第四章 大海の一滴

 風間が書店から出てきたのはそれから二時間後のことだった。店の壁に寄りかかりながら先ほど買った『鵼の碑』を読み始めていた谷本は、うっかり見逃しそうになり、慌てて本をリュックに仕舞って尾行を始めた。


 風間は駅とは反対方向、すなわち海の方向に向かってシャッターの閉まった店々の前を深刻そうな顔をして歩いていた。やはり事件に関係のあることを考えていたのだろう。


 谷本は風間にバレないように慎重に尾行をしたが、あまりにも人通りが少ないため、それは決して簡単なことではなかった。ときには谷本が風間の百メートル近く後ろから追いかけるような形になる場面すらあった。


 十五分後、風間は漁港に辿り着いた。漁港とは言っても、海には船が数隻泊められ、陸にはボロボロの開放的な小屋が何軒か建っているのみだった。谷本は港の入り口にあるトタン製の小屋の後ろに隠れた。


 風間は、海際にある一軒の小屋に声を掛けた。出てきたのは五十代くらいの日焼けした男だった。谷本が見たことのない男である。体つきはがっちりとしており、とても健康そうな見た目だった。


 男は最初は笑顔を浮かべていたが、風間の思い詰めたような表情に気づくと、途端に顔に翳りが差した。第一印象では三十代にも見えたが、今や年齢相応の疲れ切った顔をしている。


 風間が訥々と話し始めた。男は黙って聞いている。場所が離れているので、谷本には風間が何と言っているのかは聞こえない。


 話が終わると、なんと男は右手を口元に当てて嗚咽を始めた。生まれて以来、一度も泣いたことがなさそうな男の涙に谷本は驚愕した。男は、ついには膝をアスファルトに付け、頭を下げて号泣し始めた。風間はそんな男をただ黙って見下ろすだけだった。だが、その目は微かに潤んでいるようにも見えた。


 風間は最後に一言だけ言い残すと、地面に膝を付いた男をその場に残して来た方向に戻っていった。


 谷本はひっそりとその様子を眺めていたが、風間が自分のいる場所に向けて戻ってくることに気づいて焦った。もう数メートル先まで風間は戻ってきていたが、谷本は今いる小屋以外に隠れるところがない。トタンの壁にピタリと体をくっつけてやりすごすしかなかった。


 当然ながら、そんなお粗末な隠れ方で気づかれないわけがなかった。風間は小屋の横を通った瞬間に、壁に密着している男の存在に気づいて小さな悲鳴を上げた。


「谷本さん! 何をしているんですか!」


「ごめんなさい。でも、どうしても気になってしまって」


「ストーカー行為ですよ。警察を呼びますから」


 風間はスマートフォンを取り出した。谷本は両手を振って否定する。


「そんなことはありません。もう二度と会いませんからご勘弁ください。ただ、一つだけ教えてください。あの方が今回の事件の犯人なのですか?」


 スマートフォンを操作する手を止めると、風間は呆れたような口調で言った。


「ずるい人ですね、谷本さんも。もしも通報されたら、警察に犯人を喋るという脅しですか」


「そういうわけではないですが……」


 本当にそんなことは一ミリも考えていなかった。


「わかりました。通報するのはやめます。でも、谷本さんも今後二度と浜波村に来るのはやめてください。週刊誌にネタを売るのも禁止ですよ」


「承知しました。誰にも言いません。だから、せっかくなので教えていただけませんか。あなたは書店で私と話をしていたときに一体何に気づいたのですか?」


 風間は溜め息を吐いた。そして、ゆっくり来た道を戻り始めたので、谷本はその後ろから付いて行った。


 しばらく無言で歩いてから、風間は唐突に口を開いた。


「山菜採りの山科さんが、綺麗な五十円玉二十枚を二週間続けて持ってきた理由です」


「えっ?」


「谷本さんに訊かれて気づいたことです。思い返してみれば、あの五十円玉は四十枚すべてが綺麗だったんです。そこから色々考え始めました。一枚や二枚ならともかく、四十枚すべてとなると山科さん本人が事前に洗ったとしか考えられません。


 とすると、疑問点は二つ。なぜ山科さんは五十円玉を掃除したのか? そして、なぜ四十枚も五十円玉を持っていたのか? です。五十円玉は一回の会計のお釣りで最大一枚しかもらえないので、決して溜まりやすい硬貨ではありませんから。


 山科さんがレジを使うような仕事をしていれば五十円玉も溜まるかもしれませんが、そうではありません。山科さんの仕事は山菜採りです。それならば、五十円玉をずっと貯金していたのかもしれませんが、それならば、なぜ急に千円札に両替しようと思いついたのでしょう。両替するにしても、一気に四十枚持ってくれば良いはずです。二回に分ける意味がありません。


 二回に分けたことには、注目を避ける狙いがあったと考えられます。五十円玉を何十枚も持ってきてしまうと両替するのに時間が掛かって、私だけでなくそのとき店内にいる他の客からも注目を集めてしまいかねません。私だけだったら、村内の人間で顔も知っていますから、毎週五十円玉を二十枚持ってきて多少の注意を払われても構わないと考えたのでしょう。


 つまり、山科さんは貯金ではない五十円玉を四十枚以上持っていたということになります。そして、それをできるだけ注目を浴びない形で使いやすい千円札に両替しようとしたのです。もしかしたら五十円玉は四十枚だけではなく、六十枚、あるいはもっとあるかもしれません。来週も両替に来るかもしれませんから。


 ここからわかるのは、山科さんはつい最近、五十円玉を大量に入手する機会があったということです。


 後になってわかったことですが、山科さんが五十円玉を持ち込み始めたのは金宮さんが殺害されて以降だった可能性があります。最初に持ってきた日が八日前、そして金宮さんの死亡推定時刻は最も早くて十日前です」


「でも、さっき港で泣いていた人は山菜取りの人じゃないよね? 先週、俺もその人を見たけど、もっとお年寄りの雰囲気がある人だったよ」


 谷本は風間の長広舌を遮ってようやく自分の意見を述べた。正直、風間がこれほど饒舌な人間だとは知らなかったので、圧倒されていた。


「その通りです。もう少し話を聞いていてください。話を戻しますよ」


 風間は相変わらず神妙な面持ちで言った。

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