腕の中へと抱え込む。
「ヨハン?」
「大丈夫だエリゼ。死んでもお前だけは守る」
全力で強化魔法もどきを発動させる。
この身を盾にして、エリゼを守る為に。
消費される魔力と共に、体の熱が消えていく。
死を覚悟して、歯を食いしばり、魔人を睨み付けた俺の額を、デコピンが打った。
「痛っ!?」
「あのさ、ボクには君に危害を加える積もりなんて無いんだよ」
涙目で見た魔人は、唇を尖らせて、拗ねた表情を作っていた。
「結構な時間を道に迷ってクタクタなんだよ、実際。連れとは
声は段々小さくなっていき、最後には肩を落とし、『ぐ~』とお腹を鳴らした。
ただならぬ気配は跡形も無くなり、ただ
「この人可哀想……」
慌ててエリゼの口を塞ぐ。
幸いな事に聞き流してくれたようだった。
いや、もう怒る元気も無いのか。
同情して、蔵庫から出した焼き菓子を差し出した。
「よろしければどうぞ」
「……ありがとう」
口に入れてもぐもぐと続け、すぐにごくんと喉が鳴った。
「美味しかった~。あの、もう無いかな?」
「すみません、これだけしか」
「……そうか」
また項垂れる。
(凄い剣を持っていて、凄く強そうなのに。ダメな感じがそれ以上に凄い)
ほっとくと、迷子のまま行き倒れになりそうな気がした。
「あの、俺が道案内しましょうか?」
「え、ほんとに?」
パッと上がった顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「ヨハン……」
袖を引くエリゼに大丈夫だと答える。
「この人からは潮の匂いがしない。それに、この剣が選んだ人なら、悪い人じゃない」
確信がある。
この白い剣は、意志を持つ魔剣だ。
強い潮の匂いこそあるが、それには一切の濁りが無い。
相応しくない使い手を拒絶するだけの力を、この白い剣は持っている。
「ははっ、メサイアを見て『悪い人じゃない』と言ってくれたのか。なら絶対に悪い事はできないね」
魔人が右手を差し出してきた。
「ボクの名はハリス。【
握手をした後魔人、いやハリスが人差し指で地面に環文字と統一文字で名前を書いた。
とてもドスの効いた異名だった。
(
後には引けず、ハリスの手を握る。
「俺の名は【ヨハン・パノス】だ」
「私は【エリゼ・ダーン】。よろしくね」
「ヨハン君にエリスちゃんか。こちらこそよろしくお願いするよ」
黄昏の風の中で、ハリスは無邪気な笑みを浮かべた。
「それで、ハリスは何処を目指してるんだ?」
「バレル亭という酒場なんだけど。その前に連れを見付けたいんだ。しっかりしてるけど、何分子供だから……」
「その子の特徴は?」
「短気で暴れん坊、おまけに人参が嫌いなんだよ」
「いや、そうじゃなくて目印となる身体的な方」
大丈夫かこの人?
「あ、ごめん。彼女は真っ赤だよ。髪も瞳も炎のように真っ赤。だから怒ると怖いんだよね」
短気で怒りっぽいか。
その子は冷静に考える事ができるタイプではないようだ。
ならば。
「先に衛兵の詰所に寄ろう。先にバレル亭に着いている可能性もあるが、それならそっちの方が安全だ」
衛兵の詰所には必ず探知魔法の使い手がいる。
「探知魔法、その手があったか。いや、しばらく使って無かったから……」
ぶつぶつと何かを呟くハリス。
そして詰所に向かおうとした時だった。
「見付けたっ!!」
空から赤い物体が降って来た。
それは流星のように宙を翔け抜け、ハリスの腹にダイレクトアタックを決めた。
「ぐほっ!?」
空地の端へと吹き飛んで行くハリス。
呆気に取られ、佇むままの俺とエリゼ。
そこに気の無い風が吹いて……。
「プッ」
「ヨハン?」
「ア―ハッハッハッハ」
とても可笑しくなって、腹を抱えて笑ってしまった。
怒りの声と謝罪の声が、紅い光に染まった空地の中に響いている。
この馬鹿々々しい出来事が、俺達と先生、そして彼女との出会いであり。
全ての始まりだった。
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